あの塔を解体せよ
法文1号館の中庭ではもう、寒風を割るほどにも眩しく、梅の花が咲いていました。教室の中では、机の上に鉛筆と消しゴムを並べて、表情の乏しい学生たちが着座していました。その暗く沈んだ空気を破るように教室の前の戸が開いて、ずんぐりとした体躯の、顔のごつい、スーツの上着がはだけて下腹の突き出たT教授が、小脇に問題用紙を抱えて入ってきました。そして、緊張の面持ちで待つ学生たちを等閑視するかのような軽やかな手さばきで、5〜60枚ほどの用紙の束をトントンと教卓の上できれいに揃えてから、裏返しにして、前の席の学生に後ろに配るようにと手渡しました。学生たちの前に1枚ずつ、裏返しにされた白い用紙が送られていく途中で、始業のチャイムが鳴りました。
──もう始めてもよろしい、と教授に告げられて、一斉に用紙をはぐる音が室内に響きました。
設問は単純でした。『西洋哲学』と講義名が書かれた横に、学部、学年、クラス、氏名を書く欄があり、「プラトンの『想起説』、デカルトの『方法序説』、ニーチェの『永劫回帰説』の中から1つ選んで、論述せよ。」と書かれているだけで、あとは罫線が30行ほど引かれている縦B4のレポート用紙だったのです。
──まだ紙が必要な人は手を挙げなさい。余分が幾らでもあるぞ、と教授は野太い声で告げました。それから、机に向かって忙しなく、白い用紙を黒い文字でつぶしていく学生たちの間をゆっくりと歩きながら、
──ヒントを1つ上げよう、と分厚い唇を皮肉っぽく歪めました。『想起』とは思い出すことだ。
「ハハハ」と2〜3人の笑い声が漏れたのが、かえって虚ろに響くほど、教室は鉛筆を走らせる音に満たされていました。
その時、教室の前と後ろの戸が同時にガラッと開いて、たちまち赤いヘルメットで顔を隠した学生たちが大挙して乱入しました。
サッと表情の変わった教授は、教壇に上がってきた学生に小突かれると、イタズラが見つかった子供のように悄々と黒板の脇に身を退きました。
──われわれはー、と、教壇に立った学生が大声を張り上げました。今げんざいー、大学当局のー、権威主義てきー、管理体制のー、打破に向かってー、断固たるー、闘争をー、構築しているー!
それなのに学生を集めて試験を強行するとは、何というハレンチ教官か。君たちは大学の民主化のために試験をボイコットすることを支持するか?.それとも、体制維持の補完装置に過ぎないこの後期試験を唯々諾々と受ける気か?.と二者択一を求められれば、大半の学生はボイコットを支持するのです。試験がなくなれば、代わりにレポートとなり、レポートになれば提出するだけでまず単位がもらえることを、学生たちは知っていたからです。それはもろん、ヘルメットの学生たちも周知の事実でした。要するに、試験阻止は、一般学生の支持を得るための貴重なデモンストレーションの場だったのです。
──Tさんよう、と教壇の上で仲間がアジるのを壁に寄りかかりタバコを吸いながら聞いていた、目つきの鋭い、顎のしゃくれた藤堂が口を開きました。みんなの意思は分かっただろう。あんたもいつまでも威張りくさってると、総括してもらうよ。何なら、今してもいいんだぜ。
──いえいえ!.と、イカツイ顔のT教授は、おかしなほど従順でした。結構です。
──それならさっさと出て行かんかい!.と、突如ドスを利かせた藤堂の剣幕にギクッとしたT教授は、ズラリと壁に沿って教室を占拠したヘルメットたちの前を、爪先立ちで進むかの如く素早く、そのずんぐりとした体躯を運んで、戸口の陰に逃げ去りました。
ニヤニヤと唇を弛めて、T教授の逃げ去るさまを眺めていた藤堂は、
──ちぇっ、子供みたいにビビっていやがった!.と揶揄しました。
教授が去ると、その場の緊張した空気がいっぺんに弛緩して、机の上の問題に向かっていた学生の1人がふてくされたようにナップザックをひったくって、ヘルメットたちの間を肩で押し分けて姿を消すと、他の学生たちも次々と姿を消して行きました。そして、強い目つきで壁際に並んでいたヘルメットたちばかりが居残り、キャンパスを行く学生と変わらない表情に戻って、リラックスしました。
──ああいうチンピラを脅すのは、面白くねえな、と、タバコの火を壁でつぶして、藤堂は嘯きました。やっぱりMをやろうじゃねえか。
──しかしM先生は、ラディカルな姿勢を貫いてきた人だぜ、と、赤いヘルメットの下でひどく肌の白さが目立つ小笠原が反発しました。戦後民主主義の精神的バックボーンと言っていい人だ。
──へっ!.と藤堂はせせら笑いました。日本のどこに民主主義があるんだよ。Mにしても、象牙の塔に籠もって、いい格好してるだけじゃねえか。
──先生は学者だ。学者としては最高の人だ。
──てめえ、その学者っていう階級が、そもそも民衆からの搾取を糊塗するための、ブルジョワジーが仕掛けたイデオロギー装置だってことが、まだ分からねえのか?
──いろんな学者がいるさ。ブルジョワジーに奉仕する学者もいれば、プロレタリアートの味方もいる。
──バカ野郎!.と藤堂はしゃくれた顎を突き出して、舐めるような目つきで小笠原を見つめました。てめえは大学解体がわれわれの目的だってことを忘れたのか?.そのためにはMのような奴こそ、もっとも恐るべき、従って憎むべき存在じゃねえか!
