19歳の辰吉の筋肉に天才の輝きを見た!

by mario kumekawa

98年『辰吉丈一郎読本』より

 

 辰吉に初めて会ったのは89年の冬。当時『ワールドボクシング』に連載されていた山崎照朝さんのシリーズ対談で、デビュー間もない辰吉の登場となったのだ。僕は、編集記者として山崎さんに随行したのだった。

 辰吉丈一郎の名はすでに業界内では轟きわたっていた。残念ながら、僕は彼のアマチュア時代の試合を見られなかったのだが、記者仲間の話によれば、「本当の天才」であり、「具志堅? 大橋? それ以上だろう」、「ヤツだけはすぐにでも世界獲るんじゃないか」という噂だった。 じっさいにその「天才少年」に会い、僕は正直、衝撃を受けた。大げさな噂は真実なのかもしれない、と思った。そう思わせたのは、体だ。ジムで上半身裸になり動き始めた19歳の辰吉丈一郎の身体は、信じられないほどの光を放っていた。

 小さいがしっかりした下半身の上に、不釣り合いなほど大きな上半身がどっかと乗っていた。とりわけ肩甲骨や肩周辺の分厚い筋肉は驚異だった。量が多いだけではない。筋ばっておらず、とろりとした光を放っていた。ラリー・ホームズの全盛期の背中に似ている。

 しかも、腕が異様に長い。ゴリラか原始人みたいだ、と僕は思った(失礼)。ゆっくりとシャドーを始めると、独特のクッションの効いたヒザがなめらかなリズムを作り出し、そこから実に良く伸びる左ジャブ、右ストレートが繰り出されていった。

 もし、これがメキシカンのボクサーの姿だったら、僕は驚嘆とともに羨望と絶望感を抱いたことだろう。しかし、目の前にいるのは岡山出身の19歳の少年だった。日本人でこんな怪物的身体を持ったボクサーが出現しえたとは − 。僕は陶然として、汗の吹き出し始めた辰吉の黄金のような背中を見つめていた。

 思えば、あの時辰吉の筋肉に輝いていた柔らかな光は、彼の「天才」そのものでもあったのかもしれない。8戦目でリチャードソンを破り、日本ボクシング史上最短のキャリアで世界のトップに登りつめるまで、変わらずに発し続けられていたあの生命の輝きは、ある時ふっと消えてしまった。

 92年9月、網膜裂孔によるブランクから復帰し、最初のビクトル・ラバナレス戦のリングに向かう辰吉を見て、僕は別人を見ているのかという錯覚に襲われそうにさえなった。 辰吉の身体からオーラが消えている。旨い刺身のような、うっすらとにじみ出るような油の感じがない。顔も、体全体もずいぶんと細長くなり、肌からも若さがごっそりと失われていた。それでいて、目だけは以前より険しくなっていた。

 もちろん、小さな下半身にたくましい上半身、長いリーチという枠組みが大きく変わるはずはないのだが、明らかにそこに宿る生命のエネルギーは大きくそぎ落とされていたのだ。もし、ボクシング雑誌のバックナンバーなどお持ちの読者は、リチャードソン戦までの辰吉の身体と、ラバナレス戦以降の辰吉のそれとをよく見比べていただきたい。わずか(と言うべきなのかどうか)1年という期間をおいて、辰吉の肉体ははっきりと変貌をとげている。

 あくまでも滑らかだった辰吉の体の表面には、ラバナレス戦以降は細かい筋肉の筋が見て取れるようになっていた。しばしば「身体の若さ」のバロメーターとされるヒザのうしろの筋肉にも、かつての充溢感と張りが見られない。

 幾多の障壁を乗り越えてのカムバックロードの中で、辰吉は一度は細くなってしまった筋肉をある程度太く戻す作業はなしとげた。しかし、残酷なことだが、それは獲得された筋肉であって、天が与えたもうた天使の翼ではなかった。

 もちろん、本当に強いのは「獲得された筋肉」を使って強いボクサーだ。最近では飯田覚士がその典型だろう。飯田の身体には、本人の意識に貫かれた細くて強い肉の筋が無数に走っている。飯田があの体の「使用法」にもう少しだけ習熟すれば、彼は難攻不落のチャンピオンになるのではないか、と僕は思っている。

 辰吉は違う。意識して獲得したものではない、いわばもともと持っている武器で勝負するタイプのボクサーだ。その意味で、本人が「僕の努力を見てほしい」と言ったとしても、やはり彼は天才「型」なのだ。

 鬼塚勝也が、戦略をつねに「最悪の場合」から練り始めたのに対し、辰吉は試合前「理想の展開」をイメージした。そこから実際の試合が逸脱するほどに「どんくさいことをしてしもうて」と悔いた。

「理想のボクシング」は、コンディション、相性など、諸条件がそろわないと実現しないだろう。ベストの時の辰吉でさえ、相手が少し食い下がると突然長時間打ち込まれり、リズムがばらばらになったりした。そういう意味では、辰吉のボクシングはほとんど変わっていない。それでも、ダイスがかならず良い「目」を出すのが「マジック」だったのだ。(強敵に)勝つ時の辰吉は天才である。敗れる時の辰吉は幼稚だ。

 最初のラバナレス戦以降、辰吉がコンディション的にベストになったことはない。そしてそれは、あの肉体の変貌と深い関連がある、と僕は思っている。かつての辰吉の身体は、明らかに成人のそれである筋肉の量とは矛盾するほどに、子供っぽい、丸いフォルムに縁取られていた。しばしば「天才」の条件とされる「子供」と「大人」の同居が、辰吉の身体においても達成されていた。そして、子供が言葉や遊びを習得するときのあの滑らかさ、あの伸びやかさが、辰吉の初期のボクシングにはたしかにあったのだ。

 あの筋肉は、天然のものであったがゆえに、おどろくほど多様で複雑な作業をいっぺんに実現していた。それが失われた後に、意識して獲得された筋肉は、強さこそ同じかそれ以上でも、かつてのマジックを起こすことはない。 「一度負けたら引退する」と、かつて辰吉は広言して憚らなかった。あの言葉には、むろん若い無敗のボクサーのつっぱりもあっただろうが、実は自らのボクシングの本質を言い当ててもいたのではないだろうか。つまり、一度ほころびはじめたら、彼のボクシングを「復元」することがきわめて困難であることを、辰吉はうすうす知っていたのではないか。

 無意識下にあるものを意識化することで、人間がかならず進歩するのなら、そんな簡単なことはない。事実、辰吉は敗北を克服しながらボクシング頭脳のインプットを増大させ続けてきたはずだ。しかし、辰吉が失ったことを自覚するいくつかのもの、たとえば「バランス」と彼が呼ぶものは、どうしても戻ってこない。

 それがボクシングにおいていかに重要なファクターであるかを、どれほど深く辰吉が理解したとしても、その「理解」とじっさいの「再獲得」はほぼまったく無関係なのだ。

 

 辰吉の今後についても、楽観視する声はほとんど聞こえてこない。しかし、それはそれで本人にとっては良いことだろう。「予想が不利だと良い試合をする」と言われる辰吉だが、「難敵」に対しては「作品」を作る余裕はないはずだからだ。

 シリモンコン戦で最終的に勝負を決めた右ボディーブローこそは、かつての「天才辰吉」のパンチだった。今なお彼にはああいうパンチが打てる。もちろん、繰り返し練習したパンチだろう。だが、それが決定的な場面で爆発するのは、辰吉の「意識」が沈黙し、残された「天才」が目を覚ます時なのではないだろうか。


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