考察・なにが辰吉を復活させたのか?

 

by mario kumekawa

 

 

  = 季節はずれのベストファイト =

 

 とにかく、辰吉の王座復帰は驚嘆すべき出来事だった。僕自身、「まずシリモン

コンにはかなうまい」と思っていたのは、プレビューで書いた通りである。もし「

善戦」しうる可能性があるとすれば、思い切って前に出ての接近戦、しかも王者を

後退させ続ける展開だろう、と予想していた。接近すれば、シリモンコン得意のロ

ングレンジの強打は封じられる。致命打を受けずに我慢比べに持ち込み、慣れない

展開にシリモンコンが疲れてくれれば、「小差判定負け」くらいには持ち込めるか

もしれない、と思っていた程度だったのだ。

 なにより、辰吉自身の心身が、すでに世界王座を奪取するようなコンディション

にあるとは思われなかった。試合ぶりも、言動も、まさに「沈滞」そのものであっ

たからだ。無茶なマッチメーク(それは、今回勝ったからといって正当化されるも

のだとは思えない)と好い加減な演出が、あたら才能を腐らせてしまったと思って

いた。

 

 ところがシリモンコン戦の立ち上り、辰吉は全盛期以上のみごとな攻防バランス

を見せた。

 かつて薬師寺戦では、前半からジャブを受け続けて目をつぶされてしまった。対

サラゴサ第2戦では、慎重に被弾を避けるフットワークで立ち上がったが、攻撃は

まったく死んでしまっていた。そもそも、辰吉を「天才」と呼ばしめたボクシング

は、ごく初期、チューチャード戦や岡部繁戦で見られただけであって、世界レベル

の相手には「肉を切らせて骨を断つ」ことを前提としなければ、突破孔が見えない

のが辰吉だったのだ。リカルド・メディナやフェルナンド・アラニスといった、世

界的には2戦級の相手にすら、食い下がられるとどんどん不格好な拙戦に陥ってし

まった。

 ところが今回はどうだろう。序盤、シリモンコンのジャブを鋭敏なスリッピング

ではずし、なおかつ前進して攻撃することに成功している。ジャブを鋭く突き、ス

ロースターターの若きチャンプの出鼻を完全にくじいた。このジャブがずっと機能

し続ければ、もう、ほとんどかつて僕が辰吉に夢見たボクシングそのものである!

 (あくまでも僕の好みから言えば)やや残念ながらこのジャブは、2回以降少な

くなってしまったが、そのかわり、ボディーブローが存分に入り始めた。顔面への

ジャブでガードを上げさせておいて、すぐさまボディーを狙うという作戦でもあっ

たようだ。

 減量苦もあって、「シリモンコンのボディーはひとつの狙い目だろう」とは、戦

前から多くの解説者の言うところではあった。だが、あのふところの深いパワー抜

群の王者に、実際にボディーブローを立て続けに決めるのは、テクニックと技巧と

バランスのすべてが完備されていなければできることではない。今回の辰吉には、

それもできたのだ。心技体とも、最高の試合だったと言わざるをえない。

 

  =辰吉の「レナード性」=

 

 こんなことが、なぜ突如可能になったのだろう? 前哨戦だったリカルド・メデ

ィナ戦では、「復活」の気配は全くといっていいほど見えなかった。勝って当たり

前の相手に、辰吉は全神経を研ぎ澄ませた戦いができなかったのだろうか?そうか

もしれない。だが、全ての力を注いだはずの薬師寺戦やサラゴサ戦でさえ、辰吉の

バランスは崩れたままだった。今回だけ、なぜ辰吉は蘇ったのだろうか?

