隣の垣根
 
 盆参りに馬屋原勇作さんのお宅を訪ねると、道に面してこんもりと茂っていた貝塚の生垣の枝が切り払われて、まるで羽を毟られた鶏のように寒々と幹が並び、目隠しのために新たに竹が結い渡されていました。読経を終えてアイスコーヒーをいただきながら、
 ──いったい生垣をどうされたんですか?.とわたくしは尋ねました。──剪定にしては、ひどく乱暴にされましたねえ。
 ──かえって目立つでしょう、と、メガネをかけた細面の奥さんは、見た目の印象と違って話好きのタイプでした。──主人が短気を起こして、半日でああしてしまったんです。
 ──短気を起こして?.何かあったんですか?
 ──いえね、垣が通行の邪魔なる、道路は公共物のはずだと、わざわざ役場に訴えた人がおってんです。
 ──そうですか……、とわたくしは改めて庭を取り囲んでいる、今は幹だけの生垣を眺めました。なるほど、今まで貝塚の枝が大きく道路に張り出していたのは事実ですけれど、それが交通の邪魔と言えるほどには、そもそも、人も車も往来のない地域でした。道沿いに家が建ち出したとはいえ、まだまだ水田の多いところだったのです。
 ──交通の邪魔になんかなりゃしません!.と、奥さんは目の前の蝿でも追い払いように手を振りました。──自分の田んぼがすぐ傍にあって、トラクターを置くのに不便だから、そういう風に訴えちゃったんです。
 ──なるほど。言ってみれば、自分の不法駐車の邪魔になるというわけですな。
 ──そうですが!
 ──どこの方がご存じですか?
 ──観音谷の馬屋原さんです。
 ──馬屋原!
 ──はい。
 ──同じ名前じゃありませんか。ご親戚じゃないんですか?
 ──違います。親戚なら、そんな無茶なことを言うはずないですが。よう知りませんが、きっとタチの悪い人なんでしょう。
 観音谷には馬屋原家が多く、話題の主はいちばん奥の馬屋原運吉さんだと分かり、谷の奥の運吉さんが平野の真ん中に広い田を所有しているは意外でしたけれど、実は運吉さんに限りませんでした。かつては水田が何より大切でしたから、出来るだけ広く田を確保するために、山麓とか谷間とかに住まいを造っていたのです。
 勇作さん自身、30年前、親が田んぼを宅地化して今の地に引っ越して来るまでは谷の人間でした。それゆえ、年齢の近い運吉さんとは少年時代を共に過ごしたはずですが、同じ年頃の広美さんや勝士さんの話題は出ても、今まで運吉さんに及ぶことがなかったのは、あるいは遊びのグループが違っていたからかも知れません。あるいはまた、余人には分からない確執があったのかも知れません。
 いずれにせよ、わたくしは、勇作さんや奥さんと一緒になって、運吉さんの悪口にウンウンと頷くわけには行きません。運吉さんのお宅を訪ねた際には、その奥さんの話を聞かなければなりませんから……。
 勇作さんのお婆ちゃんは篤信家で、いつも穏やかな笑顔でわたくしを迎えてくれました。そして、最近は奥さんの方が出るようになったのは、勇作さん夫婦に全てを譲ろうというお婆ちゃんの意向のようでした。「生垣騒動」を聞く場にお婆ちゃんがいなかったのも、それゆえ、わたくしは奇異に感じませんでしたが、実はその時、お婆ちゃんは市民病院に入院中だったのです。
 ──ずっとT先生のお世話になっとんたんですが、町医者は当てになりませんなあや、と、お婆ちゃんの葬儀の打ち合わせのために寺を訪れた勇作さんが言いました。──市民病院に行って診てもらうようにと急に言うてじゃから、連れて行くと、「どうしてこうなるまで放っておいたんか?」と、まるで私らの責任のように咎められました。私が大きい病院で診てもらう方がよかろうと幾ら言うても、お袋は「T先生に悪い」の一点張りでしたから。先生は先生で、「その必要はない」の一点張りでしたしなあ。そりゃまあ、病院としては患者を手放したくないんかも知れませんが、それで1人の人間の命を左右されたんじゃあ、たまりません。
