中陰の満たされる時
 
 観音谷の入り口には小学校と池が並び、かつては夏になると学校帰りの子供たちが池に飛び込んで遊んだものです。工場や住宅が増え、田んぼが減って池の水がかつてほど必要でなくなり、老朽化した小学校の校舎を建て替える際に、池を3分の1ほど埋めて敷地に取り込み、かつてグラウンドの北にあった木造校舎の代わりに今度は南に鉄筋3階建ての校舎が、道路を隔てて池と隣接したところに建ちました。いっそう池に近くなった子供たちは、しかし今や、夏が来ても決して泳ぎに行こうとはしません。みんな習い事や学習塾に追われていましたし、最も楽しみな遊びと言えば、画面とにらめっこして耽るテレビゲームだったからです。事故を恐れて学校も遊泳禁止を定めていましたし、何よりも、ヘドロが溜まったような真緑色の池に飛び込む勇気になど、誰にもありません。谷に住む人々の生活排水や、谷の奥に出来たゴルフ場の雑草駆除による汚濁が進み、池に棲む魚も殆どがブラックバスだといいます。食い付きがいいというので釣り好きが勝手に放したブラックバスが、他の魚を食い荒らして、池の生態系を変えてしまったのです。アメリカ原産だというブラックバスは、しかし、臭くてとうてい食用にはならず、釣るとすぐまた池に逃がしました。釣りのための魚がブラックバスで、遊びのための生きた道具がアメリカからやって来たというのも、いかにも現代風ではありませんか!
 池の南の山並みは穴浦町の南に張り出しています。山肌を削った大きな共同墓地があり、墓地はさらに山の頂上に向かって拡大しつづけています。その上がり口には何株もの桜の大樹が枝を張り、春に墓参りに訪れる人々の目を和ませてくれます。春の大気に光る桜吹雪が池の面に舞う時、真緑色の水との鮮やかな対照が、ひと時の間、その真緑色の由来を忘れさせてくれたりするのです。
 また、観音谷は西に開いていました。それゆえ、中国山脈を抜け出たところに位置する御領市から千田川の川面を流れ、穴浦平野の空を渡ってやって来る「御領の包丁風」が、真冬の観音谷に入ると、しばしば吹き付けてきます。風の強い日には殊に冷たく、墓参りも大変です。門徒宅で法事の読経を行なった後に墓に行くのがこの地の風習でしたから、寒い冬の日など、布袍姿のわたくしにはマフラーが欠かせません。黒いマフラーは黒の布袍と違和感がなく、首筋を暖かい毛織物で包むとまるで寒さが違いました。
 墓地は谷の入り口と中程と奥の3カ所あり、奥の墓地には馬屋原家と柏木家と藤原家が集中していて、最初に谷に住み着いた人々の子孫たちのはずでしたし、その大半が浄玄寺門徒でした。柏木正太さんは数年前から貧血症で、それでも田畑に出るのが好きで、出るたびにひっくり返って、「後ろにひっくり返って後頭部を打ったら大怪我をしますが!」と、わたくしは何度か耳にしていました。その正太さんは、見事な白髪の、穏やかな四角い顔つきの老人で、乳母車を押して畦道を行く姿をわたくしもたびたび目撃しています。奥さんと早くに死に別れ、その33回忌が今年の正月に行われたばかりです。久しぶりに見る正太さんは、座敷の隅の膳にかろうじて坐り、挨拶の言葉もたどたどしく、箸を使うのも難渋されていました。
 その正太さんがこの春に85才でなくなり、満中陰法要となる5月6日は、ゴールデンウイーク一番の好天気でした。山裾にある柏木家まで田畑の間の道をバックで入らなければならず、狭い道を後ろ向きの姿勢でハンドルを操らなければならないのは、腰痛に悩むわたくしにとってちょっと辛い芸当でした。さいわい、馬屋原宏さんが車の後ろに回って誘導してくれ、無事、柏木家まで辿り付いて車を降りると、
 ──どうもありがとうございました、とわたくしは礼を述べました。
 ──こちらこそ、先だってはありがとうございました、と宏さんが言いました。わざわざ収支報告まで出していただいて、すみませんでした。なくても、結構でしたのに。
 ──そうも行きません、とわたくしは笑いながら言いました。それに、今度ご自宅で参拝される時の何かの参考になればと思いましたし。
 ──今度は女房を連れて行かなければなりませんなあや。
 つい半月前、わたくしは宏さんたち数名と京都の大谷本廟に納骨に赴いていたのです。宏さんは養子で、奥さんの親の納骨だったのですけれど、ちょうど娘さんの出産の時期と重なったものですから、宏さんが代理で参加されていたのです。話好きの宏さんが一緒だったので、楽しい旅でした。
 ──お宅と柏木家と、どういうご関係なんですか?.と、柏木さんの玄関に入りながらわたくしは尋ねました。
 ──正太さんと私の義母と、姉弟なんです。
 ──つまり、お宅のお義母さんはここから嫁いでおられるんですね。
 ──みなさん、そう考えてですが、違うんです、と、わたくしに続いて玄関に入ってきた宏さんは言いました。実は正太さんも養子で、その実家がうちの義母の実家でもあるわけなんです。
 ──はあ、正太さんはご養子だったんですか。それは知らなかった。
 ──わたしと同じです。
 ──この辺りには意外にご養子が多いですよね。
 ──家を絶やさないようにと、昔の人は心を砕いてたんでしょうな。
 ──ふーん、と頷きながらわたくしは座敷に入りました。
 床の間に骨壺を祀った中陰壇が拵えられ、その前に既に大勢の親類の方々が集っておられます。まず仏壇の前で合掌、念仏、礼拝をしたわたくしは、中陰壇の前で合掌、念仏、礼拝し、ご主人の達夫さんに、
 ──お寂しゅうございましょう、と挨拶しました。
 ──よろしくお願い致します、と達夫さんが頭を下げられました。
 奥さんが持って来られた茶菓のお茶をひとくち啜って、トランクを開けて、わたくしは黒衣と五条袈裟を身に纏いました。そして、「南無阿弥陀仏」という大きな掛け軸の掛かった床の間の、正太さんの骨壺と遺影のある中陰壇の前で、
 
