遠照
 
 夕佳山は小学校のすぐ東の空を塞ぐように迫り、風が吹くと木立ちが生き物のように揺れ騒ぎ、秋になると空いっぱいに枯葉を飛ばし、冬には茶枯れた小道が分かるまでに山肌を露わにしました。夏になると蛇を恐れつつも友達と緑陰の深い楠の下に集まり蝉を取りに行ったその夕佳山に、わたくしが独りで登るようになったのは、中学生になってからです。独りで見下ろす穴浦平野は当時はまだ水田が広がっていて、6年間行き来した小学校がいかに狭い世界だったか、改めて感じたものでした。
 北の空の下には中国山脈の山々が重なり合って起伏し、1カ所、継ぎ当てされたように畑や人家が見えるのがH村でした。平野の西の山々に添って銀色に光りながら蛇行しているのが千田川で、自転車に乗って20分ほどかけて、夏になると友達と泳ぎに行ったものです。三方を山々に囲まれた夕佳山からの眺望は、唯一、西方の平野の上に大空が広がり、風のない春の夕暮れ時に独りで佇んでいると、真っ赤な落日が懐かしくてなりません。暖かい大気の中にいると、まだ新芽の吹かない木立ちを透かして小学校を見下ろしている、国旗のない国旗掲揚台の下の自分には、何か特別な運命が授けられているような気がしました。いや、すぐまた、足元に芽吹いたばかりの雑草に過ぎない気分になって、「清く貧しく美しく生きる」野の草のような未来を思い、ふと目頭が熱くもなりました。以来、そんな感慨はいつまで経っても、わたくしの心のどこかに潜んでいました。
 ──いやあ、鄙びた町ですなあ、と栗山氏は実に率直な物言いの方でした。──文人の町として知られているから、以前から関心があったんですが、来てみて良かった。この風情を目にしただけでも、今日の収穫は十分だ。
 ──でも、選考をしないわけには行きませんよね、とわたくしは言いました。
 ──たった8作ですから、すぐ終わりますよ。
 ──まあ、そうでしょうね、と言って、会場になってもらったお礼だと氏が差し出した洋菓子を受け取って、それを妻に渡して、わたくしは2階の座敷に案内しました。
 庭を挟んで窓近くまで張り出している本堂の鬼瓦の上に大きな枝を広げている銀杏の木や、家並みの上の夕佳山を眺めながら、
 ──いやあ、絶景ですなあ、と氏は感嘆しました。
 ──毎日、見慣れた景色ですから。
 ──大きな空に大きな木、それに間近の空など仰いでいると、気分も大きくなるでしょう。
 ──上ばかり見て生活してるわけじゃありませんけどね、とわたくしは言いました。──むしろ、墓場の方が目に付きますよ。
 本堂の周りに広がる墓地に視線を落とした栗山氏は、ひと笑いして、
 ──それも人生を考えるキッカケになりますな、と言いました。
 ──そうですねえ……、とわたくしが応じている時に入って来た妻が茶菓を置いて降りていった後、わたくしが選評のコピーを渡すと、氏はまだ文章にしていないとのことでした。選考会議を終えてからまとめたいとのことだったので、「それでは」とまずわたくしがコピーを広げて自分の評価を説明しました。
 栗山氏は「フン、フン!」と大きく頷きながら聞き入っていましたが、いざ議論に入ると、氏の頭の中では既に抜き差しならぬ評価が下されていました。
 ──あなたの仰る通り、確かに『一日』は、いわゆる私小説の類いでしょう。しかし、私小説であれ何であれ、いいものはいいんじゃありませんか?.少なくともあなたの推す『花』や『ラブレター』のような破綻がありませんし、登場人物の個性が描き分けられているのは、応募作の中では『一日』だけですよ。
 ──個性って何ですか?.とついわたくしの語気も強くなりました。──単にエゴイズムの反映じゃありませんか。なるほど、「個」の解放が文学のエネルギーとなり、それが西洋の近代文学を形成したのは間違いないでしょうけど、今以てそれが文学の尺度でしょうか?
 ──文学の基本は「人間」で、人間が描かれているかどうかは「個性」を描き分けているか否かに尽きるでしょう。それ以外に一体どんな尺度がありますか?
 ──「人間」とか「個性」とか、そんなモットーでやっていける時代かどうか、ボクには疑問ですけどね。
 ──じゃあ、何をモットーにするんですか?.Jさんの主張は曖昧模糊としてて、ボクは付いていけないなあ。
 わたくしはいささかムッとしましたが、
 ──今回の作品に即して言うと……、と努めて冷静に言いました。──ボクはやっぱり、少々の破綻はあっても、『花』や『ラブレター』の文章のセンスやディテールの扱い方に作者の可能性を感じますけどね。
 ──それはボクも認めます、と氏は頷きました。──確かにその2作には才能が感じられる。しかし、それじゃあ、才能って何ですか?.単にちょっと筆先の運び具合がうまいと言うだけでしょう。「人間」、もっと言えば「人生」を真摯に描いた作品にのみ、ボクらは感動するんじゃありませんか?.確かに『一日』はダサイ印象があるけれども、しかし、確実に現代社会の一面が鋭くえぐり取られています。老人ホームに送り込んだ親を一日わが家に引き取った時の家族の感情の起伏を描くというのは、それこそ、現代的なテーマでしょう。描き方が私小説風だという理由から、それを過小評価するわけには、ボクは行きませんね。
 議論の中身よりも、栗山氏の口吻に半ばあきらめたわたくしは、
 ──入選は『一日』ということにしましょうか?.と妥協しました。──まあ、何か1作を本に載せなければならないとなると、『一日』が無難かも知れません。
 ──その通りなんですよ!.と栗山氏は大満足の体でした。──『花』や『ラブレター』は欠陥が見えすぎる。『花』の感覚は確かに新しいだろうけど、「それがどうしたんだ?」と開き直られると、おしまいでしょう。『ラブレター』の方は、Jさんも評に書かれている通り、筋立てが余りにも荒唐無稽です。若い女性の揺れ動く心理の綾を描いていると、好意的に読めないこともないけれど、それにしても荒っぽい。推敲の余地が大いにありますな。
 ──推敲と言えば、『一日』にも必要なことじゃありません?
