馬蹄川
 
 御領駅で汽車に乗り換えると、まだ電化されていない単線が、俄かに川幅の狭まった千田川に添って、険しい山間部を延びていました。蒸気と黒煙を吐き出し、車輪の軋る音を谷間に響かせながら、8両編成の汽車がイモ虫のように身をくねらせて行くのです。巨大な衝立のように眼前を遮ってくる山を右に迂回すれば、すぐまた次の山が行く手を遮って、今度は左に迂回しなければなりません。シュッシュッシュッ!.と蒸気の音が客車にも充ち満ちて、上り勾配を行く列車の重い足取りが、居眠りしがちな乗客の気分まで重くしてしまいます。
 渓流沿いに斜めに鉄パイプの支えを張り出したホームに停まって、1〜2人の客を降ろして汽笛を鳴らした汽車は、再び車輪を回しはじめます。3月上旬の山々は、まだ黒褐色の裸木に被われ、丸石の敷き詰まった川底を乗り越えてうねりさざめく波の上を、投げ込まれた礫が水面をスキップするように、セグロセキレイが飛翔しました。振り仰ぐと、空を塞いで急角度に傾く山際を風が渡り、雲が飛び、折々、機関車の吐き出す煙が淡い薄墨色に広がって溶け込んでいきました。そして瞬く間にトンネルの中に入り込んで、パッと点いた室内灯の照らし出す透明で黒い窓ガラスに、自らの顔が映るのでした。
 いつの間にか、線路に沿って南に流れていたはずの川の流れが北向きに変わっていて、それはもう、いずれ日本海に流れ込むであろう馬蹄川の上流でした。そう言えば川幅も広く、流れも緩やかで、山裾に点在する農家の前に棚田が見えるようにもなりました。山と山との距離が広がって、そんな山麓を汽車が大きくカーブしていくと、そこには盆地が開け、遠い峰々に残雪が輝いていました。山間部に急に開けた眺望に魅せられて車窓に顔を寄せる乗客の目に、U字型を描いて山裾を巡っている線路と馬蹄川とに囲まれた新制高校のグラウンドが見え、その向こうに2階建ての木造校舎がありました。グラウンドに向いた破風屋根の本館玄関の前の車回しには、大きな蘇鉄が濃緑色の葉を広げていましたし、本館の右手に見える別館1階の家庭科準備室では、新任の康子が、古参の槙本先生とお茶を飲んでいました。
 ──金本の息子さん、やっぱり戦死されてたらしいんよ、と槙本先生は言いました。奥さんが可哀想よね。たった3カ月の結婚生活で、実家に帰されてんじゃから。
 ──でも、先生、と康子は言いました。夫のいない嫁ぎ先で後家さんとして通すよりマシじゃないでしょうか。
 ──そこが難しいところよねえ、と槙本先生が湯飲みを差し出すと、康子は素早く急須を傾けてお茶を注ぎました。残っても、帰っても、どっちにしても辛いでしょう。
 ──お子さんはおっちゃったんですか?
 ──そりゃおらんでしょう。おれば、帰れんでしょうが。
 ──帰っちゃったんですか、帰されたんですか?
 ──それがよう分からんのじゃが。帰ったという人もおってなら、帰されたという人もおってねえ。
 ──女は損ですね。
 ──損得の問題じゃなかろうねえ。
 やっぱり損得の問題だと思っても、口には出さず、文机の上に置かれた菓子器の饅頭をつまんだものかどうか、康子は迷いました。「食べなさい」と先生に勧められれば、もちろん食べたかったのですが、出したなり先生自身も手を付けませんので、自分が先に口にするわけには行きません。そもそも、「意地の悪い人だから、気を付けなさい」と他の同僚から吹聴されていたこともあって、康子は警戒もしていたのです。
 ──どうしたの?.と槙本先生は粘っこい目をして康子を窺って、遠慮なく食べなさいや、と菓子器を康子の前に押し出しました。
 いよいよ迷った康子の耳に、
 ──姉ちゃん、姉ちゃん、と馴染みの声が響きました。
 驚いて窓を振り返ると、弟の俊吉が顔を覗かせて、トントンと窓ガラスを叩いていました。
 ──どうしたのよ?
 ──早く帰ってえや。父ちゃんが怒っとる。
 不審げに2人を見比べながら、
 ──何かあったの?.と槙本先生が問いました。
 ──いいえ、と腰を上げた康子は、狭い和室を靴を履いて出て、グラウンドの見える戸口に回って、
 ──どうして来たのよ、と弟を咎めました。
 ──父ちゃんが怒っとる、と弟は繰り返しました。
 ──うちは絶対にイヤ!
