「ティーレル氏の回想」

広島大学SF研究会OB:上田洋一

 

初めに
 この小説では我々の知る物理法則が必ずしも通用しない。
これは、魔法や奇跡が存在する世界を舞台としているためである。

 嵐の中、赤茶けた馬に乗ってティーレル氏がトート・ハイム男爵の館に到着するところから、この物語は始まる。
 「博学の名探偵」として知られるティーレル氏は白い息をはきながら、堂々たるつくりの館を見上げた。その館は戦時には十分城砦として機能することを、探偵の「頭の中の百科全書」は告げていた。
 彼はずぶぬれのまま、大男の衛兵たちに挨拶し割り符を渡す。すると彼らは急にシャンと背を伸ばして、
「ティーレル様、御到着!」
 と大声を出した。
 その声が響き渡るやいなや、頑丈そうな扉が開く。
 と同時に奥から男の怒声が聞こえる。
「おい、マーサ!わしの短刀はまだ見つからんのか!もう1ヶ月になるんだぞ!」
 男は40代後半と見えたが、後で聞いた話によると60をこしていたそうだ。
 彼はティーレル氏に気づくと、いたずらを見つけられた子供のような照れ笑いを浮かべて近づいてきた。
「や、失礼しました。ティーレル様ですな。お噂は息子のハロルドからかさねがさねうかがっております。私は執事のゲープルと申します。とりあえず、ぬれた服はお脱ぎになって下さい。代わりの衣類もサウナブロの準備もできております。ささ、どうぞ。いやはや全くひどい雨ですな」
 このゲープルという男、20年前までは拳闘選手だったということもあって、その体格は実に堂々たるものである。
(こりゃバリツ<注:イースト・ランドの格闘技>を習った僕も負けるかもしれんな)
 希代の名探偵はそう思った。
 ティーレル氏がサウナから出ると、使用人が夕食の準備ができていることを告げた。
 夕食は最も狭い――といっても、20人ぐらいは入れそうだが――接待室でとることになった。
 執事をはじめとする使用人や兵士は別室で食事を取っている。
 部屋の奥の方に男爵とその妻カトリーヌが座っている。彼女は聞いた話によると、男爵の3番目の妻だそうだ。非常な美人だが、どこか「氷山からふきおりる風」のような雰囲気を感じさせる。もっとも、ティーレル氏は女性の美醜にこだわらない性格である。彼の伝記作家は、「かの探偵の思考回路に<情愛>が入る余地はほとんどなかったと言ってよい」と記している。
 客は2人いる。1人はいうまでもなくティーレル氏である。そして、もう1人は40歳前後と見られるガリガリにやせた小男であった。その独特の服装から、僧侶であることは容易にみてとれた。彼は、火の充分通っていない牛肉にやたらとコショウをふりかけている。
 探偵は小男に声をかけた。
「戦神マルスの筆頭僧侶スレータさんですね?」
 彼はイスからとび上がらんばかりに驚いた。
「え、どういうことです?なぜ分かったのですか?」
「お名前を知られたくなかったら」
 ティーレル氏はくっくと笑いつつ付け加えた。
「帽子の裏にイニシャルを縫いつけるのを止めて、ブーツからプラーニ地方特有の赤土を十分取りのぞいておくべきですね。スレータという名はプラーニによくある名ですよ」
 スレータはホッとした様子で腰をおろした。
「しかし、筆頭僧侶だということはどうやって?」
「その理由はあえて説明する必要はないでしょう。が、『奇跡の印』と呼ばれる指輪を右の薬指にはめているのは感心しませんね」
 その時、巨漢のハイム男爵が彼の推理を賞賛した。
「素晴らしい、実に素晴らしい。まさに推理の達人ですな。ついでながら、ノヴァであった『スマトラの大ネズミ事件』についてもお聞かせしてくだされ。『話代』ははずみますぞ」
 ハイムの口調は手品師の<技>を見たがる子供のようであった。
 とがめるように、男爵の妻カトリーヌが夫の服のすそを引っ張る。しかし、彼はさして気にもしない。
 「『スマトラの大ネズミ事件』ですか……。メラニーとイナックという旧友同士がつるんでましたね。けれども、後味の悪い事件だったのであまりお聞かせしたくありません。失礼なことですが……」
