　村田くんは色白の（と言っても、皮膚の下の静脈が透けたような、いささか不健康な白さでしたが）、逆三角形の目をした、頬が鰓のように張った、まさしく容貌魁偉と形容したい少年でした。中学時代から「小父さん」とあだ名され、しかし、勉強が出来たものですから、隣町にある、峠を臨む池に面した小早川の英語塾に通っていました。小早川先生は、近隣で有名な進学校の社会の先生であるにもかかわらず、なぜか英語塾を経営していて、英語の力を付けてくれるというので有名だったからです。

　──きみらは、なぜわざわざうちまで来たんだい？．きみらの町には１つも塾がないのか？．と、事ある毎に先生は、遠方から通って来る村田くんたちを皮肉りましたが、みんな、黙って耐えていました。そして噂に違わぬ厳しい指導に付いて行けなくなって、次々と落伍者が出た中でも、村田くんの町の中学生たちが群を抜いて多かったのでした。

　最後まで頑張っていた村田くんもとうとう通わなくなりましたが、それというのも、自宅の近くに出来たお好み焼き屋に行く癖が付いてしまったからでした。塾に行くバス代を手にして駄菓子屋の暖簾を潜って、店の奥の、鉄板を嵌めたテーブルに着いて、熱くなった鉄板の上で程良く焦げたお好み焼きをフーフーと吹いて食べる楽しさをいったん覚えた村田くんは、もう塾に行く気力をなくしてしまったのです。ところが、そのことが井戸端会議の大好きな祖母の知るところとなり、祖母から母の耳に入って、村田くんは父にこっぴどく説教されてしました。

　人の好い父を恐いとは思いませんでしたが、父の背後で黙っている母が恐くて、村田くんはまた小早川の英語塾に通わなければならなくなりました。「何だ、また来たのか。もうきみの席はないよ」と先生に冷たい目で睨まれ、無視されつづけても、村田くんが通いつづけたのは、先生よりも母の方が恐かったからです。先生とは週に２度、しかも２時間ほど顔を合わすだけですみましたが、母とは毎日会わなければなりませんでしたから……。

　中学３年生になると、塾に通う生徒は10人にも満たなくなり、その１人が藤原さんでした。彼女は、髪の長い、スッキリとした眉毛の下の丸い瞳と、愛嬌を含みながらも固く結ばれた唇とがとても印象的な女の子でした。そして何よりも英語のよく出来る、頭のいい子でした。いつも同じ中学校の男の子と一緒にやって来て、日暮れの坂道をまた彼と並んで自転車を漕いで帰っていく藤原さんの背中になびく長い黒髪を、村田くんは遠い憧れの目で見送ったものでした。

　晴れて有名高校に合格した村田くんが演劇部に入部したのは、その藤原さんがいたからに他なりません。同じ１年生に２人の他に、杉山くんと弓手くんと横溝さんがいて、杉山くんと藤原さん、弓手くんと横溝さんとが何かにつけて気が合ったものですから、畢竟、村田くんは２つのグループの間を笑いを振り撒きながら巡る衛星のような存在でした。そして、そんな自分のあやふやな立場を親友に愚痴りながらも、結構、道化の役割を楽しんでもいました。

　２年生になって、自分たちがクラブの主体となると、秋の文化祭に向けてモチベーションを高めるために夏休みにキャンプしようと、放課後の雑談が俄かにクラブ活動（？）の方向に傾きました。

　──みんなで行こうよ！．と、ボーイッシュな髪型の横溝さんが元気よく仲裁して、結局、お盆前のいちばん暑い時期に５人で山奥のキャンプ場に行くことになりました。

　Ｔ川に沿って走る電車の中で、杉山くんと弓手くんと藤原さんと横溝さんの４人は、向かい合って坐ってトランプに興じ、「ああ、あかん！」と、黒縁メガネをかけた小柄な弓手くんが、時々ませた表情の合間にいかにも子供っぽい声を発しました。目鼻立ちの引き締まった面長の杉山くんは、色白の肌に血色の良さが目立つ、なかなかの美男子で、回って来たカードを掌で隠して思わず頬を弛め、「ふん」と唇を歪めたりしました。

