先祖の話
 
 ──今月の29日が夫の命日になるんですが、お参りに来ていただけるでしょうか?.と、Iの奥さんから電話があって、
 ──はい、分かりました、とわたくしは応えました。何時頃がよろしいんですか?
 ──ちょうど永代経の前で、お忙しいでしょうから、いつでも結構なんですけど。
 ──わたしもいつでも結構ですよ、とわたくしが言うと、「それでは……」とIの奥さんは朝の10時頃に来て欲しいと仰いました。
 I家と寺とはすぐ近くで、裏門を出て1〜2分の距離です。奥さんだけで勤めるつもりだと電話では伺っていましたけれど、「ごめん下さい」と玄関戸を開けて中に入ると、上がり框の踏み石やタタキの周りに何足もの靴がありました。
 ──どうもお手数をおかけします、と言いながら出て来た奥さんに向かって、
 ──お一人じゃなかったんですか?.とわたくしは確認しました。
 ──それが、ちょっと連絡してみたところ、手の空いている者が来てくれることになったんです。
 ──そうですか。それはよろしゅうございましたね、と言って、わたくしは座敷に入って、奥さんの弟夫妻やその孫たち、I家の分家の夫人たちに挨拶しました。そして、仏壇の前に座って合掌、念仏、礼拝をして、
 ──焼香を回しましょうか?.とIの奥さんに尋ねました。
 ──いえ、結構です。
 ──じゃあ、始めてもよろしいですか?
 ──はい、お願いします。
 そこで、仏壇の前で新しく燃やされている蝋燭から線香に火を点けて、二つ折りにして香炉に供えると、わたくしは改めて合掌、念仏、礼拝し、正信偈を読誦しました。
 Iのご主人は一徹者として町内に名を馳せた人でしたが、ちょっとした風邪をこじらせて、肺炎に罹り、医師の見立てが悪かったのか運が悪かったのか、投与された薬に刺激されたかのように、かつて患ったことのある膵臓あたりの癌がたちまちに増殖し、病状の急変に慌てた医師が総合病院に運んで腹を切り開いてもらったところ、既に大量の癌に蹂躙されていたと言います。享年75才ですから、男性としては天寿を全うしたとも言えましょうが、奥さんにとっては不意の死に変わりありません。ご主人同様、奥さんも一言居士の傾向がありましたが、ご主人の死後、かつての勢いがいささか翳りを帯びてきていました。去年の春に3回忌を終えて、また元気になられたように見えても、元通りとは行かないようです。
 仏壇の正面の阿弥陀仏の前に安置されている繰り出しは、繰り出し板を裏返しにして、俗名の見える方に毎日、奥さんは手を合わせているようです。俗名の方が馴染みがあり、ご主人をよりよく思い出せるからでしょう。『紫雲院釋高徳一義居士』と名付けて渡した時には、「本当にいい院号をありがとうございました」と大変喜んでもらいましたが、死後の名より、やはり共に生きた時代の思い出の方が大切なのでしょう。そしてそれはもう一概に否定できない、人としての当然の感情と言うべきでしょう。
 読経が終わると、テーブルを囲んで茶菓が出され、「先だっては大変な地震でしたねえ」と、人が集まると必ず出て来る話題になりました。
 ──去年今年と2年続きでしょう、とわたくしの語気にもつい力が入ります。関東や東海に大地震が起きるというのは、前々から報道されていましたが、まさか瀬戸内海でこんなに頻繁に起きようとは、思いもよりませんでした。
 ──ご住職、僕はあのとき広島にいたんですらあ、と、ごつい顔つきの弟さんが野太い声で打ち明けました。しかもマンションの7階にいたんです。そりゃあ、揺れるなんてもんじゃありませなんだ。床がこんなに斜めに傾いて(と、弟さんは大きく体を傾いで見せました)、マンションがぽっきり折れるんじゃないかと思うたくらいです。
 ──ほんとに逃げ場がありませんでしたものねえ、と、弟さんの夫人も、その時を思い出したように顔を顰めました。普段、威勢のいいお父さんも真っ青でしたもの。
 ──あんたにわしの顔色を窺えるほどの余裕があったんか?.と、弟さんはいささか不興げに問いました。
 ──だって、真っ青でしたよ。
 ──まあ、僕もあの時ばっかりは観念したからなあ、と、あっさりと認めると、弟さんは再びわたくしの方を向きました。マンションは揺れただけで済んだのですが、墓地の方が大変でした。グチャグチャでしたから。最近の墓はよう磨かれとるし、そもそも石の上に石を載せとるだけですから、ちょっと揺れてもすぐズレます。僕の家の墓も何か変で、よう見ると、1センチほどズレとりました。
 ──そう言えば、地震の度に、倒れた墓がよく放映されますよね、とわたくしは言いました。
 ──そうです。家よりよっぽど脆いですからなあや。もっとも、墓より家の方が脆かったら、これも問題ですぜ。
 ──そりゃ、そうですね。
 ──今の若い者は墓を守ろうという意識がありゃんせん。僕の代まではまだいいんですが、次はどうなるか分からんから、代々の墓を1つにまとめようと思うとるんです。ご住職はどうお考えですりゃあ?
 ──それでいいんじゃないですか、とわたくしは心から賛同しました。20も30も墓があって、しかも別々の墓地にあるお宅など、盆や彼岸のお参りが大変ですから。
 ──僕の家がまさにそれなんですよ。
 ──実際の話、1人に1基の墓を拵えていたら、日本中、墓だらけになりますよ。戦後まもなく、そのことを憂えた民俗学者がいましたが、幸い、寄せ墓の習慣が広がってきましたよね。
 ──そういうことですなあや。
 ──未来は常に不確定要素に満ちているから、それほど悲観しなくてもいいのかも知れませんね。
 ──そうでしょうか?
 ──いや、分かりませんけどね、と言って、わたくしは笑いました。
 全く以て、日本人の墓好きには一種強烈なものがあります。しかし、先祖の眠っているはずの墓石をきれいに磨いても、石を開けて中まで磨く人はまずいないでしょう。20年、30年ぶりに開けてみると、春なら土筆がひょろ長く色褪せた茎を幾つも伸ばして、湿った土に眠る父や祖父母、曽祖父母の骨壺に纏い付いたりしています。そこに亡くなったばかりの母親の、まだ陶器の白さも艶やかな骨壺を納めて、
 ──お母さん、静かに眠ってくださいね、と涙していた娘さんも、いざ、墓を閉じて読経が終わると、骨壺を納めていた桐箱やら白無垢の風呂敷をどう処分すればいいか、ビジネスライクに質問されるのです。そして、わたくしが、
 ──寺でお預かりしましょう、と言うと、ホッとした表情をされるのです。
 「死」は骨壺ともども、墓の下に葬り去っておくべきもののようです。そして普段は忘れていても、全く忘れるわけにも行かなくて、時々、花を供えに参るもののようです。
 「死」を想うとは、「骨壺」を思うといった想像力の貧困が絶えない限り、いつまで経っても「墓」の無くなる時代は来ないでしょう。1人1基の墓が夫婦墓となり、永代墓となり、更に墓地不足の深刻な大都会では、まるで墓のマンションのような納骨堂に変貌しつつも、人々の生活空間の一角をかすめ取るように執拗に、その存在を誇示しつづけていくに違いありません。