永遠の王者モハメド・アリ −偉大なるメッセージ

by mario kumekawa

98年度『ボクシング観戦ガイド』より

 

●「王者の日々」を求めて

 97年12月、渋谷パルコ前の小さな映画館内で僕は腰を下ろし、あたりをぐるりと見回した。

 モハメド・アリが、今また人々をひきつけているのだという。
 なぜ? アトランタ五輪の聖火点火者としてのアピアランスが皆を感動させたから? しかし、その程度で「ブーム」は起きまい。バスケット・ボール会場の金メダル再授与? いや、あのシーンは日本ではTV放映さえされなかった。ラップの元祖? 言われてみりゃそうかもしれない。しかし、ラップってそんなに流行ってたっけ? 

 むろん僕も、アリ−フォアマン戦のドキュメント・フィルムを見に来たのだ。ビデオでは何度見たかわからないこの試合。ただ、大画面で見られるのはうれしい。また試合だけではなく、ドン・キングの意図した「ブラック・ウッドストック」としてのイベントの全貌が撮影されているというのも関心があった。

 だがそれだけではない。今、アリにひきつけられる人々とはどんな人々なのか。それも見たくてここに来たのだった。
 真後ろには、若い母親に連れられた小学生の男の子。スクリーンの真っ正面にはルーズソックスの3人組(ただし、3人とも眠りこけている)。意外に中高学生が多いようだ。後ろのほうのすみっこには灰色のシャツを着た髪の薄い60歳くらいに見える男性。カップルも多い。

『WHEN WE WERE  KINGS』。アリがフォアマンが、ドン・キングが、J・Bが、B・Bキングがアフリカの黒い大地で躍動する。70年代特有の、人間の普遍的な解放を志向した熱気がスクリーン上に蘇っている。

 あの頃米国の黒人たちに顕著だったアフリカ回帰という思想を、この映画のタイトルは見事に言い当てていた。− 俺たちが王者だった頃。
 そうだ、アメリカにいる限り奴隷の子孫であることを免れえない彼らに取り、アフリカこそは自分たちの民族と文化を担うものとして、すなわち「王(キング)」と血縁の人間として存在しうる土地だった。それゆえ、「ドン」も、「B・B」も、「マーチン・ルーサー」も「キング」だった(『モハメド・アリ − かけがえのない日々』などという邦題や、「誰でも一度は王者になる瞬間がある」という日本的虚偽平等主義のキャッチコピーは、この映画の「意味」をまったく無視しているが、まあどうでもよかったんだろう)。

 80年代には50〜60年代の、90年代には70年代のアメリカ文化が若者の間でリバイバルした。おそらく彼らの親の青春時代(今はそんなもの存在しないんだろうが)のモードの基準だった影響だろう。アリの「復活」は、そんな70年代サブ・カルチャー回帰の一現象でもあるのかもしれない。

●アスリート的思想家

 しかし、アリが「一現象」にとどまる程度の存在のはずがない。彼は“ザ・グレーテスト”なのだ。もっとも、アリは当初自分のことを「地球上で一番偉大なボクサー」とだけ言っていたのだった。まもなくそれが「歴史上最も偉大なボクサー」になった。それだって、ボクシングを良く知る人の前では、「本当は、俺は歴史上最も偉大な『ヘビー級ボクサー』にすぎない。全階級を通じて最も偉大なボクサーは、シュガー・レイ・ロビンソンだ」と言い直していた。

 それが、いつしか諸条件なしの「ザ・グレーテスト」になっていった。フォアマンに勝って奇跡の王座復帰を果たし、世界中で防衛戦を行うツアーを開始し、アメリカを越えた真に国際的なスーパースターになっていった。70年代後半のことだ。

 アリは、彼を生み出したボクシングそのものを超越する存在になっていったのだ。今では、アリに興味を抱くことは、ボクシングというスポーツにも興味を持つこととは直接の関係はないと言っていいほどだ。

 アリがボクシングを超えたヒーローになったのには、2つの理由がある。ひとつは言うまでもなく、カール・ルイスやマイケル・ジョーダン、あるいはタイガー・ウッズのように、そのスポーツにおいて最高の力量を持ち、それでいてライバルにも恵まれ(あらたにアリに関心を抱いた若い人々には、フォアマン、フレージャー、ノートンらの魅力をもぜひ味わってもらいたいものだ)、かつ圧倒的な人気を獲得したということ。

 もうひとつは、アメリカ公民権運動の歴史上の偉人扱いされるようになったことである。ベトナム戦争に反対し、徴兵を拒否、絶頂期のキャリアを棒にふったことで、アリはマーチン・ルーサー・キングやマルコムXらに連なる黒人解放の闘士となった。「俺はベトコンには恨みはないぜ」と言い放ったアリは、黄色人種すなわちベトナム人を殺さないことで自分が白人社会に属さない人間であることを明らかにしたのだ。

