大山
 
 今年の夏の暑さにわたくしはフラフラでした。それでも盆が終わって、長女がオーストラリアでホームステイをしているからには、次女と三女を連れてどこか旅行に出かけなければならないと義務のように思い至ったのは、来年、次女が高校3年になるからです。家族が家族たりうる時間もあとわずかだったのです。
 ──大山に行きたいな、と妻が言いました。高校の時に登ったきりだものね。もう1度、登りたかったんだ。
 ──しかし、登るとなると、日帰りではムリだから、そうなると、26〜27日しかないなあ。
 ──そうしましょうよ。
 ──確か雨の予報だったんだよなあ、とわたくしがインターネットで確かめると、やはり、ちょうど26日の日曜日から4〜5日間、気圧の谷が西日本に停滞するらしいのです。
 そうは言っても、あとわずかの8月中に他に好都合な日がなく、他の行き先をあれこれ検討してみても、雨ならどこだろうと面白かろうはずがありません。大阪に出来たUSJ(ユニバーサル・スタジオ・ジャパン)にでも行くかと言うと、
 ──わたしは行きたくない。大きくなって子供たちで勝手に行けばいいじゃない、と妻が猛反対でした。
 わたくしもかつてほど(長崎にハウステンボスが出来た頃ほど)テーマパークに対する関心は薄れていて(もっとも今もってまだハウステンボスを訪れていませんでしたが)、もし予報が外れて晴れるならばいちばん後悔するであろう大山行きに最終的には落ち着きました。それというのも、「曇りのち雨」とか「曇り時々雨」といったぐずついた予報だったゆえに、大雨になる恐れは少なかったからです。
 実際、26日の朝の曇り空を仰ぐと、わたくしは大山行きで正解だろうと予感しました。そして、山陽道から岡山道、さらに中国道から米子道に至る間に、予感はさらに確信に強まりました。なにせ、岡山道の途中で立ち寄ったパーキングエリアで白い霧が俄かに吹き付けたくらいで、心配していた山間部、あるいは山陰地方は、むしろ青空に白雲が棚引く好天気でしたから。
 妻が熱望していた特産アイスクリームを販売している蒜山パーキングエリアから北東の空を眺望しても、どれが大山なのか、わたくしには判然としません。去年の春、同じこのパーキングに寄って仰いだ大山にはまだ雪が白い筋を引いていて、すぐそれと見分けが付いたのですが、どうもその方角が今日は雲に隠れている気がしてなりません。地図からすればあれだろうと子供たちが指さす遠くの山は、大山にしてはミニチュアに過ぎる気が、わたくしの目にはしたのです。
 パーキングを出てすぐの蒜山インターチェインジから高速道を抜けて、標識に従って、展望台やら国民休暇村やら立ち寄りつつ、秋の紅葉が素晴らしいであろうモミジ林の中の道路をグルグル巡って、白っぽい粗石が川幅を埋めて転がり落ちている谷に架かった橋を渡った先に、ひどく真新しい(ちょうど新装開店のような)大山の町がありました。
 予約していたホテルのチェックインは午後3時からで、まだ1時前でしたから、ホテルの駐車場に車を残して、わたくしたちは埃のまだ付かない切石が目に清々しい、店や宿の並ぶ、所々杉の大木が空に向かって伸びている大山寺までの坂道を散策しました。大山寺の山門はまだ木の香の立つような鮮やかな木肌色で、ガラス格子の中に収まった2体の仁王像も最近のもののようでした。その脇に寄付者一同の掲示板が立ち、拝観志納金300円を納めなければ境内に入れませんでしたから、それが寺の新たな経営基盤なのでしょう。
 江戸時代、3000石の所領を賜っていた大山寺は、明治になると、一時大山という寺号も剥奪され、大神山神社が神仏習合から分離して栄えたのに比例するかのように衰微の一途を辿ったようです。明治初期、「廃仏毀釈」によって多くの寺院が荒廃に帰した理由の1つには、大山寺のように、いわば大地主化していた寺院に対する人々の反感があったのではないでしょうか?.無理やりの「政策」によって時代が動くはずがなく、そこには必ずそれを是とする人々の共感があったはずなのです。さらに遡って江戸初期、檀家制度が定着したのも、たとえば浄土真宗で言えば、既に門徒講が広く行き渡っていたことと無関係ではないでしょう……。
 大山寺の境内深くに本堂があり、その脇の山道を辿ると、自然石が敷き詰められた、森閑とした参道でした。なるほど、その奥の大神山神社は、塀のように両横に延びた大きな社でしたが、江戸末期の建造にも関わらず柱や梁が白く老朽化しているのは、深い森林に囲まれた湿度の高さゆえでしょう。政府の庇護を失った神道は神道で、今また自活の道を探らなければならなくなっているのです。
