竹の根
 
 『エレガンス』に行くと、それは道路端の小さな雑貨店でした。店の前に車を停めて、店から出て来た、電話で先祖墓についていろんな相談を受けてきた野川夫人の指示に従って、いったん店先の空き地に駐車しました。そして野川夫人の姉だという、川口市在住の、スラリとした橋本夫人を車に乗せて、山全体が墓地になっている、麓の中学校を囲むように広がったS山に行きました。すぐ眼下に中学校の体育館の丸い銀屋根が見え、鉄筋造りの校舎の北に、貝塚のこんもりとした木立に囲まれたグラウンドが広がっています。わたくしの母校でしたが、当時は木造校舎で場所も今と違って町中にあり、従って目の前の中学校には懐旧の念を覚えませんでした。
 野川夫人や橋本夫人の実家である北林家は嫡男が上京して先祖代々の墓を顧みないというので、今までずっと野川夫人が中心になって墓を守ってきたといいます。しかしその夫人も70才を越え、このまま由緒ある実家が絶えることを危惧した夫人は、いったん他家に嫁ぎながら離縁して旧姓に復し、若くして亡くなって北林家の墓地に葬られた末の妹の長男のB夫さんに本家を継がせることにしました。ただ、S山とかつての北林家の裏山との2カ所に先祖代々の墓があり、それをそのままB夫さんに委ねるのは気の毒だというので、裏山の竹林の中に累代墓を据えて1つにまとめることになったのです。そこで古い墓の「性根を抜く」ために、わたくしは頼まれてS山に赴いたのでした。
 山の頂上に広い駐車場があり、尾根から中学校に降りるまでの東斜面全体が墓地で、墓地はさらに穴浦の町が望める南斜面にも回っていました。ブロックや石できちんと区割りされた新しい御影石の墓が多く、それでも古い墓も散在するのは、ここが古くから墓地だった名残りでしょう。雨の日など滑りやすくて危ない、人ひとりがやっと通れる芝の小径を降りて、砂地の露出した斜面に4基ほど、性根を抜かなければならない北林家の墓がありました。
 ──やっとありました、と橋本夫人は苦笑しました。──めったに来ないから、なかなか見つかりませなんだ。
 ──こりゃあ、上から分かりにくいところですねえ。
 ──そうなんです、と夫人は大きく頷きました。──80近くなると、参るのも億劫ですが。
 ──そうでしょうね。
 ──お水が要りますか?
 ──そうですね。
 ──ちょっとお待ち下さい、と言って夫人は斜面を登って、上の広場にある水汲み場で水を汲んで来ました。そして花を立て替え、蝋燭と線香に火を点けて、
 ──お願いします、と仰いました。
 わたくしは合掌、念仏をしてから、読経し、読経がすむと、
 ──失礼しました、と言いました。
 ──ありがとうございました。
 ──ここはこれで終わりですよね?
 ──はい、後は実家の裏の山にあります。
 S山を下りて、『エレガンス』の空き地で駐車して、竹林の見える近くの山の中の墓地に行きかけると、
 ──まあ、ひと休みしてください、と橋本夫人が『エレガンス』に招き入れてくれました。
 ビニールのテーブルクロスを掛けたテーブルの上に野川夫人が茶菓を出してくれて、
 ──お忙しいところ、ありがとうございます、と言いました。
 ──いいえ、とわたくしは言いました。──相続人のいないお墓の整理は大変だったでしょう。放っておいても誰も咎めませんから、そのまま無縁墓になることも多いんですよ。親類間をまとめ上げるエネルギーだけでも相当なものだったんじゃありませんか?
 野川夫人は大きく頷き、その夫人を橋本夫人が指さして、
 ──妹が機関車になって、皆を引っ張ったんです、と皺の寄った面長な顔に微笑を浮かべました。──誰かが音頭を取らないことには、とうてい出来ませなんだ。
 ──近くにおる者の務めですが!.と野川夫人が言いました。
 ──しかし、実際にはなかなか出来ないことですよ。
 ──B夫にいろいろと言い聞かせとるところですが、まだ頼りないですなあや。
 ──でも、若い人もいずれは年を取られますから。聞いてないように見えても、きっと背中で聞いておいでですよ。そして、いずれきっと、真正面で受け止めてくれてでしょう。
 ──ふーん!.と深く頷いた野川夫人は、色白の顔にポツンと2つ付いた細い目でわたくしを見つめました。──私らはここで大きな酒店を営んでおったんですよ。それが何が祟ったんか店が傾いて(いえね、嫁が金遣いが荒うて、稼ぎをみんな猫ばばしてたんですが!)、その嫁と息子が離縁して、ご住職、私の手で2人の孫を育てましたが!.近所の者がみんな知るほど手広く商売をしていたのに、今はこの程度の構えの店しか持てんようになって、祖母だと名乗って学校に行く辛さ、寂しさ……。それも、ご住職、すぐに通り抜けてしまいましたが!
 ──この姉も信心深い、優しい心根の人なんです、と、橋本夫人を指しながら野川夫人はさらに続けました。──ところが夫や子に先立たれたんは、一体どんな因縁に祟られたのか、私は知りたいですなあや。ここまで北林家が落ちぶれたのは、ご住職、やっぱり先祖の因果が祟ったんでしょうか?
