兵士の帰還
 
 野も山も新緑が映え渡り、透明な日の光にあふれていても、肌を刺す風にまだ一抹の涼しさが残る季節が過ぎ去ると、もう梅雨が近いのです。野を巡る水路から水車を利用して送り込まれた水が、田圃の畝間を埋めながら土に黒く染み込み、滞って、畝を沈め、やがて渺々たる青空を映す鏡と化した田の面に、白雲が漂い、緑の山々が浮かびました。こうして水を張った田が増えて行くにつれて、穴浦平野は、網のように四方に広がる畦を額縁にして組み立てられた、空と山々との巨大なパノラマに変容していくのです。そして、水田に群れ集まってきた蛙の鳴き声が、雲を呼び、雨を促すかのように空に響く頃、山々に挟まれた谷間の棚田にも、水が引き込まれていきました。
 午後から自家の田に水を引くというので、鬼足谷の信次は、早々に昼飯を済ませて、茶色く焼けた麦藁帽子を被り、ほつれかかった藁草履を引っ掛けて、谷の中程にある田に赴きました。隣の田でキセルを吸っていた近所の爺さんが、
 ──早う来いや、と言いながら、腰を上げました。わしゃあ、もう1時間近う待っとるんぞ。
 ──すみません、と信次は帽子の鍔を上げて赤銅色に日焼けした顔に白い歯を覗かせました。これでも早う来たつもりなんですよ。
 ──遅い、遅い、と爺さんは首を振りましたが、それは自分に語りかけるような穏やかな調子でした。まあ、あんたはまだ帰って間もないから、仕方がないけどのうや。
 ──すみません、と信次はもう1度謝って、川床の石にぶつかり水面の光を砕きつつ流れ去る小川に、素足を浸してみました。山の冷気が足の裏から踝にかけて、小躍りするような水の音と共に纏い付くと、子供の頃、兄と一緒に泳ぎに行った山奥の池が思い出されました。
 ──おーい、水が勿体ないぞう!.とまた爺さんに注意された信次は、帽子の鍔を上げて会釈して、畦の角を塞いでいた仕切り板を外して、手にした厚板で小川を堰き止めて、その流れを自家の田に導きました。
 ──後は放っといてもええんじゃが、何が起きるか分からんからのうや。何か起きた時が事じゃから、みんな、しまいまで水の番をしとるわい、と言い残して、爺さんは帰っていきました。
 5月下旬の日の光が真っ直ぐ降り注ぐ、暑い、静かな昼下がりです。夜になると必ず鳴る耳鳴りが、余りの静かさに、昼のさなか、風の渡る雑木林を仰いでいた信次の耳で鳴り出しました。それは、キーンと低く強く、眩しく乱反射する光のせいで空とも雲とも分かち難い高みから飛来する敵機の風を切る音にも似て、信次を怯えさせました。そうなるともう、いくら慣れていると言っても、心身ともに膠着状態に陥って、信次はただ立ち尽くしている他ありません。
 戦友が死んだのは、たまたま飛び込んだ防空壕の真上に爆弾が落下したからであり、たまたま信次が助かったのも、腹這いに伏せた脇腹に転がった水筒が、爆弾の破裂片を遮断してくれたからに過ぎません。真ん中の凹んだ、カーキ色の粗布に包まれた厚いアルミの水筒は、今もまだ信次の部屋の鴨居の釘に掛けられています。握りの飾り房の色褪せたサーベルもまだ、その下に置かれているのです。
 敗戦の年の秋、信次が帰郷し、目にした鬼足谷は、以前に変わらぬ静けさに充ちていました。しかし、何も変わらないように見えても、何かが決定的に変わっていました。帰還船が潜水艦の魚雷に撃沈されて、兄の隆行が戦死したのも、その1つです。比較的安全だろうと言われていた台湾に出兵した兄が、その帰還途上で死に、激しい戦闘が繰り広げられたフィリピンに学徒出陣したにも関わらず、信次は生き延びたのです。
 ──俺が死んで、兄さんが無事ならよかったのになあ。兄さんは母さんのお気に入りだったから、と信次が言うと、
 ──バカなことを言うな、と母は咎めたものです。2人とも生きて帰っとれば、それが一番じゃった。
 ──俺は独り身じゃからまだええが、兄さんには心残りがあったろう。
 ──妙子のことかい?