 ひとつ考えられるのは、今回は辰吉がはっきりと「不利」と予想される久々の試

合だったということだ。薬師寺戦、対サラゴサ第1戦では、ブランクにもかかわら

ず「やや有利」、すくなくとも「大いに有望」という評判がもっぱらだった。今回

ほど、はっきりと「絶望的」と予想された試合は初めてだ。

「絶対的不利」の予想を背負わないと、ナイスファイトができないタイプのボクサ

ーは存在する。そういうボクサーは、当然ながらマスコミの寵児になったスターの

中に多い。シュガー・レイ・レナードが典型的にそうだった。キャリア後半のレナ

ードは特にそうだ。網膜剥離による3年間の引退状態から最初のカムバックを試み

たケビン・ハワード戦では、はるか格下のハワードのダウンを食らう大苦戦、さら

なる「冬眠」に入ってしまった。ところが2年後、無敵のミドル級王者マービン・

ハグラーへの挑戦状を掲げて再度カムバック。今度はブランクにもかかわらず「前

哨戦なし」でハグラーに直接挑戦、圧倒的不利の予想を覆して、判定勝ちしてしま

った。このあたりで、レナードははっきりと自分の性格を自覚したようだ。「自分

はもはや格下とは戦うことはできない」と。これ以後、レナードは、ひたすら上の

階級のベルト保持者に挑戦ばかりをし続け、べそ泣きをコレクションしていった。た

だし、「防衛しないチャンピオン」として。いわばレナードはつねに恐るべき「チ

ャレンジャー」ではあったが、「チャンピオン」としてははなはだ精神的にもろい

ところがあった。

 どんなタイトルであれ、防衛ということをしたことがない辰吉もまた、レナード

的ボクサー(あえて言うが、この場合「レナード的」であることは「欠点」であろ

う)であると言える。このタイプのボクサーに共通するのは、自分自身が大の「ボ

クシングファン」であるということと、きわめてクールで客観的なボクシング頭脳

の持ち主である、という点である。彼らは、リングでどのような男がもっとも価値

あるファイターなのかを知っている。また、自分の試合でも他人の試合でも、じつ

に醒めた眼差しで勝因・敗因を分析できるのだ。何もかもが見えすぎる彼らにとっ

て、自意識や計算が吹っ飛ぶほどの集中力でファイトができるのは、対戦者が恐る

べき強敵であり、かつ「破るに値する男」である場合に限られるのである。

 たぶん辰吉は、自分よりも若く、速く(実際には今回はそうでもなかったが)、

強く、しかも無敗のシリモンコンを相手に迎えて、久しぶりに余計な自意識にわず

らわされることなく、「打倒シリモンコン」の至上命題に神経を集中できたのでは

ないだろうか。

 

  =「落ち目芸人」の克服=

 

 今回の試合前、辰吉の発言も変化していた。多くのファンをうんざりさせていた

、辰吉のかなり陳腐化した、3流芸人のような「トーク」が今回は影をひそめてい

た(僕は、最近は辰吉の雑誌インタビュー記事など、斜め読みしてポイ捨てしてい

た)。それが今回の辰吉の発言は、純粋にボクシングに集中したコメントに終止し

ていたのだ。

 思えば辰吉は、アマ時代の17才の頃から「日本ボクシング史上空前絶後の天才」

ともてはやされ、プロデビューとともに人気爆発、偶像を演じることをマスコミや

ファンから求められ続けてた。落ちこぼれ中学生から、ボクシングを始めた途端、

時代の寵児である。岡山から出てきた純朴な少年が何かにつまづいたとしても不思

議はないだろう。

 まして、辰吉の父は大のアリ・ファンだった。ザ・グレーテスト、アリのイメー

ジは、辰吉の行動心理に大いに影響したに違いない。挑発的な言動、強烈な自信、

観客を巻き込むパフォーマンス(あの「腕グルグル」は、アリがあまりにもろく倒

れるリチャード・ダンとの試合を少しでも盛り上げようとしてやった苦肉のパフォ

ーマンスだった)……、辰吉は自分を「日本のアリ」と見立てるところがあったに

違いない。

 たしかに、彼は「和製アリ」と呼びうる能力と魅力を備えた男だが、不幸にも目

を負傷してボクサーとしての活躍と成長を阻まれ、その後の世界戦では(ラバナレ

スとの暫定王者決定戦をのぞいて)負けっぱなしになってしまった。ボクサーの中

では抜群にサービス精神旺盛で、相手の望むような話をする勘の辰吉だけに、伸び

悩んでも、負け続けても、「何かしゃべらにゃいかん」、「強気に振る舞わないか

ん」というポリシー(?)でマスコミに向かい続け、次第に「からっぽ」になって

いったように見えた。試合の前はきまって、「勝つのは決まってる」、「試合は僕

の作品ですから」、試合のあとは「どんくさい試合してしもうて」。完全なマンネ

リズムに陥った辰吉は、もはや完全に「過去の人」だった。

 だが、今回のシリモンコン戦は、じつに久しぶりに、辰吉にとって「勝ちさえす

ればいい」試合だった。上述のレナード型のボクサーにとって、この条件は時とし

て馬鹿馬鹿しいほどの重要度を帯びるものである。

 本田明彦・帝拳ジム会長も、辰吉のこの「レナード性」をかなり意識している。

「辰吉はどうせやるなら強敵の方がいい。初防衛戦は来年3月8日、ビクトル・ラ

バナレス(メキシコ)を相手に考えている。それに勝てば、7月にはデラホーヤが

東京で戦う興行で、1位ポリー・アヤラ(米国)の挑戦を受ける」と、青写真を語

っている。このスケジュール通り辰吉が戦うのなら、辰吉の「病気」が出る危険度

は低いかもしれない。

 

  =菅谷トレーナーの秘密=

 

 さて、もうひとつ看過できないファクターがある。ほとんどのウォッチャーに「

もうダメだ」と思われていたボクサーが、突如変貌し、見事な試合を見せた場合、

まず注目されるべき要因は? そう、トレーナーだ。シリモンコン戦は辰吉が菅谷

浩之トレーナーと正式なコンビを組んでから、最初の世界戦だったのである。菅谷

氏は、いったい辰吉になにをしたのだろうか?

