父の思い出
Jの父がちょうど60才で亡くなった時、「惜しい人を亡くした」とか、「いい人だった」とか、「いい人に限って、早く亡くなりますなあ」とか、少なくとも10年近く、Jは折に触れて聞かされました。なるほど、傍目にはそう見えたかも知れないと思いつつも、家族の一員として見た場合の父は、傍目通りには評価できなかったと、Jは自らに言い聞かせて来ました。しかし今、自分自身が当時の父の年代となり、親としての自分が子供たちの目にどう映っているだろうかと考える時、父を懐かしむ気持ちが俄かに湧き上がるのを抑えることが出来ません。夫婦は選ぶことが出来るけれど、親は選べないという人間の在り様が、父が死んで20年近く経って、 しきりに思われてくるのです。
あれは、Jが小学校3年生か4年生の春休みだったろうと思います。20キロ以上離れているO市の親戚の家まで歩いていこうと父に誘われて、Jが頷いたのは、「アイスクリームをいっぱい買ってやるから」という甘言に乗せられたからに他なりません。そもそも、O市までの距離感自体、当時の彼にあろうはずがなかったのですから。
春とは言え、朝5時の町の空気は暗く冷ややかで、見慣れているはずの家々や道や電信柱であるにもかかわらず、外灯にわずかに照らされたそれらは、今までついぞ知らなかった表情を帯びていました。人気のしない静寂の町角には、何か魔物が潜んでいるような気がしてなりませんでした。父にすがっていないことには、どこかに連れ去られる不安が背後に迫ってならないために、Jは小さな右手でギュッと、海老茶色の国民服を着た父の上着の裾を掴んでいました。暫く裾を掴まれたまま歩いていた父は、やはり歩きにくかったのでしょう、Jの右手を握ると、Jの歩幅に合わせながら、町はずれの山裾を巡って大きくカーブしている道を辿って、西に広がった田んぼの中を行きました。
隣町を通過して、川に架かった橋を渡る頃、東の山の上が明るんできました。そして、峰々の木立の輪郭を鮮やかに浮かび上がらせながら、オレンジ色の光の筋が、東の空から中天に向かって見る見る広がっていきました。やがて黄色く輝く、それから白く灼熱する日が昇り、川面の波の青さが分かるようになり、深みを帯びた青から日の光の揺れる明るい青に変わる頃、
──父さん、しんどい、とJは訴えました。早くアイスクリームを買ってよ。
──ここじゃあ、店がないなあ、と広々とした土手を見渡して、父が言いました。
──アイスクリーム、アイスクリーム!.と、腰を落として父の手を引っ張りながら、Jは繰り返しました。
──もうすぐ町がある。そこで休もう、と語る父の言葉に、Jはイヤイヤながらも従う他ありません。
土手と西の山々との間が徐々に広がり、それにつれて開けていく田んぼの向こうの山麓にある集落に向かって下っていく道を、父とJは降りていきました。古い街道沿いの家々に混じって時々店があり、ガラス戸のカーテンを開けて、ちょうど駄菓子屋の婆さんが店を開けたところでした。そしてJはやっと、渋皮色の皺の寄った婆さんが差し出してくれた念願のアイスクリームを、店先の床几に腰かけて頬張ることが出来たのです。
あとはもう、何か店がある度に、パンを買ってもらったり、飴をねだったり、またアイスクリームを舐めたりするのが楽しみで、そのために歩いたようなものでした。それでも、また長い坂道を目にすると、もう店屋が見当たらないこともあって、「あの坂の向こうだから」と幾ら父に励まされても、Jはしゃがみ込んで動かなくなってしまいました。そして、父に背負ってもらって、峠を越えると、大空に赤いクレーンを幾機も斜めに伸ばしているO市の港が見えました。陸と島との間を流れる海の上を幾艘もの船が、白波を立ててせわしく行き来しているのが見えました。
──どうだ、来てみてよかっただろう、と父に言われたJは、
──うん!.と素直に頷きました。
玄関先まで出迎えてくれた叔父は、
──歩いて来たのか?.と目を丸くして驚きました。ヨシハル君は学生時代からちょっとした変人だったからなあ。
そう笑われても、父は何にも言いません。ただ黙って微笑しているばかりです。そもそも、父はどんな場合でも、穏やかな表情でしたから、「あなたは生き仏さんだから」と母がよく皮肉ったものでした。「一緒に生活する者はたまらんわ」
雪の舞い散る寒い冬など、黒い梁を露出した屋根の隙間から雪の粉がホロホロと落ちてくるほど古くて、竈の2つ並んだ土間のある、ガランと大きな台所でした。祖母と父母とJと妹の5人家族は、そこの丸い食卓を囲んで食事していたのです。貧しいなりに落ち着いた家庭でしたけれど、Jが小学5〜6年生になる頃、たとえば食後、離れに帰る際、祖母がしばしば、母の背後で顔を顰めてアカンベをするようになりました。ちょうど父の正面にそのアカンベをした祖母の顔があるわけですから、父が気づかないはずがありません。どうしてそんな下品な祖母を咎めないのかとJがそっと父の顔色を窺っても、父は素知らぬ風で、例の穏やかな顔で箸を動かしているばかりです。
