四十九日
 
 読経を終えて表に出ると、幸い、雨の上がった青空から爽やかな風が吹き付けていました。住宅の間に遠く望める稲穂の上を光を散らして風が行き、さらに遠い幼稚園の赤い屋根は青空に映え、ジャングルジムや砂場のあるグラウンドに園児たちの声がこだましています。
 黒い喪服姿の親類縁者が次々と表に出て来て車に乗り合わせ、最後にやっと、骨壺を胸に抱いた陽子さんが現われました。長男さんが陽子さんに、
 ──おカア、と声をかけました。どっちの車を出そうか?
 ──あんたのはジープみたいな奴じゃったよなあ。
 ──そうじゃ。
 ──それならうちのを出してえや。
 ──鍵は?
 骨壺を抱えた腕に提げていたハンドバックの口を器用に開けて、
 ──見えるじゃろ?.と陽子さんは下目使いで教えました。
 ハンドバックの中を覗き込んで車の鍵を手にした長男さんは、2000CCの白い乗用車を玄関先に回しました。車体の低い、かつてわたくしも乗っていたスポーツタイプの車でしたから、ギックリ腰に悪いだろうなと思いつつも、だからと言って断わるわけにも行きません。
 ──どうぞ、古い車ですが、と陽子さんに誘われて乗り込んでみると、予期した以上にシートが低く、まるで仰向け状態で穴ぐらに潜り込んだようでした。運転席が長男さん、助手席に次男さん、後部座席に陽子さんとわたくしが乗り込むと、
 ──おカア、出すぞ、と長男さんが言いました。
 ──あんた、どこか分かっとるんじゃろうな?
 ──分かっとるわい。
 今や近郊の量販店に客を奪われ、閑散とした駅前デパートの脇を走って、踏切を渡り、国道を越えて観音谷に入って、谷半ばの山斜面にある共同墓地に上がって、小石川家の墓地の中ほどに掘られた穴に骨壺を納めました。そして墓標を立てて、砂で埋めて盛り土して、花を活けてお供え物を供え、ロウソクに火を点け、みんなで線香を添えたあと、わたくしが読経しました。それから寺に回ってお参りしたあと、本堂の格子天井に描かれた装飾図を見上げながら、
 ──お堂の中に入ったのは初めてです、と陽子さんは愛嬌のある目をわたくしに向けました。裏に銀杏の木がありますよね?
 ──ええ。
 ──あの実を花屋のカズちゃんと取りに来たことがあるんです。皮がとても臭くて、その臭いがなかなか落ちなくて困りました。
 ──実が熟る頃には、大勢の人が取りに来てましたよねえ。
 ──でも、まだあの銀杏の木はあるんでしょ?
 ──ありますが、枝を払ってから実が熟らなくなりました。もう30年以上たって、枝もまた大きくなってるんですけどね。
 ──そうですか……。
 ──カズちゃんというのは、川向こうに嫁がれた方じゃありませんか?.とわたくしは門徒の1軒を思い描きながら尋ねました。スラリとした美しい人ですけど。
 ──それは姉のミネ子さんでしょう、と陽子さんは言いました。もっとも、カズちゃんもスラッとした美人ですけど、彼女は東京に行きましたから。
 ──ああ、そうなんですか。
 ──私はもっぱらカズちゃんとよく遊んでました。自転車で川口まで出て、夜遅く帰って親から大目玉を食らったこともあります。もう遠い昔の話ですけど……。
 とは言え、59才のご主人を亡くした陽子さんはまだ50半ばといった感じで、明るく快活だった若い頃が、愛嬌のある目元や口元に時に閃くのでした。
 陽子さんと和子さんとは幼馴染みで、高校も同じ女子校に通う仲だったということです。ある日、和子さんが真剣な面持ちで、──男の子から手紙をもらった、どうしたらいいかしら?.と相談した時、
 ──知らない子なんでしょ?.と陽子さんはまず確かめました。
 ──ええ……まあ……。
 ──そんなの、無視、無視!.と陽子さんは2人で食べようと買って帰っていた新発売のスナック菓子を頬張りました。
 ──まるで知らない人でもないんだ。
 ──うん?.と陽子さんは口の動きを止めました。どういうこと?