 ──この作者はこういうタイプなんですわ、と氏は素直に認めました。──推敲すればもっと良くなると昔から言ってるんですが、改めませんなあ。
 ──先生のご存じの方なんですか?
 ──ボクが以前から関わってきたコンクールによく応募してくれる人なんです。だから、入選に推すのはためらわれたんですが、他の作品との差が明らかですからね。
 改めて栗山氏と自分との姿勢の違いを認識したわたくしは、
 ──先生は「小説」という枠に強い執着を持っておいでですね、と選考に関わりのない話をしました。──古今東西、「文学なるもの」は普遍的に作られてきたし、それは今後も変わらないでしょうが、いわゆる「近代小説」は19世紀の西洋独特の形式じゃないでしょうか?.それが現代でも通用するとは、とうていボクには思えませんけどね。
 ──さっきの話の続きですな、と栗山氏は鷹揚に頷きました。──じゃあ、もう一度お尋ねしますが、Jさんはどういうポイントで小説を読まれるんですか?
 ──ちょっと話が反れるかも知れませんが、今や後戻りできないところまで資本主義と科学技術が進展してるわけでしょう、とわたくしは言いました。──それは言ってみれば、人類という巨大なエゴイズムの産物じゃないでしょうか?.なるほど、確かに「自然」という巨大な相手と拮抗するためには、今まではその2つの武器を磨くことが優先課題だったのかも知れない。しかし、今やそれがむしろ、わが身を滅ぼしかねないほどに過激に先鋭化してますよね。先生は「文学」の尺度が「人間」だと仰いますけど、その「人間」がそうした現状を押し進める人間である限り、それは決してわれわれに対するCoup d'Etat……つまり、「現状への一撃」を与えてはくれないんじゃないでしょうか?
 ──そうかなあ。
 ──だって、そもそも「個性」などというものは、他人とは差別化された自分を表現したものでしょ?.それは結局、さっき言った人類のエゴイズムを個々のレベルで反復してるだけでしょう。
 ──もう「文学」は古い?
 ──いや、いつの時代にも「文学的なるもの」は存在し得るでしょうが、その様式が現在、大きく変貌してるんじゃないでしょうか。
 ──そりゃまあ、文芸誌は読まれていないし、時代にコミットメントできる作家もいないからなあ。
 ──大江健三郎以来……ね。
 ──大江健三郎以来……確かにね、と氏は素直に認めました。そして白髪交じりの顔を窓の外に向けて、──これから文学はどうなるんだろう?
 むろん、門外漢のわたくしにさしたる見通しなどありません。また、早稲田大学を中退して様々な職業を転々としながら地方文学の興隆に力を尽くし、それなりの評価を得てきた栗山氏を前にして、批判めいた言葉は慎しまざるを得ませんでした。
 ──職業分類から行くと、ボクは「宗教家」なのでしょうが、宗教の本質を一言で言えば、「信仰」あるいは「信心」だと思いますね。そういう意味では仏教は浄土教に至って初めて、いわゆる「宗教」の衣を身に纏ったんじゃないでしょうか。その是非はともかく、それは要するところ、「あの世」をどう捉えるかに尽きるでしょう。浄土教は仏教思想がチャレンジした「あの世」観に他なりません。それが「極楽浄土」なんです。
 ──平たく言えば、それは「死」の問題ですよ。いわゆる「個人主義」では決して「死」を克服できません。「個」にこだわる限り、「死」は「悪」の様相を帯びざるを得ないでしょうからね。しかし、高齢化社会を通して、人は否応なく「死」と向き合わざるを得なくなっています。そこに現代人にも一筋の道が開けてくるんじゃないかというのが、ボクのささやかな希望であり、予測でもあるんです。
 ──そりゃあ、ボクも60才を越えて、「死」を意識してますよ、と栗山氏は言いました。──現に今だって、亡くなったお袋の墓をどこに造るか思案中だもの。
 ──そういう半ば習慣化しているものの意義の再生が、今、必要なんだとボクは思いますよ。
 ──なるほど!.と氏は笑いました。──お寺さんの意見として、よく理解できる!
 ──やっと分かっていただいて、ありがとうございます、とわたくしも笑いました。
 それはもう窓の空いっぱいが赤く染まる夕暮れ時でした。ふと2人して振り返った本堂の鬼瓦の上には、銀杏の大木の裸の枝が明るく赤く広がっていました。そして、家並みの上の夕佳山も、真っ赤に燃える夕陽の遠照を湛えて、静かに赤く燃えていました。