それまで黙って祖母に従っていた母が、いつまでも祖母の言いなりにはならないと抵抗し出したものですから、それを憎んだ祖母が、食後、そんな子供じみた悪態を演ずるようになったのです。Jが中学校に上がる頃には2人の反目はいよいよ募り、それはまず父と母との口喧嘩をもたらしました。「我慢しろ」と言う父に、「我慢にも限度がある」と母は反論を繰り返して止めません。居間でいさかう2人の声は子供部屋のJに耳にも届きました。それは実にイヤな気分で、その根本原因が祖母にあると思うと、Jにはむしろ優しい祖母が徐々にイヤになっていきました。
ある日、Jが学校から帰宅すると、居間で隣近所に憚ることなく言い争う父母がいました。ムッと顔を紅潮させて、父が庭に出て行くと、
──待ってよ!.と母が追いかけました。まだ話が終わってないのよ。
家に背を向けて田んぼを見ていた父に母が追いすがると、
──うるさい!.とその腕を父が邪慳に振りほどき、バランスを失って南天に手をかけた母は、南天の木ともども葉蘭の茂みに倒れ込んで、ゴツン!.と鈍い音を立てました。葉蘭の陰に隠れた庭石に、母は頭をぶつけてしまったのです。
──痛い、痛い、痛いわよ、お父さん!.としゃがみこんで泣くじゃくる母を、ハッとした目で見た父は、しかし、何にも言葉をかけませんでした。
それから祖母と母との直接対決が始まり、2人が庭先で争う場面も珍しくなくなりました。堪えられなくなって、Jが初めて縁側まで駆け寄って、
──うるさい!.と怒鳴った剣幕に、2人は驚き、激しく罵り合っていた口をそのままにして、キョトンとした顔でJを振り返りました。
Jの腕を取ってその場を逃れようとした父の手をJは振りほどき、父を見上げると、父は遣り場のない怒りの目を宙に向けていました。Jはその時誰よりも(祖母よりも母よりも)、父を憎みました。一家の主人でありながら、自分の妻と母とが争う中に決して立ち入ろうとしない父を、「卑怯者!.僕は絶対にこんな男にはならない」と心で激しく批判していたのです。
高度成長期の企業が次々と開発した製品を、貪るように父が買い求めたのは(むろん日本中のどこの家庭でも見受けられた光景でしょうが)、一種のストレス解消だったのかも知れません。その典型が車でした。初めて買った中古の三菱ミニカに家族3人を乗せて、車の往来する道路はまだ自信がないというので、田んぼの畦道を走って、脱輪したこともありました。O市の叔父のもとにも車で訪れるようになり、駐車違反の紙を貼られたことも1度や2度ではありません。それから豊田のパブリカ、カローラ、それからまた三菱に戻って、コルト、ランサーと、父は買い換えるたびに車のグレイドを上げていきました。
──大型車の間を行くのがいちばん安全なんだ、と父はしばしば語ったものです。家臣に守られた大名籠のようなものだ。
確かに前後を大きな車に守られて走ることに、子供心ながらもずっと安心感を覚えていたJは、「そういうのがもっとも危険なんだけどなあ」と、成人して就職した先の同僚に言われた時、ひどく驚きました。「どうしてですか?」と問うと、「いったん事故になってみろ、バスやトラックに挟まれた普通車など、すぐペチャンコになるじゃないか」と同僚はさも当然だと言わんばかりの顔をして教えてくれました。
それは、ハッと目から鱗が落ちるほどにも至極尤もな指摘でした。考えてみれば、父が安全なつもりで実はいちばん危険な道を走っていたのは、何も車だけだったとは限りません。何事にも争わない主義の父が、かえってそのために、家庭内で祖母と母の争いの火をますます燃え上がらせる事態を招いたのですから。そしてそのことが、父自身、死期を早める遠因ともなったのですから。
戦争に応召されて鍛えられた父の肉体は、小柄ながらも強壮でしたし、病気とは縁遠い人でした。しかし、毎年のように行われる予科練の同窓会のために上京した後、2〜3カ月ほどして脳出血に襲われた父は、その半月後に亡くなりました。東京で酔っ払った折に知らぬうちに腕に出来た青い痣がなかなか消えなかったのが、1つの兆候だったのだ、あの時に気づけばよかった、と、いくら母が後悔しても、「後悔、先に立たず」と言う他ありません。ただ、祖母と母の争いが激しさの度を増すに従って父の酒量が増えていたのは確かですし、それが中年の体に良かろうはずがありません。事実、父の酒飲み友達はいずれも60代で亡くなっているのです。
しかし、J自身、妻を持ち、妻と母との齟齬を事ある毎に目にするにつけ、嫁と姑の関係の難しさを思わないではいられません。自由に選べるが故に、夫婦の間にはどうしても越えられない溝もまた生じやすく、嫁と姑となると、なおさらでしょう。
Jも、まもなく50才です。20年経ってますます心の中に広がっていく父なるもののイメージを噛み締める度に、自ら選ぶことの出来ない、血のつながりによって結ばれた親子関係の不思議が、ますます痛感されてくるのでした。