──解体というのは、ガラガラに壊してみんな瓦礫にすることか?.それじゃあ、どこに創造があるんだい?.進歩のための解体、つまりさ、1つの見通しを持った、節度ある解体こそが、われわれの行動であるべきじゃないのか?.と、小笠原も色白の優しげな容貌に似合わぬ執拗さで抗弁しました。
──けっ、くそったれが!.と藤堂は唾を吐き捨てました。そんなアマちゃんを言ってると、大学ひとつ解体できやしない。ましてや世界革命なんぞ、夢のまた夢だ。
──壊せばいいってものじゃないはずだ。
──とにかく、まず壊すことなんだよ!.と藤堂は忌々しげに言い放ちました。きさまがイヤなら、おれだけでも行く。おい、みんな、これからM教授の研究室に乗り込むぞ。イヤな奴は、小笠原と一緒にエスポワール(喫茶店)でコーヒーでも飲んでろ。
そう言って廊下に出て、曲がり角の階段を登っていく藤堂の後を小笠原が追っていくと、他のヘルメットたちもドヤドヤと登っていきました。リノリウムの床の中程を菱形の木材で飾った4階の廊下の奥が、M教授の研究室のはずです。ドアの横に掛かったネームプレートで教授の部屋だと確認すると、小笠原の表情に若干の緊張が浮かびましたが、藤堂は「ヒュッ!」と口笛を吹いて足でドアを蹴り開けました。両側は壁一面の書架で埋め尽くされた部屋の手前にゼミ用のテーブルと数脚の椅子があり、その向こうの、窓を背にした机にM教授が座っていました。
──戸は足で開けるものじゃありませんよ、とM教授は静かな声で言いました。
──誰が決めたことなんだよ、とツカツカと床に響く自分の靴音を楽しむかのように、藤堂は肩を左右に振りながら、部屋の中に入っていきました。
──世のルールというものでしょう。
──世のルール!.と藤堂はおどけた顔をして見せました。自分たちに都合のいい規則を作って、みんなに押し付けてるだけじゃねえか。
──挨拶の仕方、ドアの開け方、それらは幼稚園か小学校で拾得しておくべきことなんですけどね。
──やかましい!.と藤堂はしゃくれた顎をのけぞらせて、机の向こうの教授を睨みました。そうやって既存勢力のやり方で飼い馴らした上で、大人になったら資本主義社会の歯車にしようってのが、帝国主義者たちの企みなんだよ。ラディカルであろうがなかろうが、大学の基盤の上にあぐらを掻いてる限り、反動でしかないんだ。それくらい、あんたも頭の中では分かっているだろう。世の矛盾が分かっていながら、それを河岸で眺めているあんたらこそが、いちばん罪が重いんだよ。
──学問の府ではまず学問をすることです、とM教授は静かに語りました。それだけでは分からないことも多いが、それがないと分からないこともまた、多いんです。学生たる君たちは、まず学問の洗礼を受けて欲しい。そこからいろんな可能性を探って欲しいですね。まだ若いんだし、試行錯誤のチャンスが与えられているんだから(もちろん、それが大学という1つの箱庭に過ぎないと自覚することは大切だけど)、君たちにとって、それは得難いジャンプ台になるはずですよ。
周りの壁を隠す書架の前にズラリと居並んでいた若者たちの、ヘルメットで隠された顔に素直で従順な表情が浮かぶに従って、室内には静謐な空気が行き渡りはじめました。それを察知した藤堂は、振り切るかの如く激しく、
──やかましい!.と怒鳴りました。良心的知識人って奴が、いちばん旧体制の維持に貢献するんだよ。良心という甘い媚薬を撒き散らして、人を眠らせるからな。あんたが今、大学を守る側のシンボル的存在になっているのも、その1つの表われなんだ。
──私は大学を守りたいとは思わない、と教授は言いました。ただ、学問は守りたいし、それは大学という制度の中で、プラトンのアカデミア以来、細々と、しかし強靱に維持されてきた、人類の人類たる証しなんだよ。その末端に位置しているというプライドを私は持っているし、君たちにも持って欲しいと思う。
──やかましい!.と再び藤堂は叫びました。総括だ!.自己のブルジョワ的体質を自覚するまで、徹底的に総括してやる!
そう息巻く藤堂の肩を制して、
──今日はここまでにしておこう、と小笠原が静かな声で言いました。こんなところで総括しても、戦略的効果はゼロだから。
──これは戦略の問題じゃない、と藤堂は叫びました。意地の問題だ!
──意地で革命は起こせない、と小笠原が言いました。革命家には常に冷徹な戦略が求められると、いつもおまえが言ってるじゃないか。
──ちぇっ!.きさまらにもブルジョワ的体質の残滓が強烈だなあ、と、周りの仲間の遠慮がちな表情を見回しながら、藤堂は皮肉りました。まるで臍の緒まで大事に保管してる吝嗇家みたいだぜ。「良心」とか「名声」とかに弱い人間は、所詮、革命ごっこのお遊びを楽しんでるだけさ。
そして、M教授を振り返って、
──今日は止めておこう、と勝ち誇ったような顔をして通告しました。しかし、最終のターゲットはあんただから、絶対に逃れられんぞ。
ホッとしたように足早に、赤いヘルメットたちはドアの外に出ていきました。ドアの前で立ち止まった小笠原は、
──すみませんでした。先生を総括することは決してありません、とM教授を振り返って謝りました。
──バカ野郎、とそのヘルメットを叩いた藤堂は、M教授に向かって、
──今の発言は撤回する。もっとも、大学を辞めるんなら、追いかけないけどよ、と言って、ニッと笑って、出て行きました。
馴染み深い書物の背表紙に包まれた静かな机の前にいて、M教授は窓から注ぐ日の光を再び背に感じました。しかし、強く握りしめられたその拳は、怒りと無力感とにいつまでも震えていました。