 妻子から遠く遅れてやっと、大山寺の山門と隣り合った神社の鳥居まで引き返したわたくしは、(妻子は要らないと外の床几で待つ間)レストハウスでコーヒーを飲んで一息つきました。それから大山寺の宝物殿を拝観し、阿弥陀堂に行く道を受付の婦人に尋ねると、ここから歩いて15分くらいかかる、それに堂内には入れないと聞かされて、諦めて(わたくしはホッとして)、ホテルに戻りました。
 そして翌朝、ホテルが作ってくれた4人分の弁当をサックに入れ、自販機でペットボトルのお茶を買い、わたくしはステッキまで買って(木のステッキでしたが、ずいぶんと軽く、きっと少しでも負担を少なくするためなのでしょう)、昨日行かなかった阿弥陀堂に立ち寄ってから(ちょうど修復中で、堂内を照らす灯によって、白布のカバー越しに金色に輝く光背が見えました)、その近くのブナ林の中を頂上に向かっている夏山登山道に踏み込みました。息せき切らして登っていくと、チチチッと鳥の声のする爽やかな朝の空気の彼方に、日本海がぼんやりと青みがかって広がっています。境港や美保はあの辺りだろうと、地図帖を脳裏に描いて眺めるのでしたが、朝靄のためにハッキリしません。頭上には明るく白く渡る雲の上に静謐な青塗りの空が広がり、雨の気配など微塵もありません。わたくしは改めて来てみてよかった、来なかったらきっと後悔していただろう、と思いました。しかし、妻子に遅れつづけるために、
 ──オレはもうここで引き返すよ、と言って、自分の弁当を受け取り、吹き上げてくる霧がブナ林の下の灌木を瞬く間に白く渡っていくさまを眺めていると、先ほどわたくしたちが追い越した老人が、先ほどと同じゆっくりとしたペースで上がってきました。
 ──ご苦労様です、とわたくしは先ほどと同じ言葉をかけました。
 ──よいしょ!.と近くの木の根元に腰を下ろした老人は、お子さんたちは?.と問います。
 ──ずっと先を行ってます、とわたくしは応えました。ボクはもうしんどいや。
 ──自分のペースで行くことですよ、と老人はわたくしにチューインガムを1枚くれました。
 ──すみません。
 ──どちらからおいでですか?
 ──K市です。
 ──それは奇遇だなあ!.と老人は声を上げました。実はボクは数年前までK市にいたんですよ。15年はいたかなあ。ユートピアというチェーン店があるでしょう。あそこと営業上、深い関係があって、社長とは飲み友達なんだ。
 ──ははあ、なるほど。で、今はどちらに?
 ──四国のM市にいます。そこが故郷なんですよ。
 ──お仕事は?
 ──この春、66で退職しました。だから今、いろんな所を遊び回っているんです。大山にはぜひ登りたかったから、この春からサイクリングで足腰を鍛えてきたつもりなんだけど、平地を行くのと山に登るのとは全然違いますなあ。
 ──ボクはもうムリですね。
 ──ゆっくりと時間をかけて登ることですよ。
 ──いや、とわたくしは腰に手を当てました。再発したギックリ腰が、やっと治ったところでしてね。これ以上ムリをするのは恐いや。
 ──あなたにはまだチャンスがあるから、と言って、老人は立ち上がりました。ボクは最後のチャンスだから、頑張れるところまで頑張ってみよう。
 そして暫く登って振り返った老人は、
 ──3合目ですよ!.と傍の立て札を指しながらわたくしに向かって叫び、大きく手を振りました。
 3合目だと言われて(しばらく休んで疲労感が抜けたこともあって)、その立て札の所まで登ってみましたが、すぐまた膝がガクガクの状態です。途中で引き返す無念さと、「引き返す勇気を持とう」と記されていた、朝見た派出所の前の立て看板の標語とが、ひと時わたくしの気持ちの中でぶつかり合いました。そして、──ええい、引き返すぞ!.と掛け声をかけて、来た道を途中から降りていきました。確かにまだチャンスはあるはずでしたから。しかし、本当にチャンスがあるだろうかと自問すると、ないかも知れない、と自答したくもなりました。何しろ30年ぶりの大山なのだから、もしまた30年後にチャンスに恵まれたとしても、その時はもう80才だ……。
 妻子が山頂から下りてくるまで、わたくしは、昨日大山の町に入るために渡った橋の傍にあった、もう萩の花が咲きかけている小さな公園の芝生の上に寝ころびました。そして、時に雲が晴れ渡ると、姿の露わな、鮫の歯のように急峻な大山の峰々を仰ぐのでした。