春
 
 坂道の下水道工事は既に完了し、新たにアスファルトで固められた部分はまだ埃も付かず、黒光りしていました。ちょうど坂の中程に2〜3株の梅の木が人の背丈ほどの幹を黒くくねらせ、つい先日まで枝々に白い花を纏っていたのが、今はもうおおかた散って、黄色い蕊と赤い花心を露出しています。代わりに農家の庭のモクレンの木が白い花弁を開き、スズカケやレンギョウの黄色や白の花房が垂れていました。
 左にカーブしながら登っていく坂道の南斜面はコンクリの垣が垂直に立ち上がり、真砂の敷かれた造成地域で、住宅が建ち出している一方、北斜面(と言っても、なだらかで日当たりは悪くありませんでしたが)は段々畑の畝が並び、農家が散在しています。丘の上は今風の住宅で埋まりつつあって、たいていその2階にはベランダがあり、玄関先には屋根付きの駐車場がありました。南に向かって広がった丘陵地帯はそんな住宅がひしめいていて、丘の麓まで人家とビルが密集している、遠く西にその中心街があるK市の上空は、黄砂が吹き乱れるかの如く煙っています。南向きのベランダの此処かしこに洗濯物が白くひるがえる公営住宅の前を歩いて坂道を下っていくと、坂下の、頻繁に車の行き交う道路の向こうにK池の青い水面が望めました。水面の端に赤い太鼓橋が架かり、橋の向こう側の、池に突き出した小高い丘はちょうど桜の花の盛りです。その花の下に人影が賑やかなのは、今日が休日だからでしょう。
 道路を跨いで池の堤に降りる歩道橋も、堤も、いつにない人の往来です。いつもよく歩く散歩コースでしたけれど、今日がたぶん、1年でいちばんにぎわう日だったのです。日頃めったに出会うことのない、子供連れの若い夫婦が目立ち、ギターの弾き語りをする若者のグループもいました。淡い色に咲いた満開の桜の花の下に茣蓙やビニールシートを敷いて弁当を広げている、ほろ酔い加減の人々の喚声が、通り過ぎていくわたくしの耳に実に静かに響きます。青く煙った大空の下で、昔も今も、人は短い命の輝きに酔い痴れ、散っていくんだなと、まるで他人事のようにわたくしの目に映ります。そう思う自分を、わたくしは寂しいとは感じませんでした。むろん、楽しくはありませんけれど、たぶん、そういう感じ方に青春時代、いや、自分というものに目覚めた時から、既にわたくしは馴染んできていたのです。寺で生まれ育ったわたくしにとって、いかにも自然な感覚でしたから……。そしてそれゆえに、50年の人生の道がこのように辿られてきたのですから……。
 K公園はK池の周囲を整備して20年ほど前に作られた、K市の東に広がる新興住宅街のための最大の緑地帯で、5〜6月に咲く菖蒲園が殊に有名でした。今はまだ青い葉が芽吹いたばかりのその菖蒲園に渡された打ち橋を歩いて、遊歩道を巡って、豊かな水量を湛えた池が一望できる、コンクリの岸に守られた藤棚の下の休憩所に行きました。休憩所にはもうO君が来ていて、わたくしを見ると立ち上がって、
 ──お久しぶりです、ときれいに剃った頭を下げました。
 ──ほんとに久しぶりだなあ、とわたくしも言いました。確か5〜6年前にうちの寺に来たことがあったよな。それ以来だろ?
 ──はい。
 ──あの時は確か、チベットから帰ったばかりだと言って、人骨で作った笛を見せてくれたよね。
 ──そうそう、と、小柄な、ドングリのように頭が丸く顎の尖ったO君は、目尻の切れた黒い瞳を上げて頷きました。
 ──あれ、まだあるの?
 ──ありますよ。気色が悪いけど、捨てるわけにも行かなくて、困ってます。
 ──ボクも欲しいとは思わなかったものな。
 ──向こうでは当たり前のことが、いざ日本に帰ってくると、当たり前でなくなったんですよ。
 ──そういうことはいっぱいあるさ。
 ──そうですね、とO君は頷き、わたくしたちはベンチに腰を下ろして、人生の同伴者のような眼差しで波の光る池の面を眺めました。
 ──先生はもう学校を辞められたんですか?
 ──うん、よく知ってるなあ。
 ──本堂で先生が、そんな話をしてたじゃありませんか。
 ──そうだったなあ、と、暗い本堂の隅で膝を突き合わすようにして語り合った5〜6年前の光景が、わたくしの脳裏に鮮やかに蘇りました。あれから俺の人生も大きく変わったよ。
 ──ぼくももう27になりました、とO君は昔通りの嗄れた声で言いました。
 ──「もう」じゃなくて、「まだ」だろうけどね。
 ──でも先生、先生が27才の頃、「まだ」という感覚でした?.「もう」という感じはありませんでしたか?