 とたんに、ハイムの表情が渋くなった。
「それは……残念ですな……。では、例の『探索者ヌレギヌ事件』は?」
 ティーレル氏は肩をすくめ、仕方ないといった様子で彼の「要求」に応じた。読者諸君もご存じの「2度くびをつった男」の事件である。
 男爵はティーレル氏の話を聞きもらすまいとしながらも、食事の手を休めることはなかった。
 一通り探偵がしゃべり終わった後、僧侶スレータが男爵の妻カトリーヌになれなれしく話しかける。ティーレル氏はその口ぶりにおごりと卑屈が同居しているように感じた。
(ナマグサ坊主だな)
 彼はそう思ったが、さすがに口には出さなかった。
「奥方様、先月おっしゃられていた我が寺への寄付は……」
 ここで、ハイムが不快の念をこめて彼に言葉を投げかけた。
「僧侶の方々はありとあらゆる王の権力にも貴族の武力にも屈する必要がなく、我らが敬う国王陛下を雪中に三日三晩立たせておくほどの神のご加護を受けていると聞いておりますが?なぜ我が妻に寄付をお求めになる?権力だけでなく、この世の金をもほしいのですかな?」
 それに対して、スレータはニヤニヤ笑いを浮かべて、
「これは失礼。しかし世間ではハイム殿の信仰心は3番目の妻であらせられるカトリーヌ様のそれにいささか劣るとウワサされているようですな」
 と皮肉たっぷりに切り返す。
 男爵はカッとして、52歳とは思えぬたくましいこぶしでドンとテーブルをたたく。その衝撃で木製のエールカップがひっくり返ったほどだ。
 スレータの顔がサッと青くなる。しょせん、小心者に過ぎない。
「わしが神を敬わぬとおっしゃりたいのか!」
 ここで、妻カトリーヌが冷ややかな口調で次のように言った。
「今は楽しき夕食の場でございますよ、我が主殿。寄付の話に戻しましょう」
 夫人の語り口には愛情ではなく、夫への軽い侮蔑の念がこもっていた。
 かくして、この日の夕食はは料理の豪華さとは裏腹に、極めて不愉快な空気に包まれたまま終わった。
 とてもではないが、カトリーヌの言ったような「楽しき場」ではなかった訳だ。
 その後、スレータは男爵ご自慢の「武具展示室」に向かった。その前に、戦神マルスの僧侶なのだから戰いの道具を知っておくのは当然、というような言葉を残していた。
 それを聞いた男爵は「ナマグサ坊主」に「神聖な」武具展示室なぞ見せたくないとの不満をティーレル氏に対してこぼした。
 しかし、
「カトリーヌの機嫌を損ねる訳にはいかぬよ」
 と言っただけで邪魔しようとはしなかった。
 そのカトリーヌは少し薬を飲んでから寝室に引きこんでいる。
 彼女は心臓が悪いのだという。
 接待室には、ハイムとティーレルだけが残った。
 あいつはなかなか学があって「哲学書」なるものまで当たり前のように読む、とは男爵の言である。最近彼女はファネスの「平和論」に取り組んでいるとか。
「いや全く」
 ハイムは執事ゲープルが持ってきたマダス地方のエールをぐいぐい飲むことで気分をスッキリさせた。その日の夕食に出された酒は酒というよりアルコールのまじった薬だとも語っていた。
 「スレータにせよ、わしの妻にせよ、理論ばかりで現場を知らん。カトリーヌは巻き上げ式の石弓の構造と製作法について実に豊富な知識を持っているが、あいつがそれを使っても味方に当たるだけだろう。あの嫌味な――おっと、このことはスレータには言わないで下さいよ――坊主にもあれこれ1月ばかり前に話しておった。あんな非力な男に何ができるというのやら。1メートル先の動かぬ目標なら話は別だがな」
 ハイム男爵はようやく酔いがまわったこともあって、くだけた調子でティーレル氏との会話を楽しんでいた。
(教養のあるなしは人柄の良し悪しとは何の関係もないのだな)
 全くもってその通り。
 ここで探偵は眠気を訴え、老メイドのマーサに客用寝室まで案内された。
「執事のゲープルさんは?」
