それでも辰吉は日本ボクシングをリードする

年頭雑感エッセイ

by mario kumekawa

 

 

もう、何度もウィラポン−辰吉のビデオを見返している。う〜ん、強いぞ、ウィラポン。パンチのスピード、伸び、強さ、詰めのコンビネーション。最高レベルだ。辰吉の速いジャブへの反応もシャープだ。いきなりジョフレ、サラテとは言わないが、アルフォンソ・サモラあたりの線はいってるんじゃないだろうか? このレベルの試合がいつもやれるんなら。

大体、日本のテレビ局のプレッシャーにも、世界最強とも思える浪花のジョー・フリークスの恫喝にも屈せず、リング下で3分近く仁王立ちしたプライドの高さは凄い。間違いなく、アーティストにしかできない仕業だ。

とにかく、ウィラポンの一挙一動がムエタイ出身らしい神事を感じさせる格調に満ちていた。シリモンコンとは違い、彼はタイトルを奪回する前から「横綱」だった。幸か不幸かボクサー鑑賞眼の非常に鋭い辰吉にこれは効いただろう。

僕はプレビューで「コナドゥに倒されたからといって、ウィラポンが打たれもろいとは言えない」と書いたけど、それでもまだやっぱりコナドゥ戦のせいでウィラポンを過小評価していたようだ。というより、コナドゥ戦以来、ウィラポンはさらに戦力を増強してきていた。全体のスピードこそやや落ちてきているようだが、気合を入れて放ったジャブは十分に速かったし、なにより体が大きくなってきていた。ウィラポンの黒光りする美しい肉体に目を見張ったファンも多いだろう。

けれども、あのウィラポンの体は、ごく最近完成されたものだ。去年「ワールドボクシング」誌(辰吉がシリモンコンに勝った時の増刊号)のインタビューに答えたウィラポンは、「本当はバンタムではやりたくない。僕のベストはJ・バンタムだからね。コナドゥは体が全然違うんだもの、一発もらったら倒れちゃったよ」と語っている。実際、掲載されたウィラポンの写真は今とは比べ物にならないくらい筋肉の盛り上がりが少ない。

辰吉に王座を奪われたシリモンコンが減量苦から上のクラスに移ったため、ウィラポンには挑戦のチャンスがふくらんだ。おそらく、一昨年の暮れの段階から、ウィラポンはバンタム級での世界再挑戦に備えて肉体改造にとりくんだのに違いない。打倒辰吉を射程に入れ、1年がかりで勝つためのボクシングと身体を築き上げてきたのだろう。「辰吉の弱点? いっぱいあるよ。目ではパンチをよけきれなのに、ガードが低い。ボディーも弱いみたいだ」(ウィラポン:当時のインタビューより)

このウィラポンが相手では敗戦はしょうがないが、辰吉の元気のなさ、口の重さもやはり気になる。最初にダメージを受けてからの戦力下降のあっけなさは、明らかに衰えたボクサーの姿だった。シリモンコン戦以来、出来がつねに予想を超えていたので忘れがちだったが、辰吉はもうずっと肉体的には下降して来ていたのだった。リカルド・ロペスの言う通り、「2年前なら、こういう負け方はしなかった」ような気もする。ひとつの「潮時」を示してはいるのかもしれない。

辰吉が今までマットに這いつくばってのKO負けを味わわずにきたのは、彼のタフネスもさることながら、ボクシングをよく理解した辰吉が敗戦においてもなおリングの何パーセントかをコントロールしていたことにもよる(アリやレナードにテンカウント負けがないのは、単なるタフネスではない)。今回の手ひどい負け方は、そのコントロールも効かなくなってきていることを示してもいるはずだ。

そう考えると、このKO負けから立ち直って再度最高度のボクシングを辰吉が見せられるとは考えにくい。シリモンコン戦から今まで、辰吉のマジックはダイスに「良い方の目」だけを出し続けさせてきたが、今回は単に「悪い目」が出たというだけのことではないような気がする。辰吉の肉体の中で、何かが終わったように思えてならない。

ビクトル・ラバナレスへの雪辱は、想像できないことではなかった。ブランクの影響さえ克服すれば、明白なスピードの差がトラブルから救ってくれそうに見えたからだ。だが、今回の敗戦は、短期間に「敗因」を除去できるタイプのものとは思えない。辰吉は輪島巧一のような変則派でもなければ、柴田国明のようなパンチャーでもない。完敗を雪辱できるファクターは少ない。