 そう言われると、「うーん」と唸って、わたくしは自分自身の27才を振り返ざるを得ません。
 確かに27才の頃、寺を継ぐべきか否か、わたくしは迷っていました。寺を継ぐ?.寺とはそもそも、心の在りようがポイントのはずなのに、それとは関係なく、寺の子が寺を継ぐものだと誰もが信じて疑わないのは変な話だ、と、ずっとわたくしは考えてきました。親の商売を継ぐのとは、訳が違う。それなのに、商売も寺も一緒くたになってしまってるのが、日本だろう。それがいわゆる葬式仏教であり、それを出発点とした檀家制度に他ならないと、わたくしは信じてきました。
 少し冷めた目で見れば誰の目にも明らかな通り、教義仏教の下に習俗としての仏教が厳存しています。それは、密教化した仏教と称せるものかも知れません。たとえば、浄土真宗にせよ、正信偈を読誦する習慣など、一種の密教化と言い得るでしょう。そこではその「内容」よりも、分からないながらも唱えるという「行為」自体が大切なのですから。そしてそのことによって、なにがしかの安心が得られるのですから。
 本山を好個の例として、寺の子が寺を継ぐ浄土真宗の伝統は、日本で最も強固な基盤ともいえる天皇制を模したものだとも考えられようし、それは決して親鸞の志ではなかったはずです。日本で最もラディカルな仏教者であったが故に、肉食妻帯を実践し子供も作ったはずの親鸞の子孫たちが、彼のカリスマ性をフルに活用して強大な教団を構築したというのは、歴史の皮肉と言う他ありません。
 しかしまた、偉大な先人への追慕の情が大伽藍を作ってきた歴史は、何も仏教に限らないでしょう。1つの「死」が、その枠を超えて人類に大きな影響を及ぼした事実は、枚挙にいとまがないはずです。そして、そうした形での「死」の克服こそ、人類が人類たる所以かも知れません。
 ──親鸞さんの言葉は、ぼくらが読んでも胸を打ちますよ、とO君は言いました。
 ──『歎異抄』なんか、特にそうだろな、とわたくしが言うと、
 ──そうですね、とO君は頷きました。だけど、親鸞さんの仏教は親鸞一代のものだと思うんです。
 ──と言うと?
 ──もうあれ以上、どうにも展開の仕様がないでしょう。
 ──分かるような、分からないような……。
 ──だって寺を出ていったんだから、半ば俗人に戻ったわけでしょ?.親鸞さんは「非僧非俗」と名付けてるけど、だからこそ、肉食妻帯も認められるわけですよね。
 ──そりゃそういうことだよな。
 ──僕なんか、そこがとても偉いと思うんですよ。
 ──どこが?.とわたくしはまだピンと来ませんでした。
 ──親鸞さんは確か9才から29才まで、20年間も比叡山で修行したわけでしょう。それを捨て去る勇気が凄いと思う。いくら比叡山の僧侶たちが堕落してたとしても、自分が青春を賭けたものを捨てる勇気は、僕にはありませんね。僕自身、毎朝、水を浴びてるんですが、そりゃあ、冬なんて冷たいし、辛いですよ。でも、もし止めたら自分の全てが溶けてしまいそうで、不安で止められません。いったん出家した者が出家を止めた時の心の空白は大変なものだと思うんです。だから、それを乗り越えて大きな世界に辿り着いた親鸞さんには、つくづくと感心しますね。
 なるほど、とわたくしは頷きました。実家は浄土真宗の檀家だったにもかかわらず、小学時代に始めた少林寺拳法から禅宗に関心を持ち、それにも飽き足らなくて、わたくしが担任をしていた高校時代に真言宗の僧侶になるために得度した、いかにもO君らしい、それは感想でした。
 ──だから親鸞は最後の仏教者というわけだ。
 ──そうなんです。
 ──『最後の親鸞』という本を書いた人もまんざら間違ってたわけでもないんだ。
 ──そうそう!.と、O君は、わたくしの軽口に合わせるように、青い坊主頭を大きく振りました。
 ──しかしその後でも、いわゆる末法の世を越えてなお続いている仏教は、仏教とも言えない代物かも知れないな。でも、それもまた、宗教の最終形態としてはいかにも好ましいと、今の俺は考えてるけどね。だって、人の不幸の穴埋めをずいぶん長い間、宗教が果たしてきたけど、その大半は、むしろ社会、つまり為政者の責任だからね。その尻拭いを宗教がしてきたようなものさ。言い換えれば、「不幸」の克服に「心」が利用されてきたんだよ。だけど、科学技術が物理的な不幸を克服しつつある現代(そりゃ、国家間や地域間の格差の問題は大きいし、ひょっとしたら永久になくならないかも知れないけど)、それを宗教が受け持ったら、欺瞞か時代錯誤か単なる金儲けのためか、そんな何かだね。そう考えると、大多数の人にとっての宗教は、今の日本で行われているような「葬式仏教」という形でいいんじゃなかろうか?.むろん、それに飽き足らない人がいてもおかしくないけど、みんなが旧来の宗教に目覚める必要もなかろう。
 ──本当に宗教を求めた人って、昔も余りいなかったんじゃありませんか?
 ──そうそう、とわたくしは頷きました。昔に生まれてても、O君はやっぱり変人だったのさ。
 ──先生もそうですよ。
 ──いやあ、僕は君ほどじゃない、とわたくしは笑いました。自分が生まれた寺を継いだだけだから、中途半端な変人、「不僧不俗」ですよ。