 ──じゃけど、出んのはいけんが。
 ──あんな口髭を生やして大威張りしとる兄ちゃんの友達のところなんか、絶対に行かん。
 ──兄ちゃんと友達とは別じゃが、と弟はウンザリした顔をしました。義夫さんは優しそうな、いい人じゃぜ。
 ──俊吉、あんたも裏切るんか?.と康子は睨み付けました。
 ──違うが、と弟はますますウンザリした顔つきです。ただ、僕の立場も考えてえや。父ちゃんと姉ちゃんの間で、もうくたくたじゃ。とにかく会って、その上で断わりゃあ、ええが。そうせんと、仲人になってもろうた新谷さんの顔をつぶすことになろう。
 ──お父ちゃんがそう言うとるんか?
 ──そうじゃが、と弟は頷きました。母ちゃんがそう説得したけえ、父ちゃんも渋々納得して、それで、僕が姉ちゃんを迎えに来たんじゃ。
 そう言われると、もうそれ以上、康子も抵抗できません。「急用ができたんで、お先に失礼します」と槙本先生に断わると、自転車に跨り、先を行く弟を追って、駅前に幾軒か商店が並ぶだけのK町の中心街をあっという間に駆け抜けて、線路と共に延びている川沿いの道を帰っていきました。
 盆地の中を広くゆったりと流れる馬蹄川に架かった吊り橋の支柱が見える、畑の向こうはもう隣町になる山の麓の一軒家が、康子の実家でした。段々畑を登って線路を横切ると、泰山木の厚い葉の茂った下に、当時としてはまだ珍しいブロック塀で囲われた、藁葺き屋根にトタンを張った母屋と、離れと、納屋があったのです。納屋の軒下に自転車を停めた康子のところに、一足先に着いた弟に知らされた母がやって来て、
 ──早う着替えんしゃい、と急き立てました。新谷さんがお待ちかねじゃでのう。
 ──新谷さんだけ?
 ──馬鹿を言いなさんな。二宮さんがご一緒じゃが。
 「ふう!」と溜め息を吐いた康子が玄関の土間に入ると、勤めを休んで帰省した次兄の良次が、「康子、どこへ行っとった?」と恐い顔で睨みました。康子はプイと顔を背けて、居間に入って、もう着物は間に合わないというので、母が秘かに買っていた、ベージュ色をした、肩パットのある、腰を強く絞ったプリーツのワンピースを着せられました。
 ──何か肩が変じゃが、と康子が訴えても、
 ──そんなことはあるかいな、と母は受け合わず、その背を押して、一緒に座敷に行きました。まだ寒い時期でしたが、座敷の障子は開けられていて、廊下のガラス窓に梅の花が映っていました。
 隅に2つ火鉢を据えた座卓を囲んで、松竹梅の墨絵の軸の掛かった床の間を背にして二宮義夫さんと仲人の新谷さん、その向かいに康子の父が座っていました。座卓に着く康子を苦り切った顔で眺めていた父は、
 ──急用がやっと済んだようですが、と言いました。やっぱり女は働かせるもんじゃありゃんせんなあや。いざという時、家の者が往生しますが。
 ──いやいや、と新谷さんが言いました。康子さんはよう出来た娘さんじゃから、学校が戻ってくれと懇願したわけですけえ、ええことですが。これからの女の人は、そうでないといけませんで。
 ──学問をさせると、親の言うことを聞かんようになるだけです、と言いながらも、父はまんざらでもない様子でした。
 ──ま、わたしゃ、形ばかりの仲人で、本当の仲人はここの良次さんですけえのう、と言って、新谷さんは「ホホホ」と女みたいな笑い方をしました。
 思わず顔を顰めた康子は、膝の上で重ねた両手にグッと力を入れました。そして、真向かいの二宮さんの様子を窺うと、海老茶色のスーツに身を固め、紺の絞りのネクタイを締め、七三に分けた髪が額にかかった、初々しく穏やかな表情でした。次兄と同じ黒縁メガネをかけていても、レンズの中の目の穏やかさがまるで違います。むろん、次兄のような口髭など蓄えてはいません。薄い唇は心なしか開き気味でしたけれど、それがまた、何とも温厚な印象を与えるのでした。
 ──二宮さんはここの良次くんと大学も戦地もご一緒だったとお伺いしてますが、それじゃあ、ずいぶん古くからのお付き合いなんですなあ、と新谷さんが言いました。
 二宮さんは少し表情を崩して、曖昧に頷きました。
 ──今までこちらに来られたことがおありなんですか?
