日だまりの寺
 
 戦国時代、武家勢力の盛衰に呼応するかのように、寺院もまた激しい変遷を繰り返しました。そして、江戸時代の265年間、檀家制度の確立と相俟って、その地の歴史を調べるには寺院に赴けばよいと言われるほどに、寺院は地域と密着しました。明治に入ってドッと西洋の文明開化の波が押し寄せたにも関わらず、日本がかろうじて仏教国たり得たのは、そうした伝統のおかげでしょう。太平洋戦争後、アメリカの圧倒的な影響の下でミッションスクールが各地に雨後の筍のように乱立しても、キリスト教を受け入れたのは、結局、一部の若い人々、とりわけ少数のインテリ層に限られたのも、同じ事情からでしょう。しかし、高度成長期に入って、それまでの風俗習慣が、いわば内部から空洞化していくようになりました。
 人々が都会、殊に東京に集中しつづけ、やがて都会で亡くなる人々が当然ながら増えつづけています。その大半が今もって仏式の葬儀で葬られていますけれど、都内電車の広告には「浄土真宗、浄土宗、真言宗、曹洞宗、臨済宗、日蓮宗、その他あらゆる宗派の葬儀を執行しています」と、大伽藍の写真ともども宣伝している寺院もあるといいます。過疎化の進む地域の寺院が分院を経営したり、葬送会館と提携した僧侶が、寺院を持たずマンション住まいをして、依頼があると黒衣を羽織って出かけて、億単位の年収があるとも言います。新興宗教の盛んな地域もまた都会に集中し、それもとりわけ東京で、たとえばオウムなど東京ではまだ切実な問題でしょう。
 第2の開国が叫ばれて久しいところですが、人口移動の激しさ、そして何よりもモラルなき資本主義がここまで日本をハイテク化させ、また今や進化しすぎた恐竜さながら今後の方向を見失ったかのようです。表情のない白い街が日本全国に隈なく行き渡り、「街おこし」と称して、似たようなイベントや施設が陸続と企画され、画一化の波は止まるところを知りません。無常や生老病死を説く仏教は、それを万古不易の現実と教えてきましたけれど、ひょっとしたらいずれ不滅の生命装置が開発されるのではないかと疑われるほどに、今や科学技術が生命の秘密に肉薄しつつあります。
 それでも人は現に今亡くなりつづけ、人生の長短が幸不幸と重なり合って、現代人にも宗教的なるものを求めさせて止みません。穴浦町から隣町を抜けて、新興住宅街に変貌しつつある山の中にある峠のてっぺんの、新たに建設されて黒煙の上がることがなくなり、したがって近所からの苦情がなくなった、広い芝作りの公園と隣接した火葬場の前を通過して、峠を下って川口市に出ると、道路の右手のクリーム色の塀に囲まれた、南向きの正面玄関の上に金色に輝くシンボルマークを嵌め込んだ建物があります。わたくしは初め暴力団の事務所でも出来たのかと訝ったものですが、それにしては訪れる人に家族連れが多く、やがて誰かの口からそれが「真光会」という新興宗教の川口支部だと知りました。
 ──どんなことをしてるんですか?.とわたくしが尋ねると、つねづね浄土真宗はありがたいと口にして憚らない、しかし、好奇心も人一倍旺盛なK夫人が、
 ──正面に涅槃仏が祀ってありました。足の裏まで金箔張りで、頭にはルビーや翡翠のような珠が散りばめられてて、そりゃあ、ご院さん、きれいでした。もっとも、あれだけ大きいとなると、きっと模造品でしょうがなあ。
 ──何かお経を唱えるんですか?
 ──その仏さんの周りで、みなさん黙って坐っておられました。何か唱えとられる方もいましたが、よう聞こえませなんだ。
 ──坐るだけなら、禅宗系かな。
 ──いろんなご利益があるみたいでしたよ。薄暗い壁に添っていろんな仏さんがいて、その前に賽銭箱が置いてありましたなあ。この仏さんを拝むとこういうご利益があるといういろんな説明書きが添えてありましたが、多すぎて忘れてしまいました。
 ──やっぱりご利益があるわけだ。
 ──そりゃあ、ご院さん、そう言わんと人は集まりませんが!