　「ああ、だめ！」と今度は横溝さんが艶っぽい嬌声を上げたのを、すぐ後ろの、向かい合わせの４人掛けの座席に１人座って、窓に頬杖を突いて遠ざかりゆく景色を目で追いながら、村田くんはぼんやりと耳にしていました。そして、「小父さん、替わろうか？」と杉山くんに思い出したように誘われても、「いいよ。俺は大自然に感動してるんだから」と、故意に明るい、甲高い声で応えました。

　山間部に入ってもＴ川の川幅は依然広いままでした。岩の露出した急峻な山肌に松が濃い緑を茂らせ、採石場の砂利の上げる砂煙が空を行く雲まで届くかのようです。鍾乳洞の多い地域ゆえか、石灰岩が溶けているかと思われるほどにも、水の流れは深い灰緑色でした。そして、Ｔ川を離れて、盆地を広く街並みで覆ったＮ市の駅で電車から降りて、バスに乗って山の中のキャンプ場に到着した頃は、もう太陽が西の空に傾いていました。

　──それなら２人分、持ちましょう！．と村田くんはさり気なく言いましたが、本当はもちろん、藤原さんのリュックを手にしたかったのです。だから、横溝さんのリュックを持とうと申し出たのでしたけれど、

　実際のところ、２張りのテントを杉山くんと弓手くんがそれぞれ担いでいるとは言え、３人分のリュックを背負った村田くんも彼らに劣らず大変でした。目を剥き舌を出して、大袈裟にしんどそうな表情を作りながら、最後にやっと、芝の張られた小高い丘の上に到着しました。その村田くんが「ふう！」と大きな息を吐いて腰を下ろした時には既に黄色いテントが２張りとも、杉山くんと弓手くんの手によって、パイプ材の柱を立ててロープでしっかりと張られていました。

　横溝さんと藤原さんがリュックの中からカレー粉やタマネギ、ニンジン、ジャガイモ、缶詰の肉など取り出し、杉山くんと弓手くんが柴を採って来て、赤煉瓦で固められた炉に火を点け、村田くんは水を求めてプラスチックのボトルを手にして水汲み場まで行きました。すぐ後を追うように藤原さんがやって来て、

　──はい、はい！．と村田くんは藤原さんから手渡されたボトルにも水を入れながら、藤原さんは杉山が好きなんだ、と、さり気なく、しかし、予め用意していたかの如く確信を込めて言いました。

　──そうですか、知ってるんなら、いいですけど、と言いながら、「知ってるはずないだろ」と村田くんは心の中で言いました。「俺の作り話なんだから。藤原さんもプライドの高い人だなあ！」

　山々の上に大きく広がっている空が真っ赤に焼けて、東の方から見る見る濃紺が広がって、隠れていた星たちが２つ３つと頭上に煌めく頃、小高い丘を渡る風も夜気の涼しさを孕んできました。カレーを作ってサラダと共に食べて、味噌汁はやっぱり翌日に残すことになって、熱いコーヒーを飲んだ後、炉の残り火にほんのりと照らされながら、横溝さんが、「遠き山に日は落ちて……」と歌い出すと、弓手くんがギターで低く伴奏しました。それからテントの中から楽譜を取り出してくると、寄り添う横溝さんが差し向けた懐中電灯の光に照らされながら、ビートルズか何かの曲を弾き語りしました。藤原さんの横には杉山くんが寄り添って、弓手くんのギターに合わせてハミングし、結局、村田くんが１人で炉の火が絶えないように時々、柴を放り込まなければなりませんでした。

　そして、弓手くんが横溝さんの肩を抱いて１つのテントに入っていくと、もう１つのテントに杉山くんが藤原さんを伴なって入り、村田くんだけが火の気の無くなった炉の前に取り残されてしまいました。いずれテントの中から出て来て、男は男同士、女は女同士になるだろうという村田くんの予想に反して、いつまで経っても暗いテントの中からボソボソと話す若い男女の声が聞こえ、時に高い笑い声まで響いて、まるで終わる気配がありません。

　夜が更け、低く地を這う虫の音に包まれながらも、やっぱり村田くんは独りです。芝は夜露に湿ってきました。それは、涙の粒ような夜空の星たちが一斉に降り注いで地を被ったかのように切なく寂しく、村田くんの胸まで濡らすのでした。