 ──朝のプラットホームで出会う人なの、それに中学時代の同級生だし……、と俯く和子さんの、陶器のように白く艶やかな顔に見る見る朱が広がりました。
 ──えっ?.と陽子さんは眉間に皺を寄せました。と言うことは、私も知ってる子?
 ──ええ……まあ……。
 ──誰なのよ?.と陽子さんは我知らず詰問する調子でした。
 ──西岡くんなの。
 ──エエッ!.と陽子さんの細い目が精いっぱい開かれました。あのガリ勉の西岡くん?
 小さく頷く和子さんの、セーラー服の胸元の白い肌を眺めながら、──美人は得だなあ、と改めて陽子さんは嫉妬しました。年に1度は和子さんから恋の相談を聞かされている陽子さんは、逆に自分から相談したことがありません。活発で、どんな男の子とも物怖じせず話の出来る陽子さんは、女子校に進学してからも、男の子と接する機会はたんとありました。しかし、1人の男から1人の女として恋された経験はなかったのです。
 ──美人の特権だなあ、と声に出した陽子さんは、冗談の調子を装いながらも、半ば本気でした。まあ、好きにしたら。
 ──好きにすると言ったって……。
 ──だからさ、好きなら付き合う。イヤなら断わる。それだけのことじゃん。
 ──でも、急に告白されたから、どう判断していいか、分かんない。だから、ヨウちゃんに相談したんじゃない。
 ──と言うことは……、と陽子さんの頭にある閃きが閃きました。今まで相談しなかった色恋沙汰もあったってわけだ。
 ──そんなことない、と和子さんは否定しました。それに、そんなこと、どうだっていいじゃない。
 ──ふうん、と、この春の修学旅行の時に一緒に入った風呂場での、実に手足の長くてほっそりとした、スタイルのよい白い和子さんの体と、大きな乳房があるとは言え、丸太のように脚の太い、小麦色した自分の体とが、陽子さんの脳裏に鮮やかな対照を結ぶのでした。
 むろん、陽子さんはもうそれ以上関わる気など毛頭なかったのですけれど、
 ──これ、渡して欲しいの、と、和子さんが1通の手紙を差し出しました。
 ──えっ、私が?.と陽子さんは驚きました。
 ──だって、まるで無視したんじゃ、気の毒だもの。
 ──ふーん、と、陽子さんは銀縁のある封筒を片手で裏表させながら、ちょっと思案する風でした。分かった。ま、あんたじゃ相手も硬くなるだろうから、私がピンチヒッターになろうか。
 ──ありがとう。
 それは暑い昼下がりのひと時でした。樹上高くミンミンと蝉が鳴く緑陰の石段を登り、風雨に摩滅した石造りの鳥居を潜ると、夏草に被われた神社の境内です。その隅に白いカッターシャツの今岡くんがいて、黒縁メガネをかけて、こちらを窺っていました。
 胸元の大胆に開いた水玉模様のワンピースの陽子さんは、思い切り腰のベルトを締めたためにいささか息苦しく、日向に出るとたちまち噴き出す汗の玉が首筋を流れ落ちました。
 ──こんにちは、と陽子さんが声をかけると、
 ──ああ、と今岡くんは疑わしげな目で見つめたままです。
 ──ハイ、これ、と、陽子さんは和子さんの手紙をヒラヒラさせました。
 それに今岡くんの視線が注がれ、怖ず怖ずとその手が延びましたけれど、
 ──でも、1つ条件があるの、と陽子さんは素早く手紙を引っ込めました。
 ──条件?.とメガネの奥の今岡くんの目がねちっこい光りを帯びました。
 ──そう!.と陽子さんはあくまで快活です。この場で返事が欲しいの。だから、ここで読んで、どういう返答か教えて。それを私がカズちゃんに伝えてあげるから。