  奉請弥陀如来入道場散華楽
  奉請釈迦如来入道場散華楽
  奉請十方如来入道場散華楽
 
 と唱えて、表白を読んで、阿弥陀経を読経しました。読経の最中に焼香を回して、読経が終わると振り返って坐り直して、蓮如上人の御文章の一節を読み上げ、続いて法話です。わたくしはかつて法話が苦手でしたし、今以て得意ではありませんが、日常的に「死」と向かい合わなければならず、盆参りや報恩講参りや法事で縁が深まった人たちから順次に亡くなっていくその遺影を前にすると、自ずと心が動きます。また、毎回似たようなことを述べていても、数年単位で振り返ってみると、ずいぶん昔と違う自分の語り口調に気づかされてしまいます。同じ経典を毎回勤めているように、同じ法話であって何ら構わないのだと、ある種、居直った時から、同じでありながらも時々刻々に変化していくのが仏法の受け止め方であり、その反映たる法話だと、わたくしは得心するようになりました。
 ──自分の命をしっかりと自分の拳の中に握りしめているつもりでいても、しかし、生まれてくる時と死んでいく時と自由に出来た人は、古今東西、誰ひとりいません。そういう意味で、実は預かり物の命というものを、あたかも我が物顔に使用しているのが、人生でしょう。だから、いずれ当然、お返ししなければならなくなるのですけれど、その時が来ると、惜しくてならないのが、これまた人情というものでしょう。
 ──そうは行かないことを切実に教えてくれるのが、身近な方に先立たれた時に他なりません。亡き人に向かって手を合わせるひと時は、実は小さな自分の命と、今や浄土に旅立たれた、言ってみれば大きな命の源に帰られた命とが、新たな絆で結ばれていくひと時に他なりません。今は悲嘆に暮れて合わせている掌が、やがて強い報恩感謝の喜びに満たされる日が必ず訪れるはずです。そして、ご生前中にはなかなか分かることのなかった亡き人の願いに改めて思いを馳せる時、それが生きる糧とも支えともなっていけば、それこそ、故人の本当に喜んでくださる、残された者の営みと言えましょう……。
 そして、再び中陰壇の方を向いて合掌、念仏、礼拝をして、紫染めの絹地の座布団から半ば降りて、
 ──失礼しました、とわたくしはご主人の達夫さんに頭を下げました。
 ──ありがとうございました。
 ──これからのご予定は?
 ──お墓に納骨をして、先にお寺参りを致したいのですが、よろしいでしょうか?
 ──ええ、構いませんよ。
 ──それからまた帰っていただいて、お膳に着いていただきたいのですが。
 ──はい。
 南の山の中に柏木家の墓地がありました。久しぶりに晴れ渡った五月晴れのもと、銀糸の光る骨壺入れを胸に抱いて歩む喪服姿の達夫さんたちと共に、わたくしも木の葉の新緑が滴るような、青く苔生した墓地をめざしました。