 ──実は腎臓に癌が出来とりまして、市民病院ですぐにその腎臓を切除してもろうたんですらあ。すると、途端に見違えるほど元気になりましてなあ。市民病院の先生が、「腸に残っとる奴を放射線で散らせば完璧じゃから、馬屋原さん、やりましょうや」と仰るから、私は「それは安全なものなんですか?」と聞いたんですらあ。放射線というと、素人にはどうしても恐ろしいですからなあ。腹にピッピッと当てるだけですぐ終わると言うてじゃから、それを2〜3回、やりましたかなあや。すると急にお袋が下痢をし出して、慌てて相談すると、助手の先生がポロッと、「こりゃあ、放射線の当て所を間違えたかも知れんなあ」と洩らしちゃったんですらあ。たった1度だけで、後でその人も「そんなことは言うとらん」と強行に否定しましたが、わしも女房もちゃんと聞いとります。
 ──そりゃあ、今、話題の医療ミスのじゃないですか?.とわたくしは言いました。
 ──ちょうどその頃、患者の腹にボトルか何かを残していたと、市民病院がテレビや新聞で叩かれてた時期なんですらあ。
 ──そう言えば、そんなことがありましたよね。
 ──それやこれやで、病院もてんやわんやじゃったんでしょう。主治医の先生がお袋を診に来ることはめったにありませなんだものなあ。助手の先生に、「ご危篤状態です。ご親戚の方々を呼んでください」と何度言われたことか。「もう3日と保ちません」と言われて、今度こそもうダメだと覚悟したら、急に顔を出した主治医の先生が、「そんなことはない。ボクが治します」と言うて、お袋の体中をチューブだらけにしたんですらあ。点滴やら何やら、いろいろあり過ぎてもう忘れましたが、意識不明に陥ってたはずのお袋が目を開けて、私の言葉に頷いてくれたんには驚きましたなあ。何かせっかく「あの世」に向かっていた人間を無理やり引っ張り返したようで、正直言って、ちょっと不気味な感じがしました。
 ──死なさないだけなら、今の医学は幾らでも出来ますからね。
 ──そうなんですらあ。それで2週間、保ちました。
 それでも雪の降る冷たい朝に、お婆ちゃんは静かに息を引き取ったのことでした。
 ──その時、先生や看護婦がみんなでやって来て、「これは高齢が原因なんだから、そのことを家族でしっかりと意思統一して、変なことを口外してもらっては困る」とまるで脅すように言うてんですらあ。わたしもついカッとなって、「新聞に垂れ込むように真似はしませんから、安心してください!」と言うと、先生も看護婦もシンとなって、誰も何も言うてんなかった。
 ──町医者も安心できないが、総合病院も恐いですね。
 ──そうですらあ。こりゃあもう、日本全体が壊れかかってますなあや。
 ──ウーン、と腕組みをしたなり、わたくしは肯定も否定も出来ませんでした。
 いずれにせよ、どんな時代、どんな場所であれ、「死」は、わたくしたちにとって不意の訪問者に違いありません。それゆえ、いかに文明が進もうとも、「死」を悼むためには「儀式」しか残されていないのです。
 部屋いっぱい白菊に囲まれた祭壇の真ん中で、照明を内蔵して明るく光るお婆ちゃんの遺影は、生前中そのままにそのふっくらとした丸顔と穏やかな瞳を会葬者に向けていました。その85年の人生はきっと、穏やかに充実したものだったことでしょう。残された者たちは、先立った人の人生を静かに振り返ることが出来るばかりです。
 
 流転三界中
 恩愛不能断
 棄恩入無為
 真実報恩者
 
 葬儀の開始を告げるこれらの言葉には、確かに人生の実相が凝縮されているのです。そして、
 
 南無帰依仏
 南無帰依法
 南無帰依僧
 
 と続く言葉に、1つの生き方が選び取られているのです。