 彼はちょっとした不安を感じたのだ。虫の知らせ、というやつだろう。
 この問いかけに、あまり機転のきかないマーサはキョトンとした表情を浮かべた。
 そして、ややあってから頼りなげな様子で、
「確か、短刀を探しに行くとか……」
 と答えた。
「ああ、僕がこの館に着いた時にどなっていた、例の短刀だね?」
「ええ、1月前から見当たらないらしくて……散々あれこれ言うもんですから、皆もイライラしてますわ。まあ、あの方があの方のおじい様から直々にいただいたものということですから気にするのは分からないでもないのですけれど。そのおじい様というのが、この地方の英雄ですからね。子供たちに『ゲープルのおじい様が怒りますよ』と言っただけで、わんわん泣いていてもおとなしくなるぐらいなんですよ」
 ティーレル氏は、マーサの話を途中までしか聞かず、人差し指を鼻の頭につけて黙りこくっていた。
(探偵さんというのは変わった人なのね)
 マーサはそう思ったが、彼は頭の中の棚から必要な材料を引き出していたに過ぎない。

 館はしばらくの間、静寂に支配されていた。
 しかし、女の悲鳴がそれを破った。老メイドのマーサである。
 ティーレル氏は熟睡していたが、そこは事件に慣れた探偵の常。即座に起き上がり、瞬時に着替えて寝室から出た。
(「武具展示室」の方だな)
 彼はそこに向かう途中、おろおろしている男性の使用人にでくわした。
「マーサさんに何かあったのですか?」
「いえ、執事のゲープルさんが……」
 それ以上しゃべるのは無理なようだった。歯の根が合わず、ガタガタと震えている。
 ティーレル氏は彼にアドラの実(注・アドラとは「安心」の意であり、弱気を消す効果があるとされている)を与え、先を急いだ。
 探偵が武具展示室に入ってまず最初に遭遇したのは、すさまじい血の臭いであった。部屋の片隅で執事のゲープルが背中に短刀を「突き立て」られ、死んでいた。短刀は根元までめりこんでいる。惨殺死体を見たことがない者なら、その場で吐いていたに間違いない。そこまでひどい死にざまだったのだ。
 彼の顔は怒りと驚きに醜くゆがんでおり、床はいうまでもなく文字通り血の海であった。
 当のマーサは失神して兵士から気付け薬をのまされている。
 そして、ローブをはおったハイム男爵も「武具展示室」に来て、じっと執事の死体を見つめている。
「これは、殺されてから少し時間がたっているな」
 彼は幾多の戦場を生き抜いてきた歴戦の勇士である。惨殺死体にでくわすのは、正直言って日常茶飯事であり、それもあってか取り乱してなどいない。
 しかし、ティーレル氏は執事ゲープルの死体にはちらりと目をやっただけで、関心は別のところに向けられている。
 それに不審の念を抱き、ハイムに声をかける。
「ティーレル殿。そんな胸像がどうかしたのですか?」
 やはり、この男もまた「探偵」の「やり方」をよく理解していないらしい。しかし、この世界では「探偵」は少ないのだ。やむをえない。
「いや、ここに並んでいるのは歴代の国王陛下のものですね?」
「そりゃそうですが、ゲープルが殺されたことと何の関係が?」
 彼は少々いらついている。胸像がどうしたというのだ。今問題にすべきは、執事殺しの犯人を捕まえることではないか。
「ここを見てください。ここにも王の胸像があったはずですよね?」
 ティーレル氏は指差した。確かに、そこだけ何もない。
「ん!?そうですな。そこには現在の国王陛下をかたどった胸像があったはずです」
「では、その胸像のなれのはてはこれでしょうな」
 彼は、執事の死体の側に散らばっている破片を指差した。
 男爵は驚いた。
「確かに。しかし、どうしたまたそんなに早く気づいた訳です?」
 ティーレル氏はやや厳しい表情のまま、答えた。
「最初から、あると思っていたからです」
 ハイムはけげんな顔をして、
(頭の良過ぎる男はどこか違うな)
 と感じた。
 推理を知らぬ者の落とし穴といえよう。