 氏はまた曖昧に、しかし今度は顔を横に振りました。
 ──二宮さんのお噂は、良次からよう聞かされとったんですわ、と父が言いました。ですけえ、康子の婿にしたらよかろうと良次が言うた時、そりゃあ名案じゃとすぐ賛成したんですらあ。
 私に一言の相談もなく!.と心の中で憤慨した康子は、ますます取り澄ました表情をして、視線を落としました。
 次兄の良次がやって来て、ドンとあぐらを掻いて座り込むと、その場の空気が一変しました。そんなことには委細構わず、
 ──義夫くんは見ての通り大人しい男なんじゃが、結構大胆なところもあってのう、と、次兄はいつもの堂々たる口振りでした。京都の清水坂に下宿しとった時なんか、音羽の滝で行水をしとるから、わしは驚いたよ。人が来たらどうするんかと聞いたら、「修行の真似をすればええ」と言うて、直立不動の姿勢で両手を合わせよった。
 そう言って、次兄が豪快に笑うと、周囲も笑い、二宮さんも羞かんだような笑みを浮かべました。
 ──ただ、いかにも要領が悪い。軍隊というんは、男同士の共同生活なんじゃが、なかなか陰湿なところがあって、そこからもう戦場みたいなもんよ。靴下1つ無くしても、上官からビンタを食らう世界なんじゃから。わしは物干し場に干してある靴下とか猿股とか隙がある度に拝借して、常に不測の事態に備えとった。ところが、この義夫くんと来たら、逆によう盗られてのう。その都度、わしが貸し与えとったんよう。
 ──兄ちゃんが義夫さんのも盗ってたんじゃないんな、と座敷の隅にいつの間にか座っていた弟の俊吉が口を挟むと、みんなまたドッと笑いました。
 ──馬鹿を言うな、と次兄も楽しげでした。友達のもんかどうかぐらい、分かるわい。
 ──いずれにしましても、二宮さんと康子さんとは昔から深い縁で結ばれとったわけですなあ!.と新谷さんは、感に堪えぬといった面持ちで、2人を見比べました。
 ──義夫くんにゃあ、いろんなもんをやったが、今度の康子が最高よう、と次兄はさも満足げに口髭をピクピクさせました。
 ムッと頬を膨らませた康子は、ますます顔を伏せ、結局、話に興じたのは周囲の者たちばかりで、肝心の2人は座卓を挟んで黙っていました。
 窓ガラス越しに咲いている梅の花に泰山木の葉を透かして西陽が射し込む頃、駅まで歩いて行くという二宮さんを、康子は送らなければならなくなりました。母の不安げな言葉を制するようにして父が申し出たものですから、康子も頷かざるを得なかったのです。
 馬蹄川に沿った道を二宮さんの2〜30メートルも後ろを、康子は素知らぬ顔をして付いて行きました。康子と挨拶を交わしてすれ違った村人たちも、したがって、まさか2人が見合いを終えたところだなどとは想像もできません。たまたま行く方向が同じ者同士にしか見えなかったのです。駅に着いた二宮さんは、振り返りもせず改札口を出て、ホームに立って、まもなくやって来た汽車に乗り込むと、乗降口の安全棒に手をかけて振り向いて、康子に軽く会釈しました。思わず頭を下げた康子の胸に、ふと、中学時代に臨海学校で出かけた瀬戸内海の青海原と、キラキラと白銀色に輝く波と、幾重にも重なって聳えている島々とが鮮やかに蘇りました。
 思案顔の康子の歩調は、行く時よりいっそうゆるくなり、夕陽を孕んで黄金色に煌めく馬蹄川が、まるで初めて目にする光景のように眩しく見えました。
 帰宅して、「お父さんが呼んどる。よう謝らんいけんよ」と母に諭されて、奥の間に行くと、机の上に巻紙を広げた父は、肩を怒らせて筆を執っていました。
 ──康子か?.と父は背中を向けたまま言いました。
 ──はい。
 ──今、新谷さんに断りの手紙を書いとるところじゃ。それでええな?
 ──……。
 ──それでええな?
 ──……。
 ──何とか言えや。分からんじゃろうが、と正座を崩して振り返った父に、真っ直ぐな目を向けて、
 ──もう1度、二宮さんに会ってみたい、と康子は言いました。