ウィラポンと再戦すれば、辰吉は(今回そうするべきだったように)対サラゴサ第2戦のような慎重なアウトボックスで立ち上がり、おそらく終始それに徹するだろう。それで判定にまでもっていければ、それなりに名誉挽回にはなるかもしれないが、ウィラポンが不調でない限りそれもかなり難しそうだし、僕らもそんなことを期待しているわけでもない。

すでにドラマの「本編」は終わったのかもしれない。「浪花の天才ジョー」は、傷ついた老雄になったのかもしれない。しかし、辰吉はこの段階では辞めないタイプなのだろう。それならそれで、スーパースター辰吉だ、楽しみもある。さらに傷つくだけのリング生活だけが待っているわけでもないだろう。僕はファイトレビューでは「これで辰吉のドラマは終わってもいい」と書いたが、辰吉がやる気なら、別のドラマの始まりというのもありうると思うのだ。

「本編」ではなく、「外伝」(taka式に言うなら「心の旅」)みたいなキャリアを続けているボクサーもまた、まぎれもなくリングの主役なのである。アメリカやメキシコでは元世界王者が時にぶっ倒されながらも、リングに上がり続けているし、たまには狂い咲きのような良い試合も見せている。デュラン、ハーンズはもとより、サイモン・ブラウンとか、アーロン・デービスとか、フリオ・ヘルバシオなど。

日本では「引き際」という言葉の支配が強く、花は盛りを過ぎたら枝についていてはいけないことになっている。だが、世界には旬を過ぎてなおリングに上がることを人生の悦楽として享受し続けるタイプの人間もあるのである。現役日本最高のボクシングを見せる役割は、畑山や名護に譲ってもいいだろう。けれども、希代のスーパースター辰吉には、本人にその気があればまだまだやれることは多い。

辰吉でなければ、網膜剥離の手術を経てなお戦い続けるという先例を作ることはできなかった。安全・健康はもちろん大切だが、ボクシングにおいて、あるいは人生においてつねに一番大切なことは他にあるはずだ。辰吉は、今度は「日本のデュラン」になるというのも悪くない道ではないか。

辰吉は、ついこの間、アヤラとあんなに良い試合を見せたのだから、まだ相当の能力を残しているはずだ。あの口の重いのも、心底ドランカーの場合と、疲労とともに回復する場合とある。ゆっくり休んで、疲れとダメージを可能な限り抜いたら、また戦えるかもしれない。シリモンコン、(ソーサはともかく)アヤラ、ウィラポンと超トップクラスを一年でぜんぶ片づけたら、ウィルフレド・ゴメスになってしまう(それを期待してたんだけど……)。

ウィラポンとはもうやらない方がいいと思うが、十分休養をとったら、 ジョニー・タピア挑戦なんてどうでしょう。コンディションさえよければ、すばらしい試合になるし、勝算もなくはないと思うのだが。

辰吉は、井岡弘樹同様、ノンタイトル戦で惨敗する時までやめないような気がする。様々な優れたボクサーを取材してきたが、辰吉ほど自らがボクシング中毒である人物はいないように思う。時に負けつつも、ひそかな夢を抱きつつ場末でもリングに上がり続ける老雄(もちろん、若いボクサーよりも自分のいたわりかただって知っている)。辰吉ならそんな姿も良く映える。

日本ボクシング界はすでに素晴らしい伝統と基盤、ファンの文化に支えられているが、この「老雄」文化はまだ根づいていない。これは残念なことだ。フォアマンやデュランがいないのは、日本にとって不幸なことだと思う。成熟とは、完成ではない。成熟することは、明らかに何かが壊れ、何かを失ってゆくことなのだ。しかし、そこで逆説的に達成されるなにかがある。それはむしろ「完成」よりも高次元のことなのだ。ボクシングの凄さは、過酷な格闘技でありながら、このいわば「老人力」(by 赤瀬川原平)の存在を可能にしている点にもある。

こんな考え方は、ウィラポンへの雪辱を意図しているらしい辰吉本人には不本意かもしれない。しかし、彼はすでにダニエル・サラゴサという挫折を経験しているではないか。ひとりやふたり、勝てない相手がいたところで、居場所がなくなるほど、今のボクシングは狭くない。チャンピオンは、ベルトを持っているボクサーのことを言うのだ。

辰吉が「心の旅」を始めるのなら、その前途には今なお期待すべきことは多い。いや、あるいは彼はとっくにそのつもりなのかもしれない。「ここで辞めるくらいなら、はじめからカムバックしてませんよ」というウィラポン戦直後の言葉は、辰吉がすでに人知れず「デュラン」への道を歩み出していることを明かしているのかもしれない。


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