「そうすると、既に犯人は分かっているのですか?」
 男爵は問うた。
 探偵はしばし沈黙し、おもむろに口を開いた。
「そうです」
「では、犯人はこの館の中にいると?」
「外はひどい嵐です。ハイム閣下の忠実な衛兵の目を盗んでこの館に侵入した上で、殺しをすませてから脱出するのは至難の業でしょう」
 男爵は、いまひとつ合点がゆかない様子である。
「ちょっと待っていただきたい。ゲープルは背中に短刀を深く突き刺されていたのですぞ。あいつが拳闘選手だったことはご存知でしょう?よほどの怪力の持ち主で、なおかつ俊敏な動きを見せるものにしか傷を与えることなどできないはずですが」
 探偵はそっけなく答えた。
「知ってますよ。さて、ここに飾られた巻き上げ式石弓も持っていきますか」

 ティーレル氏はどこぞのベーカー街にいるような探偵ではないのだが、性格は似たところがある。自分が推理で到達したことを最後の瞬間まで巡察官にすら明かさないのだ。
「名探偵、パイプくわえてサテと言い」とは彼に対する適切かつ簡潔な表現といって良いだろう。もっとも、ティーレル氏には喫煙の習慣はない。
「さて、皆さん」
 探偵はなめらかに切り出した。
 彼の前には睡眠を妨害されて不機嫌なカトリーヌ夫人、好奇心のかたまりになっているハイム男爵、眠気を必死におさえている僧侶スレータ、まだ青ざめている老メイドのマーサ、それに大男の兵士がいる。
「ゲープルさんが亡くなられたことは先ほど申したとおりです。しかし、幸いなことに誰が殺したのかはよく分かっています」
 これに対して、夫人が言った。
「武具展示室の悪霊にでも殺されたのに決まってますわ。あんな屈強な男を一撃で倒すのは人間離れしています」
 ティーレル氏は両手をこすり合わせる。
 彼は、彼女の言葉に多少の関心を抱いたようだ。もっとも、ほめているつもりではない。この探偵の悪癖は自分より愚かな推理をたてる自称「才人」をからかうことにもある。
「そうですね、あれほどの力で短刀を突き刺すのは確かに『人間離れ』です。それは認めねばなりません」
 これに対し、「才人」カトリーヌはよけいにイライラした。
 しかし、文句を言ったところでティーレル氏を楽しませるだけである。
「しかし、人間が『人間離れ』した力を発揮することは可能なんです。ある道具を使ってね」
 さしもの男爵ものらりくらりした探偵の語り口に不満が高まってきた。
(犯人が分かっておるのなら、さっさと結論からしゃべればいいものを)
 それに構わず、ティーレル氏は長々と巻き上げ式石弓の殺傷力の高さ、そのあまりの強力さに侵略者に対してしか用いることを許さぬという前国王の遺言までとうとうとまくしたてた。
 その中で、彼の「解説」にイライラするのではなく、あぶら汗をたらしている人物がいた。
 探偵は、その人物にみょうにやさしい声で語りかけた。
「巻き上げ式石弓を使えば、あなたのような非力な男性でも十分人を殺せるんですよ。僕の言ったとおりですね、スレータさん?」
 その言葉を聞いたとたん、スレータは脱兎のごとく逃げようとした。
「逃がすな!」
 ティーレル氏はさけぶ。瞬時に兵士が動き、スレータを取り押さえた。
「やめろ、悪いのはわしじゃない……」
 「犯人」スレータは命ごいのような口調で弱々しく反論した。
 名探偵は、彼にちらりと目をやり、ことのしだいにあっけに取られている男爵らにこう言った。
「これで犯人の身柄は拘束できました。男爵閣下、今からはすべての問いに答えますよ。その僧侶は巡察官が来られるまで、初めあてがわれた個室に見張りの者をつけて穏やかに扱って下さい。自殺されたりすると元も子もなくなりますからね」

「結局のところ」
 ティーレル氏はくつろいだ様子で男爵らに話していた。
「この事件はごく単純なものでしたよ。それに、殺された執事のゲープルさんが強力してくださったのもついていましたね」
 ハイムには何のことやら分からない。
「何を言ってるんです、ティーレルさん?死人に何ができるというのです?」
