異国にて
 
 ──本当に就職するの?.と多恵子が問いました。
 ──うん!.と秀子は屈託のない笑顔で答えました。ちょっと寂しいけど、もう決めたんだ。だから、そのことは考えないことにしてるの。
 ──そう……、とうつむいた多恵子は、道端の小石を池に向かって蹴りました。土手に咲くタンポポの綿毛を宙に散らしながら転がり落ちた小石の音が、水面に広がる波紋と共に、静かな谷に溶け込んでいきました。
 ──わたしより秀ちゃんの方が遥かに出来るのにね。
 ──でも、いいんだ、と秀子は明るい空を仰ぎました。禍福はあざなえる縄の如しって言うでしょ。何が幸福で、何が不幸になるか、分からないから。
 ──そりゃそうだけど。
 ──あそこを見て!.と不意に秀子が指さす先を、多恵子も目で追いました。秀子の長くて白い指の先には、しかし、ヒラヒラと葉裏を返す春の山の頂上の、吹き抜ける風に傾いた松の木々が見えるだけでした。
 ──松のこと?
 ──もっとよく見て。
 丸縁のロイド眼鏡をかけた多恵子は、道の真ん中に立ち尽くしてジッと目を凝らしましたけれど、
 ──やっぱり分からない、と言いました。何かいるの?
 ──見えない?
 ──猿でもいるのかなあ、と多恵子が言うと、
 ──猿じゃかわいそうよ、と秀子は体を曲げて笑いました。
 ──じゃ、何よ?
 ──やっぱり猿よね。猿、猿!、と笑いつづけた後で、秀子は目尻の涙を拭きました。それより多恵ちゃん、大黒座に映画を見に行かない?
 ──何があるの?
 ──『青い山脈』って、とても面白い映画が来てるみたい。
 ──だけど、川口まで出るの、イヤだな。すぐに公映館に来るじゃない、と多恵子は言いました。
 谷の奥の山の中に暮らす多恵子にとって、谷を下りて穴浦町に出て、更に電車に乗って川口市まで出るのは億劫だったのですけれど、穴浦町に住む秀子はむしろ、川口市にある映画館に行きたかったのです。
 ──公映館に来るのは、半年先じゃない?
 ──そんなことない、と多恵子は断言しました。1〜2カ月後には来るよ。
 ──それでもやっぱり、多恵ちゃんはもういないじゃないの。
 ──そうか!.と多恵子は眼鏡の奥のつぶらな目を精いっぱい輝かせました。じゃあ、やっぱり大黒座だ!
 春の日射しがポカポカと降りかかる谷間の一本道を、2人は肩を寄せ合ったり、時に離れたりして、のんびりと歩きました。谷の北側の、日のよく当たる山際に農家が並んでいて、たいてい藁葺きで、納屋の暗がりの中から牛の声がしたり、田んぼの雑草を刈っていた農夫が腰を伸ばして、首に巻いた手拭いで汗を拭き拭き、「ええ天気じゃのう」と声をかけたりします。「多作さんは元気にしとるか?」
 ──はい!.と多恵子は谷間にこだまするほど元気よく答えました。おじさんも遊びに来てください!
 ──おお、分かった。多作さんによろしゅうな。
 ──はい!
 唇の端に笑みを浮かべながら、時々また山を振り仰ぐ秀子の顔を覗き込んで、
 ──どうしたのよ?.と多恵子は問いました。秀ちゃん、そんなに山が気になる?
 ──ほら、と秀子はまた山を指さし、あれ、何だ?.と、木の芽や蕾の気配の横溢した山にピンクの鮮やかな一群らの花を指し示しました。
 ──桜じゃないわよね。
 ──桜はまだ早いわよ。
 ──じゃあ、梅か。
 ──梅にしちゃあ、色が濃くない?
 ──そうか。じゃあ、何だろ……、と道の真ん中で考え込んだ多恵子は、あっ、ごまかされた!.と笑いを噛み殺して秀子を睨みました。秀ちゃん、話題を逸らしちゃダメだ。
 「違う、違う」と笑いながら駆け出した秀子を、「待ってよ!.わたしの家に行くんでしょ?.だったら素直に答えなさいよ!」と多恵子も笑いながら追いかけました。
 どこまでも棚田が広がり、やがて畑が多くなり、人家が絶えて傾斜が強くなった畑地の奥に、柿やイチジクやビワの木々に囲まれた小さな池がありました。それから先はもう両側から山が迫っている、渓流に沿った一本道です。そして山頂近く、なだらかになった山肌に、浅緑色の葉と赤茶色の幹との対比が鮮やかな、まだ若い松林に囲まれた、奥池とも緑池とも呼ばれている、透明な水が空の青さと雲の白さ、それに周囲の松林を神秘的に湛えた、清浄な池が横たわっていました。
 ──昔、ここまでよく泳ぎに来たものよ、と多恵子は懐かしげでした。もう滅多に通らなくなるかと思うと、ちょっと寂しいな。
 ──ねえ、今泳がない?.と、見事な体つきの秀子が挑発するように言いました。
 ──ええ!.本気?
 ──本気よ。
 ──まだ冷たいわよ。
 ──もう春よ。
 ──第一、水着がないもの。
 ──そんなもの、要らない、と茶枯れた草に被われた斜面を下りていった秀子は、水際でしゃがみ込んで、白い手を水の中に浸しました。ああ、とても気持ちいいわ!
