番犬
 
 海を埋め立てて広がりつづけるK市の東をT河が流れ、ブロック造りの河岸から穏やかな丘が連なって、丘を削ってK市は更に広がっています。区画整理の行き届いた丘の上に次々と瀟洒な家が建ち並び、今ではもう、かつての雑木林の面影はどこにも見出せません。今や獣たちの近付くことのないアスファルトの道を、朝夕に通勤の車が行き来し、終日、陽の光が燦々と降り注いでいます。余りに明るく清潔な新興住宅街の昼下がりゆえか、どこか非人間的な熱と気だるさを揺らめかせて、陽炎が立ち昇っています。
 ……
 丘の中腹に建った白塗りの住宅の前で車を降りたW氏は、低い鉄柵の門を開けて、玄関のドアホンを鳴らしました。
 ──どなた?.とO夫人の声がしました。
 ──Wです。
 ──ああ、いらっしゃい。
 廊下の奥から駆けてくる音がして、ドアを開けたO夫人は、
 ──どうぞ、とW氏を招き入れました。
 玄関先からすぐ2階に上がる階段があり、廊下の右手にリビング、ダイニング、バス、トイレと並び、左手に畳敷きの居間と座敷が襖を隔てて並んでいる、よくある間取りの家でした。床の間にオダマキの花が清楚に生けてある座敷に通されたW氏は、座卓の前であぐらを組んで、エアコンの利いている家の中から、先ほどまで自らその真っ直中にいた、白熱した陽の光の乱反射する庭を眺めました。もっとも、庭と言っても隅にバラや、丈の低いマツやカイヅカが植えられただけの平たい砂地でしたけれど。
 O夫人は冷えたゼリー菓子とアイスコーヒーを盆に載せてやって来て、「どうぞ」とW氏に差し出しました。
 ──すみません、とW氏。
 ──えらく暑いことですわね、とメガネをかけたO夫人は、細い目の端に愛嬌のある皺を寄せて言いました。ホンマにかなわんわ。
 ──痩せてる僕でも汗だくです。
 ──私かて、今朝から何枚シャツを着替えたことか。
 ──着替えるんですか?
 ──そやかて、暑いものはしようがありませんやろ。
 ──でも、すぐまた汗になるでしょう。
 ──もう習慣になってしもたから、今さら我慢でけへん。
 ──エアコンがあるじゃありませんか。
 ──部屋の中にジッとしてるわけに行かへんですやろ。
 ──そりゃそうです、とストローをアイスコーヒーのグラスに挿して上目遣いに吸うW氏の目に、胸の開いたブラウスを着たO夫人の首まわりに浮かぶ小粒の汗が光りました。
 ──奥さんは汗性なんだ。
 ──この時期には誰だって汗性になるんと違います?.と、W氏の視線を意識したO夫人は、ちょっと頬を赤らめました。
 ──そりゃそうだ、と、また言って、W氏は笑い顔を作りました。ところで、ご主人はお元気ですか?
 ──あっちが痛い、こっちが痛いと、しょっちゅうぼやいてます。もうええ加減な年なんやから、養生せんといけんと口では言うくせに、お酒付き合いには欠かさず出てます。ホンマに自分勝手なんやから、と、まくし立てるO夫人の甲高い声にはどこか甘えた響きがあって、それは3人娘の末っ子に育ったせいかも知れないと、W氏は推測していました。
 ──適量の酒は薬になると言いますけどね。
 ──適量なんてものじゃ、あらしまへん。あれじゃあ、いくつ胃があっても、足りませんわ。
 ──胃の具合がまだお悪いんですか?
 ──薬を飲み飲み、お酒もたっぷり飲んでます、とO夫人の表情がいささか曇りました。まあ、それが唯一の楽しみの人やから……。
 ──お嬢ちゃんは?
 ──この春、就職しました。
 ──もうそんなお年ですか!.で、どこに?
 ──K市民病院の事務なんです。真っ赤な車を買って、休みになると乗り回してます。
 ──家から通われてるんでしょ?
 ──ええ。
 ──そりゃよかったじゃありませんか。
 ──どうなんですやろな、とO夫人は細い腕を伸ばしました。アイスコーヒー、替えましょか?
 ──ええ……、イヤ、もう結構です。
 唇の端に微笑を浮かべたO夫人は、
 ──やっぱり替えましょな、と言いました。私も飲みとうなったし。
 40代とは言え、O夫人の肌はまだ艶やかで、1人の子を孕んだだけの体の線は、まるで若い女性のようにスリムでした。
 盆の上に2つのグラスを載せて戻ってきたO夫人は、
 ──どうぞ、と1つをW氏の前に差し出して、もう1つを自分の前に置きました。
 ──すみません、と言ったW氏は、もう1杯、冷たいコーヒーを飲む気は余りしませんでしたが、すぼめた唇の先にストローを持って来て、かすかな音を立てて吸い始めたO夫人の肌の温もりを間近に感じると、猛烈に喉の渇きを覚えました。
 エアコンの音ばかりが天井で低く唸っている、静かな昼下がりの郊外の住宅で、今、熟年の女性と2人きりなのだという思いが、W氏の胸を締め付けました。O夫人の胸もまた、同様の思いに締め付けられたはずです。ストローを持つ夫人の指がかすかに、しかし激しく震え始めたのです。そして、うつむいたままの夫人の頬を染めた朱が、首筋に下りて、肩から胸にかけて見る見る広がっていきました。
 ……
 ウウウッと低く強く唸る声に気づいたW氏が、顔を上げると、窓ガラス越しにイカツイ顔をしたボクサー犬が鋭い目で見据えていました。
 ──奥さん、奥さん……、と、W氏はO夫人の耳元でささやきました。お宅には犬がいたんですか?
 ──ああ……、と夫人は夢うつつの表情でした。主人のお気に入りの犬やけど、鎖で繋いでるから、心配あらへん……。