My Profile

名  前 山本耕平(やまもとこうへい)
生まれ 1955年(昭和30年)3月19日、兵庫県姫路市で生まれました。
姫路のこと
県立姫路西高校を卒業しました。高校時代は毎日姫路城を眺めていました。春、桜と白鷺城の織りなす景観はみごとです。播磨には勇壮な秋祭りがいつくもあります。その代表が「灘のけんか祭」です。7台の豪華な屋台が練り歩き、本宮では3台の御輿をぶつけあいます。毎年10月14、15日に行われます。この頃になると、何となくそわそわして落ち着かなくなるのは、先祖代々の遺伝子のせいかもしれません。
大学時代   


早稲田大学政治経済学部政治学科に入りました。77年に卒業。寄本勝美助教授(当時。その後学部長、現在は副総長)のゼミに入りました。「東京ごみ戦争」がようやく終焉した頃で、ごみ戦争の政策決定過程を研究して4人で論文をまとめました。ごみ問題は地方自治研究の格好のテーマであるとして、現場に出かけてごみ収集車に乗り、ごみの話を熱く語る寄本先生のゼミは、誰言うともなく「ごみゼミ」と呼ばれておりました。

神戸市役所
卒業するときは不況でした。狭き門だった神戸市役所になんとか入りました。環境局計画課に配属されてついに「ごみ行政」の現場に。5年目に企画局企画課に異動。神戸都市問題研究所で季刊誌「都市政策」の編集をしたり研究会の事務局をしたり、新修神戸市史編集室準備室で資料集めをしたり。ちなみに上司は高寄昇三・現甲南大学教授でした。市民と接する機会のない仕事にやや疑問を感じて退職。
ダイナックス           
市役所の頃から東京のサロン「集」を真似て、「関西ゴミニティ」とか「地酒の会」とかをやってました。大阪のマンションをみんなで借りて、いろいろな人が出入りしていました。「関西リサイクル運動市民の会」(現・日本リサイクル運動市民の会)が発足した当初で、同世代の連中とわいわいやっていました。そんなことが面白くなったのが転職の動機です。ドゥタンク・ダイナックスの田中栄治氏に誘われて東京に舞い戻りました。ドゥタンク・ダイナックス環境問題研究部は地域交流センター(株)ダイナックス都市環境研究所に改組して現在に至っています。
環境問題への関心
小学生の頃、学校にプールができて、川で泳げなくなりました。潮干狩りや釣りをしていた海が埋め立てられてしまいました。そんな体験が環境問題への関心を育んだんでしょう。中学の時、夏休みの自由研究で海の水質調査をやり、高校時代は父親が持っていた資料で臨海部の発電所や石油精油所建設を巡る住民運動のことを調べて公害研究発表会で発表しました。あのころは環境問題がライフワークになるとは思いもよらなかったですね。
NPO
いろいろな活動に首をつっこみました。「日本トイレ協会」「NPO法人雨水市民の会」「NPO法人東京いのちのポータルサイト」「NPO法人横浜プランナーズネットワーク」などに関わっています。
家族 横浜・鶴見に住んでいます。妻、子供(男・女)、犬(ケアンテリア)がいます。
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ごみ・3Rに関する本、トイレの本などを書いています。
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