 

 辰吉ほど、トレーナー運がない名選手も珍しい。けして、過去のトレーナーが駄

目だったというわけではない。最初に辰吉にボクシングをしこんだと言われる大久

保トレーナーは、自らも現役時代「天才肌」と呼ばれた選手で、辰吉の才能をよく

理解していると言われた。しかし?その才能のゆえか激情的な性格の人でもある大

久保氏は昨年大阪帝拳ジムを去っている。また、激しい大久保氏の蔭になるような

形で辰吉を支えてきた島田トレーナーは、苦労人の人格者だったが、一連のごたご

たの中で大久保氏と同時にやはり大阪帝拳ジムを去った。

 さらには、辰吉が大阪に出てきた当初から、親代わりのようにして辰吉を支えて

いた西原健司トレーナーは名トレーナーだったが、一昨年、くも膜下出血を起こし

、47歳の若さで亡くなっている(辰吉のデビュー戦直後、西原氏を訪ねたことがあ

る。19歳の辰吉のトレーニングを見つめながら、「この子はね、かならず世界チャ

ンピオンになって、5度は防衛する、そういう素質の子なんです。もし、そうなら

なかった、それは私の責任です」と語っていた氏の眼差しが忘れられない)。

 2度目のサラゴサ戦の前には、元東洋王者・門田新一氏の指導を受けるため四国

は愛媛までわざわざ渡った辰吉だったが、あまりの注目度ゆえ、ストーカー被害に

まで遭って早々に大阪まで引き上げざるを得なかった。サラゴサという名王者に挑

む世界戦を前に、トレーナーがいない状態だった辰吉はまったくもって不幸という

ほかない。

 

 そんな辰吉が、今年7月・横浜アリーナでのメディナ戦に向けてトレーナーへと

要請したのが菅谷氏だった。菅谷氏は、対サラゴサ第2戦の時点でも、辰吉の身の

回りの世話すべてを請け負っていたが、メディナ戦の前の白浜キャンプの段階から

正式な専属トレーナーとなった。吉井清・大阪帝拳ジム会長はベネズエラ人トレー

ナーをつける考えがあったが、辰吉の希望で菅谷氏の就任が決まったという。

 菅谷氏のトレーナーとしてのスタンスは、ユニークなものだ。ボクサーとしても

トレーナーとしても、豊富な経験を持っているとは言えない菅谷氏だが、「辰吉の

ボクシング哲学のよき理解者」(周囲の評判)として、辰吉の話し相手あるいはア

ドバイザー役をつとめている。菅谷トレーナーは、辰吉とほぼ同年齢ということも

あって、通常のボクサーとトレーナーという関係を超え、対等のパートナーシップ

を築いているようだ。

 したがって、菅谷トレーナーはそれまでの辰吉のトレーナーをつとめた人々とは

異なり、マスコミに対しては前面に出てこない。どのような狙いで、どのような調

整をしているのか、語るのはつねに辰吉本人だ。それゆえ菅谷氏のトレーナーとし

ての方針のようなものは、外部のものにはわかりづらい。しかしおそらく、辰吉の

トレーニングは彼本人の意思を菅谷氏が確認、修正する形で進行しているのだろう

 とは言え、辰吉がシリモンコン戦のリングに上がるまでになしとげたことは、明

らかに腕利きのトレーナーに導かれたボクサーのそれだった。豊富なロードワーク

、異例とさえ言えるラウンド数のスパーリング、ガードやディフェンス動作の確認

、基本的攻撃パターンの徹底した反復練習、これらの多くは、辰吉におそらくは必

要と見られていながら、これまでは他の要求のいわば後回しになって、実現されな

かったことどもだ。どういう「方法」を用いたのであれ、これらの作業を辰吉が高

密度になしとげ、シリモンコン戦に快勝したことは、トレーナーの手腕と呼ばない

わけにはいかない。

 

 日本のマスコミは、単なる話題性だけを追うことにほとんど終止する。だから、

マスコミに対してあまり自己主張をしない菅谷氏は、これだけの「奇跡」が起きた

後でも、ほとんど取材対象になっていない。しかし、これまでの辰吉のあらゆる意

味での沈滞ぶりを考えれば、菅谷氏の存在の大きさは明らかだ。せめて、我々専門

誌記者だけでも、彼の「秘密」に接近してゆかなければなるまい(僕個人は東京が

取材のテリトリーなのだが、とにかく『ワールドボクシング』誌の今後に期待して

いただきたい)。

 

 辰吉の勝利は、彼を正真正銘の日本リングの「伝説」へと押し上げた。一方で、

この勝利から、僕たちは多くのことを学ぶこともできるだろう。つまり、ボクサー

の生命力の減衰また伸長ということについて。また他方で、この快挙が、辰吉をめ

ぐって噴出していたボクシング界の矛盾や恥部を再度覆い隠してしまうことになら

ないように注意することも忘れてはなるまい。