はじめに、『まず、知ること』

『不用意に信じるな!』

 皆さんは、日頃、世の中で起こる出来事についてどの程度の関心がおありでしょうか? そのなかでも、国家政策、経済問題、民族紛争、環境問題、宇宙計画、テロといった国家レベルで考えるべき問題が多々ありますが、 こうしたものは、報道番組でのトップを飾るニュースとして取り上げられることもあり、 特に、人々の興味を覚えるものであるといえます。
 ところが、皆さんはその情報を、先ほど述べたテレビの報道番組や、その他には、新聞、ラジオといったマスメディアから得るしか方法がないでしょう。 それだけしか!しかも、皆さんはその報道を疑うこともなく、 そのまま信じてしまっているのではないでしょうか?
 中には何カ月もスタッフ独自の調査によって検討、考察され、初めて世にだされる報道もあるでしょう。 しかし、その日その日に起きる事件を早急に伝える場合には、上から降りてくる情報をそのまま伝えるしかないのが現実です。 こんな情報のどこに信憑性があるというのでしょうか?
 しかし、問題は、ただ情報を垂れ流しにしているマスコミにあるわけではなく、 それを信じてしまう我々個人にあるのではないでしょうか?
 オウム真理教が引きおこした松本サリン事件、あれには当初、 警察は、事件の第一通報者であった河野義行さんを容疑者と決めつけたという経緯がありました。 マスメディアも河野さんをまるで犯人扱いに取り上げ、連日連夜と報道しました。 あの時、日本じゅうの誰もが河野さんを犯人と思い込んでいたのではないでしょうか? なぜ、そうも簡単に信じ込んでしまったのか? 河野さんの家に、一般の家以上の薬品の種類があったくらいで?
 そこには、今の日本にある一つの通念が少なからず関わっていたと思われます。 それは「日本の警察は優秀である」ということです。 その通念は一般に正しいものですが、残念ながら、あの事件には当てはまりませんでした。 その通念くらいしか、我々に、松本サリン事件を考える材料がなかった。 そんな我々がはじき出す結論は明白です。 簡単に警察の発表を信じてしまった人々は、警察の過ちの片棒を担いでしまったようなものです。
 量的に少なく、根拠に乏しい情報で事実を捉えようとすることが、 どれほどの悲劇を生んでしまう危険をはらんでいることか。 『誰が悪かったか?』そんな議論は無意味です。 情報を提供する側、情報を広範囲に伝える側は勿論、 情報を与えられる側である我々にも、極めて大きな責任があるのことを認識しておくべきです。

『あやゆる視点の一つとしての陰謀論』

 事件のなかには、当事者が自分たちの存在を他人に知られないようにして、 引き起こされるものもあります。 一般にいわれる『陰謀』というやつです。 私は陰謀に関する書物を最近になって読む機会に恵まれました。 そこに書かれている内容は、過去にあった歴史的出来事についての陰謀論的見地による背後事実の紹介です。 『闇の支配者』、『秘密結社』、『世界政府』など、現実離れが否めない言葉が頻繁に飛び交います。
 なかには、突拍子もなく、呆れ笑ってしまうものや、 思わず考えさせられてしまうものまで様々です。 そして、実際、私は深く関心を持ちました。 決して、そうした記述を全く信じてしまったわけではありません。 ある事柄について考える場合、一つでも多くの視点、 他と異なる方角を向いたベクトルを持つ検証を材料として持っている状態にありたいと思うからです。 マスコミからの情報は、提供する側の都合があまりに含まれることが多いのです。
 あくまで情報とは、我々が物事を捉え、客観的事実を構築する上での材料であらねばならない。 何より自分で考えること、そのためにも知ること。
 陰謀論で語られる『闇の支配者』は、大衆に対して、一つのことだけを望むと言われます。 それは『知らないこと』です。 だから、我々が『知ること』は、彼らにとって脅威となるのです。 これは、程度が落ちますが、皆さんがよく知る日本の政治権力者たちにも当てはまります。 なぜ、あれほどまでに『情報公開』に抵抗しているのか? それは我々に『知られる』ことがどういうことなのかを彼らが知っているからです。
 私がこのページで紹介する話題は、複数の陰謀論的書物に記載されているものを、 私なりの考えを含めて取り扱ったものです。 この種の話に詳しい方々にとっては、全く真新しい印象を与えることはないと思います。 私としては、この話題について知識のない方々に読んでいただきたい。 そして考えてほしい。