 アリは反戦運動を展開する若者たちのヒーローとなり、大学などで講演することで生活費や裁判費用を調達するようになった。アリは登場する場所によっては詩人扱いされたり、哲学者扱いされた。

 素顔のアリはどちらかと言えば素朴な青年だった、と言う人もいる。だがいずれにせよ、知識や修辞学ではなく、ひとかけらの真実を語るのが詩人や哲学者の使命だとすれば、たしかにアリはシェークスピアに優るとも劣らない詩人だったろう。

 アリはブラックモスレム(黒人回教)の熱烈な信者だったが、つねに自分の足で立っていた。マルコムXの演説に感動して入信したのだったが、「白人は悪魔だ」と断ずる狂信からは次第に距離を取った。マルコムXの急進から離れ、多くの黒人回教徒が信じていた、「黒人を救うUFOがいつか飛んでくる」というような迷信も、やがて否定するようになった。アリの白人社会批判は、いつも彼の生活感覚から発するものだった。教団の指導層から押しつけられたイデオロギーはどんどんそぎ落とされた。

 アリは間違ったこともたくさん言った。しかも、誰よりも大声で。やがてそれがそれが間違いとわかると、バツが悪そうに微笑んでみせた(もっとも、アリはたいていの場合予想以上に正しかったが)。アリが大学で奉られる「思想家」たちと異なっていたのは、そんな柔軟性とユーモアだ。アリの「思想」はまさにアスリート的発想であり、スポーツマンの思想と呼びうるものだった。

●ボクシングを超越する

「グレーテスト」という呼称が、「最も偉大なボクサー」を意味するのか、「最も偉大な人間」を意味するのか曖昧になっていったのは故なきことではない。あるジャンルにおいて、圧倒的に優れた存在はそのジャンルを体現すると同時にそれを超え出てしまう。アリの栄光、名声はボクシングによるものであり、彼の率直さはスポーツマンのそれから出たものだったが、彼の偉大さはボクシングを超えて人々に伝わっていった。

 あまり指摘されないことだが、76年にプロレスラーのアントニオ猪木と戦った時こそ、アリのそんな「偉大さ」が際立っていたことを、日本人として覚えていてもいいだろう。

 アメリカのマスコミは「猪木戦」をただのアトラクション、あるいはボクシングを貶しめる愚挙とさえ考えていた。トレーナーのアンジェロ・ダンディーでさえ、まったく真剣に考えていなかったことは、ダンディーの著作を見ればわかる。だが、当時を知る日本人なら、日本国内ではこの「試合」がスーパーファイトだったことを覚えているだろう。

 ボブ・アラムによれば、アリ−猪木戦は当初いわゆる「プロレス」として、一応の筋書きはできていた。だが、空港で日本に降り立った瞬間から、アリは日本人がこの試合に期待しているものを正確に感じ取った。アリは真剣勝負をするしかない、と決意したのだ。

 もとより、「ボクサー対プロレスラーの対決」は、それがいかに豊かなイメージを誘おうとも、現実には不可能だ。ボクサーはボクシングをするからボクサーなのであり、プロレスラーはプロレスをするからプロレスラーなのである。

 しかし、アリが真剣勝負を決意したことで、急遽いびつなルールが定められ、アリはボクシングをするが猪木はしなくてもいい、猪木はプロレスをするがアリはしなくてもいい、3分15ラウンドが行われることになった。

 結果、猪木は寝たままアリの足を蹴り続け、アリは立ったまま歩き続けるという、奇妙な、しかし真剣な15ラウンドが続き、試合は「ドロー」になった。猪木は金銭と名誉にダメージを受けたが、アリは足にダメージを受け、左足に起こした1ォ分の血栓で入院するはめになった。もう少しで手遅れとなり、アリは身体障害者として残りの人生を送るところだった。

 猪木は政治家としてはともかく(それだって、他の奴等と比べて特別に悪いわけではない? )、プロレスラーとしてはとてつもなく偉大な男だった。おそらく、アリはそれも感知していただろう。アリは取り巻きに、「こんな馬鹿な危険を冒さなくても、この程度の金は稼げるのに」と責められたが、本当は偉大な死闘をひとつ戦ったのだ。

 なるほど「愚挙」とわかりながら、一部の人々が「異種格闘技戦」にこだわるのは、ボクシングなりプロレスなりの「強者」に、ジャンル分けを超えた普遍的なもの、すなわち人間としての「強さ」、「偉大さ」を求めるからだろう。アリと猪木はアスリートとして競ったのではなく、「偉大さ」を証明するためにリングに上がったのだった。それゆえに、アリは選手生命が危機にさらされようとも、リングを降りることができなかったのだ(高田信彦に数発蹴られて控室に帰ってしまったトレバー・バービックとは違う、ということだ)。