 ──まだ冷たいわよ。だって、まだ3月なのよ。
 ──じゃ、そこで見張ってて、と言って立ち上がって、長い髪を巧みに頭の上で束ねると、砂地が池に沈み込む辺りに斜めに突き出た濃灰色の岩陰に回って、秀子は本当にスカートとセーラー服を脱ぎ、下着も脱いで、真っ白い裸体を春の日の光に曝しつつ、鏡のように青く静まる水際まで真っ白い足を運びました。さすがに冷たそうに肩を丸めて腰辺りまで浸かって、秘やかにさざめく水に若い肉体を預けると、ユラユラ揺れる水面に白い背と手足を映しながら、頭を浮かべて池の中央に向かって泳いでいきました。
 ──冷たかない?.と多恵子が叫びました。
 ──平気よ!.と秀子は手を振り、ほぼ中央まで泳ぎ着くと、ゆっくりとUターンをして、衣服を残してきた岩場をめざしました。そして、池から上がると、ふっくらと整った顔や、大きな瞳や、薄紅色に結ばれた唇を誇りかに輝かせながら、肩から腹、腰から脚へと滴り落ちる水を木綿の肌着で拭いて、着衣したのです。
 ──本当に寒くなかった?.と多恵子が聞くと、
 ──全然!.と秀子はかぶりを振りました。今は体が火照ってて、熱いくらい。
 ──わたしも泳げばよかったかな。
 ──うん、今度はわたしが見張っててあげる。
 ──やっぱり止める、と多恵子は道を登り始めました。さっきは誰も来なかったけど、誰が見てるかも知れないもの。
 ──いいじゃない、悪いことするわけじゃないんだから。
 ──秀ちゃんは大胆なんだ。
 ──わたしたち、もう大人だよ。
 ──それと大胆とは違う。
 ──そうかな?
 ──違う、違う、と多恵子は笑いました。
 山を登り切ると、そこはもう桃源平で、広々と囲われた柵の中に馬が放牧されていました。そして、明るく霞む南の空の下、青く光る瀬戸内海までパッチワークのように整然と続く田畑が遠望できました。
 梅谷にある3軒家の1軒が多恵子の家で、半日近く多恵子ともども桃畑の手入れを手伝った秀子は、帰りに頭陀袋いっぱい野菜を詰めてもらいました。とりわけ多く貰ったサツマイモは、当時、とても貴重な食料で、
 ──いつもすみません。母が喜びます、と秀子は頭を下げました。
 ──多恵子と仲良くしてもろうたお礼じゃが、と多恵子の母は言いました。これからも仲ようしてくださいのう。
 ──はい。
 人家があるところまで送ろうと多恵子が言いましたけれど、それではそこからまた引き返すのが大変だからと秀子は断わって、1人で谷を下りていきました。下り坂とはいえ、背中に背負った頭陀袋の重みで秀子はたちまち汗だくになって、来る時に泳いだ奥池が見える頃になると、辛くてたまりません。池の斜面に腰を下ろして、落日を浴びて黄金色に染まった向こう岸の赤松林を眺めていた秀子は、知らず知らず誇りに満ちた表情を浮かべるのでした。そして、ひと休みして立ち上がって、
 ──多喜二さあん!.と山に向かって叫びました。分かってるのよ、出て来て!
 かすかなこだまが空に消えて、また静寂が訪れて、それでも秀子が立っていると、すぐ背後の木立がガサッと揺れました。そこには、カーキ色の軍服を着た1人の若者が立っていたのです。
 ──知ってたのか?
 振り返って、若者と向き合った秀子は、
 ──はい、と頷きました。
 ──いつから?
 ──もう半年前からです。
 ──じゃあ、最初からだ、と若者は苦笑しました。
 ──多喜二さん、と秀子に真っ直ぐ目の中を覗き込まれた多喜二は、思わず顔を赤らめました。わたしのことが好きなんですか?
 ますます顔を赤らめた多喜二は、
 ──嫌いじゃ、猿の真似はできないよ、とうつむきました。
 ──聞こえてたんだ。
 ──胸にグサリと突き刺さった。いつまでこんなことをやってるんだろうと、自嘲したよ。
 ──でも、止めないでくださいね。
 ──……。
 ──ほんとは池の水、とっても冷たかった。
 驚いたように顔を上げた多喜二に向かって、
 ──あれがわたしの答です、と秀子はキッパリと言いました。だからもう、そんな軍服を着るの、止めてください。うちでブラブラしてるんじゃなくて、早く仕事を見つけてください。そして、わたしが母に多喜二さんのところに嫁ぎたいと言えるようになってくださいね。
 まるで上官の命令でも聞くように、多喜二は直立不動の姿勢に変わっていました。
 ──戦争から帰ってからの多喜二さんは、それまでの多喜二さんと違ってて、わたし、とても悲しかった。でも、多喜二さんがわたしに関心を寄せてくれるようになったのは、戦争のせいかもしれないと思うと、嬉しかった。だから、戦争のことを早く忘れて欲しいの。
 ──仲間が次々と死んでいったから……、と多喜二は告白しました。僕だけが生き残った心の整理が、まだ付かないんだ。今でも空を見てると、ジュラルミンの翼を光らせた敵機が飛来する幻覚に襲われるんだ。だけど、秀子さんを見てると、まるで違う世界があるような気がして仕方がなかったから、だから……。
 ──あるわよ、と微笑みながら、秀子はその白い柔らかい手で彼の手を取りました。だからお願い、もうその軍服は着ないでね。
 ──ああ、と多喜二はまた苦笑しました。いつも着てるわけじゃないさ。山に潜んで秀子さんを見張るためには、この服が最適だっただけだよ。