中世の銃火器(日本)

 ユーリ「やっぱ、鉄砲伝来からですか」

 バレリア「それやからあんたは……発石木(はっせきぼく)があるやんか」

 ユーリ「何です、それ?」

 バレリア「応仁の乱で用いられたといわれる炸裂弾投射装置や。それに、あんた鉄砲伝来の時期について勘違いしとらんか?」

 ユーリ「え?1543年でしょう?日本史の授業でもそう教わりましたよ」

 バレリア「それは『火縄銃』の伝来やろが!銃火器それ自体は当時の超大国明(1368〜1644。清に滅ぼされた)からおそらく朝鮮半島を経由して1510年には日本に伝来しとる」

 ユーリ「はあ、どんなもんだったんでしょうか?」

 バレリア「今でいうところのロケット弾やな。ほやけど、命中率は低くて射程距離や殺傷能力も大したことなかったようや」

 ユーリ「そんなもん、どこの間抜けな大名が使ったんですかねぇ」

 バレリア「武田信玄。正確には晴信。1548年にな」

 武田晴信:信玄は1559年までこの名だった。

 ユーリ「名誉ある前言撤回」(「笑いの文化人講座」(株)ホットカプセルより)

 バレリア「うけを狙いおってからに。とにかく、1543年以前に日本で銃火器が作られていたことが火縄銃の大量生産の技術的基礎になったことは否定できんわな」

 ユーリ「あのー、火縄銃の具体的な能力はどんなもんだったんですか?」

 バレリア「戦国時代にそこそこ財力に余裕のある足軽が着用していた胴丸(どうまる)という防具を80メートルから射抜けたそうやな。何年か前、実験した人がおったんや」

 ユーリ「あの〜」

 バレリア「何や、スライム頭」

 ユーリ「財力のない足軽の鎧は?」

 バレリア「紙」

 ユーリ「はあ?」

 バレリア「ほんまや。それから、軽武装の補給部隊も弾よけとして使うたりしたんや」

 ユーリ「で、火縄銃の主な利用法は?」

 バレリア「攻城戦の時にの、塀の狭間(はざま)から防御側が攻撃側をうちすくめる訳や。この射撃の姿勢は『つるべ撃ち』とも言われるの」

 ユーリ「話変わりますけど、大砲はどうだったんです?」

 バレリア「ヨーロッパとは違って大して発達せなんだんや」

 ユーリ「何でですか?」

 バレリア「あんたは尋ねることしか知らんのか……あんなあ、戦国時代は内乱の時期やで。中世・近世ヨーロッパの戦争は主に大陸型国家形成時代の『対外戦争』や。いっぺん敵同士になったら、糧食が尽きて軍隊の維持ができなくなるか何らかの形で決戦が起こって主力が撃破されるまで終わらへん。それもあって、城砦攻略のために大砲が発展した。けど、日本の場合はまるで違うんや。城を落とす際にもある程度包囲してから、調略を行なったり降伏の使者を送ったりして開城・降伏させるんが普通や。むろん、大砲の移動に適切でない地形やったっつーのも大きいの」

 ユーリ「でも、大坂冬の陣で徳川家康がたくさん使ってるじゃないですか」

 バレリア「あんなあ、あれは心理戦の一環なんやで。大砲を大量使用したとはいっても大坂城の外からやけん射程距離ギリギリ。それに、当時は榴弾やのうて金属の塊やけんな。天守閣にたまたま命中した砲弾が淀君の女房7、8人殺傷して彼女の戦意を大きくそぐという効果があったんは確かやけどのう。じゃけど、家康は大砲だけで大坂城が落とせるとは思とらん」

 ユーリ「そういえば、秀吉の朝鮮侵略の時に朝鮮水軍の大砲が大活躍しましたね。大安宅船があったってのに……」

 バレリア「何勘違いしとるねん。安宅船は鉄板で防護されとったけど、耐火能力向上のためであって、大砲の弾をはじき返すことなんぞできへん」

 ユーリ「はあ……そうすっと、火縄銃にせよ、大砲にせよ国内外の事情でずいぶん変わってくるんですね」

 バレリア「うまくまとめよってからに」

参考文献:「歴史群像シリーズ 27 風雲信長記」 学研
「歴史群像」3、6、17号 学研
「日本の歴史 12」中央公論社

 補足:中世・近世ヨーロッパの銃火器に関しては「コマンド・マガジン 日本版」(国際通信社)第36号に興味深い記事があります。

(「私家版」は良い!ので続く)

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