●システムに呑まれた時代に

 スポーツが巨大なエンターテインメント産業として確立してしまった今日、アリのような存在は誕生しにくくなっているだろう。

 アリが王者だった時代、つまり60年代後半から70年代、世界はシステムの「外」に向かって突進していた。若者たちは既成の価値観に背を向け、サブ・カルチャーの花盛りを生んだ。人間のオルタナティブな存在のあり方が探求された(座禅を組む白人がやたらに増えた)。ロック・コンサートはドラッグの漂う密議となった。世界中で無数のカルト宗教が流行した。アフリカの諸民族は続々とヨーロッパ支配から独立し、アメリカの黒人たちの回帰願望を誘った。パーソナル・コンピューターの萌芽もあった。− すべては、既成のシステムからの人間の解放を志向していた。

 しかし、若者たちの多くは「アリ」ではなかった(アリはドラッグは無論、酒も煙草もやらず、わずかなアイスクリームだけを楽しみに、雨の日も風の日も毎日10キロの苛酷なロードワークを続け、リングに向かっていた)。彼らは群れをなしてやみくもに自由を希求し、真に行動する事なく「愛」と「平和」を謳い、頭でっかちな「革命」を語った。

 やがて、必然的に「外部」への脱出運動は解体し、再びシステムの中へと吸収されていった。90年代も終わろうとしている現在、60〜70年代に「外部」を大声で語っていた傲慢な若者たちは、社会システムの内部にちんまりと居場所を見出している。

 ベトコンに敗れ、アリ達に噛みつかれて大きく揺らいだアメリカ国家も、多くの修正を経てシステムの安定を取り戻しつつある。91年湾岸戦争に「快勝」し、経済でも世界でひとり勝ちし、「ベトナムの傷」は癒えたらしい。

 合衆国大統領ビル・クリントンはベトナム戦争の際に徴兵を逃れようとしたことが政治的弱点のひとつと言われていた。それが今や、女癖の悪さでピンチを招いても、「イラクと戦争する」とでも言い出せば、たちまち米国は一枚岩となり、エッチなビルの支持率は回復してしまうありさまだ。

 マイケル・ジョーダンも、ゴルフ界の人種差別と戦うタイガー・ウッズさえも、マスコミに追われてうんざりした顔こそ見せても、プレー以外のことで大衆にアピールしようとはしない(まあ、それでいいのだが)。ウッズの父親が「タイガーの育て方」の本を書いてベストセラーになってしまう。

 たぶん、ボクシングだけが相変わらず特別なのだ。ジョーダンやウッズは、アリの後継者ではない。マイク・タイソンこそがそれなのだ。むろん、ホリフィールドの耳を噛んだのは愚かで粗野な行為だった。だが、あの時僕たちは、リングさえも呑み尽くそうとしていたシステムに亀裂が入り、世界の根源が顔を覗かせたのを目撃しなかっただろうか?

●終わらないメッセージ

 今もアリは元気だ。体は動いていないようだが、彼の送り届けてくるメッセージの精神的内容は健康そのものだ。

 アトランタ五輪の聖火点火者に指名された時、アリは迷いを見せていたという。彼にとっても、かつての見る影もない衰えた身体で大衆の前に現れるのは勇気が要ったのだ。あるいは、アメリカ社会との和解を、世界が見つめる前で行うことに躊躇をしたのかもしれない。しかし、結局アリは出てきた。そして、笑って見せた。アリはまた何かを超えて見せたのだ。

 アリを聖者扱いする人もいる。その気持ちはわからないでもない。しかし、アリは徹頭徹尾人間だから“ザ・グレーテスト”なのだ。フレージャーのパンチに、リング上で目を真ん丸にして脅えていたアリ。フォアマンがノートンを粉砕したリングサイドでひとしきり強がった後で転んでしまったアリ。アリは強く優れていただけでなく、どんな時でも可笑しいほど生き生きしていた。

 今でも、たとえアリの身体は速く動かなくとも、彼の感情は誰よりも生き生きしている。理解しようとする者にとって、表情は驚くほど豊かだ(「健全な身体に健全な魂が宿る」というのは、世界で最も悪質なデマのひとつである)。

 今、彼は怒れるブラック・モスレムではない。イスラムのスタイルを通して神と向かい合う人間そのものだ。叫ぶわけでもなく、拳を振り上げるわけでもなく、むしろ「無力」な人間として存在だけを伝えてくる。しかし、無力でも精神はフレッシュに生きている。それがメッセージだ。

 かつてアリは世界で最も速く動く手と足と口で、誰よりも強烈な表現をして見せた。今、彼はきわめてゆっくりしか動かない手と足と口で、相変わらずメッセージを送り続けている。誰よりも健康だった男が、今は病者として、しかし変わらず健康な、偉大な精神でもって−−。


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