 ──ああ。
 ──それとこれとは別じゃわい、と母はことさら無関心な風でした。
 東京の大学に進学していた信次が稀に帰省すると、結婚後まもない嫂の妙子は、口数の少ない、銀座あたりを闊歩する街の女の中にもちょっと見かけないくらいの、スラリとした色白の美人でした。その妙子は、男手のない藤井家を姑と共に3年近く守りつづけ、夫の訃報も平静に受け止めていたのです。姑も思わず「女はこうでなくちゃあいけんのうや!」と賛嘆の言葉を吐いたほど、彼女の態度は凛としたものでした。
 夕刻が近付いて、水番を終えて帰って来た信次は、離れの居間に寝ころび、鴨居に掛かったアルミの水筒をぼんやりと眺めていました。すると、
 ──上がってもええか?.と縁側の外で母の声がしました。
 ──うん、と信次は背中を向けたままでした。
 ──よいしょ、と、中に入ってきた母は、ぐるりと部屋の様子を見回して、男の部屋にしちゃあ、よう片付けてあるが、と言いました。軍隊生活も、少しはええところがあったようじゃの。
 ──何な?.と、信次は依然、背中を向けたままでした。
 ──まあ、こっちを向けえや。それじゃあ、話し憎うていけん。
 両腕を伸ばして勢いよく上体を起こした信次は、
 ──何な?.と改めて問いました。
 ──おまえ、妙子さんのことをどう思うとる?
 ──どう思うとる、とは?
 ──このまま後家暮らしをさせてもええと思うとるんか?
 そんな先のことまで考えてもみなかった信次は、
 ──ふーん……、と頭を掻きました。そりゃあ、気の毒かもしれんなあや。
 ──今のままじゃあ、そうなるぞ。
 ──再婚すりゃあ、ええ。
 ──それでええんか?
 ──まだ子供もおらんのだから、ええが。
 ──藤井家を出て行くことになっても、ええんか?
 ──仕方なかろう。
 ──おまえは、それでええんか?
 母の執拗な問いかけに、
 ──何が言いたいんな?.と信次は胡散臭そうな視線を向けました。
 静かににじり寄って来た母は、
 ──再婚相手はおまえでもよかろうが、と秘密めかした小声でささやきました。
 ──そうは言うても……、と信次の声も自ずから低くなりました。嫂さんは嫂さんじゃが……。
 ──隆行はもうおらん。じゃから、妙子はもう1人の女で、おまえの嫂でも何でもないんじゃで。
 ──……。
 ──まあ、よう考えてみいや、と、普段の声に戻った母は、縁側に腰を下ろして草履を履くと、母屋に戻っていきました。
 その母屋の高い縁の下では鶏が飼われていました。竹囲いの下部にくり抜かれた隙間に孟宗竹を割って作った餌箱と水箱があり、クククッと喉を鳴らしながらせわしげに餌をつつく鶏の鶏冠の赤さが、離れから眺めていた信次を妙に刺激してなりません。それは戦火の色のようでもあり、そうでないようにも見えたのです……。
 ──信次さん、と、若い女の声がして、信次が顔を上げると、母屋の土間に妙子の顔が見えました。
 ──お風呂が沸いてますから、どうぞ。
 ──すみません。
 そうして、下駄を突っ掛けて、土間の続きにある台所で夕飯の支度をする妙子を慮った信次は、母屋の西の便所の外を回って風呂場に行きました。脱衣場で脱衣して、釜風呂の蓋をはぐって、湯に浮かんでいる底板にまず右足をかけて、跳ね返って浮かび上がらないようにゆっくりと、底板を足で湯の中に沈めていきました。そして、左の足も釜の中に運んでから、上半身を湯に浸けていきました。湯気で白く曇った窓越しに明るい月が懸かっているのに気づいた信次が、手を伸ばして窓を開けると、暗い夜気がサッと頬を撫でました。
 ──信次さん、と、その窓のすぐ下で妙子の透き通った声がしました。ぬるくありません?
 柔らかく白い彼女の体の温もりが伝わってくるような気配に、信次は、
 ──いや、ちょうどいい湯加減です、と慌てて応えました。
 ──じゃあ、少し焚いときましょうね。出る時分にぬるくなるといけんから。
 ──いや、ホントに嫂さん、今日は蒸し蒸しするから、こんなもんで十分です。
 ──私が焚くのは、おイヤ?
 ──いやいや、と信次はますます慌てました。嫂さんに手間をかけさせたくないんです。
 ──こんなこと、手間でも何でもないでしょうが、と、しゃがみ込んで薪を焚き口に放り込む妙子に向かって、「もう結構です」とは言えません。信次は黙って首まで湯に浸かって、底板から沸き上がってくる熱湯に妙子のしなやか手つきを想いつつ、瑠璃色の夜空に白々と光の筋を注いでいる月を仰ぎました。そして洗い場に上がって、石鹸を使っていると、バタンと風呂場の入口の戸の開く音がして、誰かが(明らかに妙子が)、脱衣場に入ってきたのです。石鹸を使いながらも、鋭く研ぎ澄まされた信次の鼓膜は、昼間の耳鳴りがウソのようでした。ただもう、モンペの紐を解く気配が、それを脱ぐ乾いた擦過音が、絣の上着を簀板の上に脱ぎ捨てる、重くて決然とした物音が、鮮烈な妄想ともども、ビンビンと響くばかりでした。それから暫くして(あるいはほんのちょっとの間に過ぎなかったのかも知れません)、信次の背後で仕切りの板戸が静かに開きました。