 モジモジとためらった今岡くんに、しかし、選択の余地などあろうはずがありません。素直に頷き、その場で開こうとして、──人が来たら困るわ、と陽子さんに言われて、社の裏の高い椋の木の下に回って、肩を寄せて覗き込んでくる陽子さんを気にする余裕もなく、封を切りました。
 「お返事、遅くなってごめんなさい。何度もお手紙を頂いたこと、私とても嬉しく思っています。早くお返事を差し上げなければと思いながら、あれこれと忙しくて(それもきっと、返事の遅れた言い訳にすぎません。ホントにごめんなさい)、今まで出せませんでした。
 私、あなたのお気持ちをとても嬉しく、ありがたく思っています。でも、今は受験勉強があるから、とてもあなたのお気持ちを受け入れるだけの心の余裕がありません。勉強家のあなたにこんなこと言うの、ホントに言い訳じみてると自分でも思うのですけれど、でも本当のことなんです。
 もっと余裕があればと、とても悲しいです……。どこかでまたいい巡り逢いに恵まれることを、ホントにホントに願っています。
山田陽子」
 じっと文面に見入っている今岡くんに向かって、
 ──これじゃあ、返事のしようがないわねえ、と陽子さんは息がかかるほど間近でささやきました。
 ──いや、「待つ」と伝えてください、と言いながら、今岡くんは淡い桜模様のぼかしの入った手紙を見つめめています。
 ──ええ?.と陽子さんは思わず声を上げました。だって、これ、断わりの手紙なのよ。今岡くん、そのことが分かってるの?
 ──受験で忙しいんだから、受験が終わったら、付き合ってくれるかも知れない。
 ──ふう!.と陽子さんは溜め息をついて、社の向こうで眩しく日の光を浴びている境内の広がりを眺めました。美人はこれだから得なんだ。
 ──いや、そういうことじゃなくて……。 そして、改めて陽子さんの存在に気づいたかのように振り向くと、汗の筋の幾つも光る豊かな胸元が、今岡くんの目の中に飛び込んできました。
 そのまま別れた2人が、いつとなく逢い引きを重ねるようになったのは、もちろん、陽子さんが積極的に働きかけたからです。それを知った和子さんは珍しく激怒し、──友情を裏切られたわ!.と詰ると、──わたしはあんたのゴミ捨て場じゃないのよ、と陽子さんも負けてはいません。わたしがわたしの好きな子を選んでも、あなたに批判される筋合いはない。
 翌春、東京の大学に進学した和子さんは、帰省してももう陽子さんと会おうとはしませんでしたが、噂によれば、幾つもの恋愛沙汰を繰り返し、今もって独身だそうです。彼女が希望の服飾デザイナーとしてどれだけ成功したのか地元の人間には分かりませんでしたし、いつまでも彼女に関心を持つ人もいませんでしたが、──成功したはずがないわ、してたら、吹聴するはずだもの、と陽子さんは確信していました。
 その陽子さんは地元の専門学校に進み、関西の大学に進学していった今岡くんの下宿に泊まりに行く仲になりました。そして彼の子を身ごもり、すったもんだの挙げ句に、結局中絶し、25才になった春に小石川氏と見合い結婚したのでした。
 ……
 ──おカア、と、四十九日の法事が終わり、客が帰って、ひっそりとしている座敷にあぐらを掻いた長男さんが声をかけました。わしもボツボツ結婚せんと行けんかのうや?
 ──あんたの好きにすりゃええが、と、黒い礼服の大きな尻を向けて、陽子さんは床の間の遺影の位置を決めあぐねています。
 ──結婚したら、わしはここを出るぞ。
 ──好きにすりゃあ、ええが。
 ──いずれ、陽次も出るぞ。
 ──好きにすりゃあ、ええ。
 ──おカア独りになるが、それでもええんか?
 ──仕方ないなあ、と独り言のように応えると、これはやっぱり、もう一度住職に相談せんとダメじゃな、と陽子さんはつぶやきました。