ヘンリー・アームストロング Henry Armstrong

mario kumekawa

  デビュー後の成績が芳しくなくて落ち込んでいる新人ボクサーをなぐさめてやりたければ、ヘンリー・アームストロングの話をしてあげれば十分だろう。

 まず間違いなく古今東西のボクサーの中で3本の指には必ず数えられる偉大なチャンピオン、アームストロングは、ブロデビュー戦が3回KO負け、4戦を戦った段階で1勝3敗という惨憺たるたる戦績だったのである。

 ミシシッピー州の片田舎で生まれたアームストロング(本名ヘンリー・ジャクソン)は、幼くして両親を失い、少年時代を大勢の兄弟姉妹とともにセントルイスで過ごした。年齢をいつわって肉体労働のアルバイトで生き延びていたーヘンリーだが、やがてボクシングで稼ぎはじめる。「アマチュア」ながら報酬をもらって試合に出場し、食いぶちを得ていたのだ。

 当時の黒人ボクサーの地位はまだまだ非常に低く、興行主たちも彼らを「使い捨て」扱いしていた。適切なマッチメークなどあるはずもなく、ヘンリーたちはしばしば自分よりもはるかに大きな白人ボクサーと戦わわされたのである。

 希望はなかったが、ヘンリー少年はボクシングが好きだった。どんな試合でも、ボクシング会場には特別の空気があると思った。リング上のライトほど、晴れ晴れとしたものが他にあるとは思われなかった。ボクシングに真剣に打ち込んだヘンリーは、興行主に酷使されながらも生き延びるテクニックをあみだしていった。

 あまりの体格差がある場合、ガードの上からでも打たれたらダメージを受けてしまう。また、こちらのパンチが当たっても相手は一発では倒れてくれない。アームストロングの取った方法は、相手に攻撃のヒマを与えないほどに手数を出し、打って打って打ちまくることだった。

 ヘンリーはこの戦法で、草試合ながら62試合を戦い、58勝をあげたと言われている。後に“ノンストップ・マシーン”と呼ばれるアームストロングのスタイルの基礎は、このセントルイス時代に作り上げられたのだった。

 本格的にプロボクサーとして身を立てたいという野望を抱くにいたったヘンリーは、19歳のとき家を離れ、ヒッチハイクをしながら西海岸にやってきた。

 サンフランシスコでプロデビューしたヘンリーだったが、当地のプロモーターたちも故郷セントルイスの興行主と変わるところはなかった。違っていたのは相手の質で、ロスアンゼルスあたりからやってくる本当の“プロ”ボクサーたちは、田舎のファイターのようなわけにはいなかった。ヘンリーのプロボクサーとしてのスタートは、冒頭に述べたような暗いものとなっってしまった。

 迷ったヘンリーは、プロキャリアを隠してアマチュアに復帰、友人のハリー・アームストロングの名を借りて「ヘンリー・アームストロング」と名乗り(それまでは「メロディー・ジャクソン」の名でリングに上がっていた)、ロサンゼルス・オリンピックの予選に出場したが、小差判定負けで敗退。良い転機にはならなかった。

 だが、ヘンリーにひとつの幸運がおとずれる。ロスを拠点としていた有名なジャズ・シンガー、アル・ジョンソンが、ヘンリーのファイトに目をとめたのだ。ジョンソンは3度のメシよりもボクシング観戦が好きだった。その肥えたジョンソンの眼力は、ヘンリーのボクシングの中に潜むとてつもない可能性を見抜いた。

 ジョンソンはヘンリーを知り合いの辣腕マネジャー、エディ・ミードのもとに連れていった。ジョンソンとミードは、ヘンリーを「中量級ボクシングの大スターに育てよう」と考えた。もともと芸能界の人間であるジョンソンは、売り出しも巧みだった。

 ヘンリー・アームストロングの驀進が始まった。ヘンリーの並外れた体力を見込んだミードは、次から次へと彼をリングに上げた。圧巻は1986年8月から翌年10月までの14ヵ月だ。この間、アームストロングはじつに31試合を戦って、ひとつの反則負けのほかは全勝、しかもKOできなかったのは3試合だけいう凄まじさであった。

 もはやアームストロングが中量級最強であることは誰の目にも明らかだった。86年10月、ヘンリーは世界フェザー級王者ペティ・サロンに挑んだ。「圧倒的不利」の予想にプライドを傷つけられたサロンは必死で食い下がったが、6回で敗北を認めざるをえなかった。

 お楽しみはこれからだった。アイデアマンのジョンソン&ミードのスタッフは、「ヘビー級王者ジョー・ルイス人気に対抗するために」同時三階級制覇というとてつもない企画を思いついたのだ。

 アームストロングはやってのけた。フェザー級王座を獲得した7ヶ月後には世界ウェルター級王者バーニー・ロス(この人自身も3階級制覇の大豪だ)をめった打ちにしての大差判定勝ち。さらにその2ヵ月半後の38年8月にはルー・アンバースの世界ライト級王座をも判定で攻略した。

 フェザー級王座は返上し、ライト級王座は翌年アンバースに判定で奪回されたが(ウェルター級王座を守りながら、ライト級の防衛戦をするのはさすがに無理だった)、ウェルター級王座はじつに19度に渡って守り通した。

 ずいぶん後になってからわかったことだが、アームストロングの心臓はいわば特異体質で、心拍数が以上に少なかった。それで、試合前には控室で10ラウンドの激しいシャドーボクシングしてやっとウォームアップし、その後15ラウンズにわたって相手を苦しめぬいたのだった。

●ヘンリー・アームストロング
(1912〜87)ミシシッピ州コロンブス生まれ。本名ヘンリー・ジャクソン。31年7月プロデビューするも、アル・イオビノに3回KO負け。一時アマチュアに戻り、ロサンゼルス五輪予選に出場するも敗退。直後にプロ復帰後は15連続KO勝ちなど好調を維持し、37年10月世界フェザー級王座獲得。38年5月世界ウェルター級王座獲得。同年8月世界ライト級王座獲得。ウェルター級王座は19度防衛。


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