 ──こういう原因からこういう結果が導かれたんだと、単純に割り切れないのが人生ですからねえ、としかわたくしには答えようがありませんでした。──因果はこうだと決め付けるのは不遜でしょうし、仏の心を試すことにもなりますから。
 ──ええ、ええ、と頷きながらも、野川夫人はふっくらと白い顔をわたくしにしっかりと向けたままでした。
 ──いわゆる恵まれた境遇にあっても不幸な人は幾らでもいますから、人の幸不幸は外観だけからはなかなか判断できませんしね。
 ──ええ、ええ、と、やはり野川夫人はその細い目でわたくしを見つめるのでした。──そりゃあ、私らもこの年まで姉妹が仲良く協力して来られたんは、神仏のご加護のおかげじゃと思うとります。じゃけど、世の中には分からんことが多うありゃんすなあや。大嘘つきで恩知らずの馬鹿者が、成功しとるのを見ると、これでええんじゃろうかと、いつも疑問に思いますが。
 ──そうですねえ。
 ──人様のことは気にせん方がええんでしょうが、私も人間ですから、やっぱり気になりますが。ご住職もやっぱり気になってでしょうが?
 ──そりゃもちろんですよ、と言いながらわたくしはお茶を飲み干し、小皿で差し出されていた饅頭を下敷きの半紙で包んで袖に仕舞いました。──ぼつぼつ出かけた方がいいんじゃないですか?
 ──そうそう!.と野川夫人は両手を叩き合わせました。──話に夢中になって、肝心なことを忘れとった。姉さん、また頼むで。私は腰が悪うて行くのはムリじゃから。
 ──はいはい、と先に出て行く橋本夫人に先導されて、セメントで無雑作に固められた、それでも竹の子の芽が出ている山麓の道から竹林の中の急な小径を折れ曲がって辿って、女竹に覆いつくされた空間の一角に並んでいる、2〜30基はあるだろう北林家の墓地に着きました。
 1つ1つの墓に蝋燭と線香を立てて火を点けて回る作業はけっこう面倒で、橋本夫人が硬い腰をようやく折り曲げて火を点けていると、いかにも穏和な風貌の野川氏がやって来て、手伝ってくれました。そしてわたくしが読経している間に石材店の人たちが竹林の麓にやって来て、何やら準備を始めました。
 翌日は法事や葬儀が続いて忙しく、わたくしが4時頃『エレガンス』を訪れると、北林の分家の奥さんがひょいと顔を出しました。
 ──ご院さん、わざわざご苦労さまです。
 ──今日はご分家の方々もお集まりなんですか?
 ──いえね、ご院さんの相手をするようにと、近所から私だけが駆り出されたですが、と分家の奥さんはヒソヒソ声で耳打ちしました。──まあ、どうぞお出で下さい。みなさん、もう集まっておいでじゃから。
 なるほど、竹林の中の墓地には10人ほどの人が集まり、累代墓が1基だけ残され、新しい墓が1基、隅に建立されていました。それは神戸に出た次男か三男かの墓で、その人の娘さんたちは、それぞれ神戸、大阪、東京へ嫁いでいて、今までは神戸の娘さんが父母を供養してきたけれど、北林の姓を継ぐ者がいないことを憂慮して、父の実家の墓地に新たに建立したとのことです。いかにも都会風に洗練された化粧を装った黒の礼服姿のその娘さん(と言っても、もう60代の立派な夫人でしたが)から、わたくしはそんな事情をその場で聞かされました。
 ──それでよろしかったんでしょうか?.とその夫人に問われても、
 ──いいんじゃないですか、としかわたくしには言えません。──お父さんもきっと喜んでいらっしゃると思いますよ。
 ──そう仰っていただきますと、私も本当に嬉しゅうございます、と夫人はもう涙声でした。──私の死後、父の墓の世話を誰が見るのかと思うと、ずっと気がかりだったんです。子供たちにそこまで要求できませんし、要求しても、どうなることやら分かりませんし……。これでやっと安心できます。
 北林の分家の奥さんは、「ここは暗い。S山の墓地の方が明るうていい」と来る道々仰っていましたが、真っ直ぐに数限りなく伸びている竹の幾何学的な美しさや、その葉を透かしてこぼれ落ちてくる光の筋や、墓の周りに漂う静謐な空気を目にし、肌に感ずると、一概にそうとばかりも言えまいとわたくしは考えました。時に斜めに傾いでいる竹が垂直な線のリズムに心地よい転調を与えていましたし、雑木林の中の湿った暗さがありません。たとえ目には見えなくても、竹の根が地中深く縦横に張り巡らされていて、土砂崩れから強固に墓を守り、春には新たな芽を地上に吹き出すことでしょう。何よりも先祖の人々の吐息のかかったところだからと思いながら、『エレガンス』に引き返していると、
 ──お世話になりました、と、眉の濃い、若い男の人が声をかけてきました。──今後、北林を継ぐことになったB夫と言います。よろしくお願いします。
 ──いつか寺にお出でになりましたよね。
 ──はい。
 ──これで一段落ですね。
 ──はあ……、とB夫さんは溜め息まじりに顔を顰めました。──年寄り連中が勝手に進めたんですけどね。今回のことも急に連絡があって、これこれのことをするから、何日何時までに出て来いと頭ごなしに言うから、ボクもちょっと心外だったんです。そりゃあ、年寄りたちの気持ちも分からんではありませんが、ボクらは今、自分の生活で手いっぱいなんですよ。