 確かに休日に「真光会」に向かう人の数は膨大で、道路の両側の歩道は行く人や帰る人でごった返し、近くの空き地が次々と参拝者用の専用駐車場として確保されています。
 その日も休日で人の出入りの多い「真光会」の川口支部を横目にやり過ごして、わたくしは街中にある法光寺の法要に赴きました。
 臨時駐車場に指定された小学校のグラウンドに駐車して、午後の日だまりの中、閑静な住宅地区の一角に築地塀で守られた法光寺の広い境内がありました。南に向いた山門にも、西門にも、紫地に白い下がり藤の紋を染め抜いた幕が張られ、西門を潜って敷石道を辿ると、本堂にはすでに門徒の人々が詰めかけ、畳用の背の低い椅子に坐っています。玄関を入ると、襖を取り払って3つの部屋を一続きにした僧侶控え室が設けてあり、黒塗りのテーブルの前にすでに大半の僧侶がやって来ていました。机の前には本日の日程表と、和菓子と、華籠と呼ばれる、経本や散華を載せるための、三色紐を垂らした丸い浅皿風の金メッキの仏具が置かれていました。
 こんな時はたいてい下座、つまり床の間から遠い席から埋まっていくものでしたから、導師を勤める僧侶が坐っている上座近くの席しかもう空いてなくて、わたくしが仕方なくそこに坐ると、世話役の夫人がお茶を運んできてくれました。
 ──真光会は今日も人が多かったですねえ、とわたくしは隣の正信寺さんに言いました。
 ──あそこは黙っていても人が集まる、と正信寺さんが言いました。うちらは丁重な招待状を用意せんといけん。
 ──お宅はこの間されたばかりだから、とうぶん大丈夫でしょう。
 ──いいや、じきに副住職披露が来ますよ。
 ──でも、まだ5〜6年先でしょう。
 ──5〜6年先なら、今から準備しとかんといけませんが。もう少し先に延ばしたいなあ、と正信寺さんは笑いました。
 ──そうですねえ、とわたくしも改めて寺院の行事の煩雑さを思いました。2〜30年に1度だと言っても、いったん始めると10年計画になるから、結構重荷ですよね。
 ──本山なんて、祖師方の記念法要の計画と実行で年から年じゅう明け暮れていますが。
 ──違いない。
 会奉行と呼ばれる、司会進行の僧侶の説明を受けた後、袴、色衣、袈裟を着衣したわたくしたちは、今日は年齢順に出勤してくださいと言われて、いざ年齢順に並んでみると、何とわたくしは20人中で前から3番目ではありませんか!.70才前後の僧侶があれやこれやと体調の不調を訴えて後ろに回ったとは言え、20年前、父を亡くした30才のわたくしが初めて大きな行事に参加した時には一番若かったことを思うと、隔世の感があります。その日一番若い報恩寺の若住職が当時のわたくしと同じ30才でしたから、当然と言えば当然なのでしょうけれど。
 2人ずつ並んで、廊下から本堂の正面に回って、門徒の人々の間を通って、本尊の阿弥陀如来に一礼して、わたくしたちは内陣に入って着座しました。本尊の周りはお供え物が重ねられ、その前は1対の花瓶と赤い蝋燭で飾られ、真ん中の香炉から香りのいい煙が揺れ広がってます。献花、献灯、献香が行なわれ、雅楽の演奏に伴われて導師がおもむろに登場して、礼盤と呼ばれる、本尊の真正面の立派な席に着座すると、一斉に読経が始まりました。
 立ったり坐ったり、華籠の散華を撒いたり、本尊の周囲を回りながら読経したりしなければなりませんでしたから、大変です。実際の話、わたくしは途中で読経の本文が分からなくなり、また分かるところに来るまで黙って口だけ動かしていなければなりませんでした。
 終わって庫裏に戻ると、法光寺の住職が若住職を伴なってお礼の挨拶に現われました。
 ──おかげさまで無事に法要を勤め上げることが出来ました。次の法要の折りには私どもは引退し、ここにおります副住職が万事こなしていくだろうと思いますが、今後ともご指導、ご鞭撻のほど、宜しくお願い致します。
 日頃、何かと批判されがちな法光寺の住職でしたが、それも大きな仏事の前には些末事に過ぎません。2〜30名の僧侶仲間がこの日ばかりは一堂に会して、仏事の執行に従事したのですから。
 記念品と布施を受け取って、法衣を詰め込んだ重たいトランクを手に表に出ると、本堂では記念講演が始まっていました。その本堂の前で一礼して、西門を出て車のある小学校の臨時駐車場に向かっていると、追い付いてきた明蓮寺さんが、
 ──腰の具合はどうですか?.と尋ねました。
 ──いっこうに良くなりませんねえ。
 ──腰ばっかりは使わないわけには行きませんしねえ。
 ──そうそう。
 ──それにしても、法光寺さんの行事はいつも派手ですなあや。
 ──まあ、寺それぞれでしょうけどね、とわたくしは言葉を濁しましたけれど、一歩境内を離れると、もう仏事に洗われたはずの心がすぐまた元に戻ってしまいます。
 ──しかし、ああいう風に派手にやられると、次に行事を控えておられる寺が迷惑してですが。派手にやりたくても経済的に出来ない寺もあるわけだから、取り決め通りにしてもらわんと困る。あれじゃあ、親の因果が子に報うと言うて、若住職が寺同士の付き合いに苦労してじゃろう。
 ──みなさん、そこまで執拗じゃないんじゃないですか?
 ──いいや!.と明蓮寺さんはキッパリと否定しました。そうは行かんお寺さんがいっぱいおってですぜ。