 ここで、黙っていたカトリーヌ夫人が口を出した。全く見当外れではあったが。
「あなたは死者をよみがえらせる奇跡を行使したのですか?」
 男は黙って首を横に振る。
「僕は魔法使いでもないし、徳をつんだ聖者でもありません。ただ頭を使っただけです。それが『奇跡』と呼べるのならまた別の話になりますがねえ」
 マーサはさっき失神したことも忘れ、ティーレル氏による「種明かし」を聞きもらすまいとしている。
「気の毒なゲープルさんは死ぬ直前に、今の国王陛下の彫像をつかんでたたき壊しました。それこそが、彼の『協力』だったのです」
「ううむ、ある程度分かってきましたぞ」
 男爵は怒りで顔が赤くなっている。むろん、ティーレル氏に向いているわけではない。スレータに対してである。
「閣下は気づかれたようですね。そうです、ゲープルさんは犯人が『国王の権力に従わなくてもよい存在』、すなわち僧侶であることを伝えたかったのです」
 彼は自信たっぷりに「講釈」している。
「でも、あのスレータさんにゲープルさんを殺すだけの腕力がないと思うんですけれど。ねえ、ティーレルさん?」
 老マーサはさっきの彼の説明をすっかり忘れているとみえる。
 ティーレル氏は彼女の自尊心を傷つけたくなかったので、ていねいに説明し直すことにした。
「マーサさん、スレータは自分が非力であることを自覚していたので、巻き上げ式石弓を使ったのです。この種類の石弓は非常に殺傷力があるにもかかわらず、巻き上げ機構を備えているため力に自信がないものでも時間をかければ矢を放つことができます。これは探偵なら理解しておくべきで、僕も23種類の論文を発表したことがあります。まあ、それはともかく石弓で短刀を射出するというのは初めてですね」
 男爵が声を荒げる。
「何というやつだ!寺院の風上にも置けんな、あのスレータは!」
 探偵は彼の怒りを軽く手で制し、話を続ける。
「スレータは1月前にこの館に来て、ゲープルの短刀を盗みました。このことに僕はもっと早く気づくべきでした。そうであれば、凶行を防げたものを……」
 しばしの沈黙。
 カトリーヌがショックを受けた様子で、
「でも、どうしてあの男はゲープルを殺したのでしょうか。執事との間に何ら利害の不一致があったとは思えないのです」
 と言った。
「簡単なことです。スレータは執事など殺すつもりはなかったのです。石弓の矢代わりに使えるよう手を加えたゲープルさんの担当を石弓につがえようとしていて目撃され、彼がうっかり背を向けた瞬間に口封じに殺害したのです。男爵閣下のおっしゃったように、スレータは石弓を使ったことなどありません。しかし、『1メートル先の動かぬ目標』なら話は別です」
 彼はいったんここで口を閉ざして、周囲をぐるりと見渡した。
 ハイムが疑問を投げかける。
「では、あのナマグサ坊主が狙っていたのは誰なんです?」
 ティーレル氏はつとめて冷静に言った。
「あなたですよ、ハイム男爵」
「何ですと!?」
 彼は心底驚いていた。
「スレータは寺院への寄付金を求めていました。そんなに金を集めることがはたして神の御意志にそうものかどうかは僕の専門外なので語れませんがね。それはおいておくとしても、彼は閣下が寄付に批判的であることを知っていました。それに、自分が人間的にも閣下とはそりが合わないことをも自覚していました。しかし、幸いにもカトリーヌ様は信仰のためなら私財をもなげだす気質です」
「なるほどな。わしが死ねば財産の管理は妻にゆだねられることになる。だから、わしが邪魔だったのか……」
 ここで、男爵はこの探偵を尊敬の眼差しを向けた。
「しかし……あなたの推理はどこから生まれるのです」
「想像力ですよ。それはそうと、今度アラペシにおこしになる際にはジングシュピーゲルの『ツァウバー・フルーテ』を鑑賞されるといいですよ」

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