逃避行
──父が賛成してくれそうにない、と和子が言いました。旧地主の意地みたい。闇成金の家に娘を嫁がせたくないの一点張りなんだから。
──僕は成金じゃないんだけどなあ、と誠一は言いました。親と子を一緒にしてほしくないよ。
──そんな言い方をしても、父にはとうてい通じないわ。
──時代は変わったんだけどね。
──だけど、嫁ぐ身の私にしてみれば、どんな家なのか、姑とうまく行くかどうか、不安はあるのよ。
──そりゃそうだろうけどさ、と誠一はコーヒーを飲みました。
──たぶん、誠一さんには分からない、と上目遣いに誠一を見ながら、和子もコーヒーを飲みました。
──しかし、どうしようかなあ、と誠一は思案顔でした。みすみす拒否されるのが分かっていながら、結婚を申し込むのも、空しいよ。
──どうして?
──だって、和子さんの親父さん、大変頑固な変わり者じゃないか。その上、プライドが高いと来てるから、僕は苦手だよ。
──それでも申し込んで、断わられたら連れて逃げてくれるくらいの情熱を見せてほしいわ。
──どこに?
──世界の果てまで。
──世界の果て?.と呆れ顔をして、誠一はマジマジと和子を眺めました。世界の果てでどうやって暮らしていくんだい?
──愛があれば、そこから全てが始まるでしょ?.愛がなければ、どんなに豊かな生活を送っても、毎日、干涸らびた煮干しを食べてるようなものだわ。
──和子さんは情熱家なんだ。
──違うわ、と和子は誠一を見据えながら言いました。女にとって、結婚はそれほど大事なことなのよ。
──男にとっても大事だぜ。
──行く身と貰う身のとっても大きな違いが、男の人には分からないだろうな、特に誠一さんのような人には!
──じゃあ、僕はどうすればいいんだ?
──駆け落ちする勇気がある?.と和子はキラキラと瞳を光らせました。
──えっ?
──本当に遠くに逃げないまでも、どこか一緒に旅に出る勇気がある?.そうして既成事実を作って、改めて父と交渉する勇気がある?
──えっ?.と再び驚きの声を洩らした誠一は、必死に頭を巡らせて、想像力を掻き立てました。
──1泊2日の温泉旅行なら、僕の今の給料でも、何とかなるよ。課の慰安旅行に行くと言えば、家の者も納得するだろうしね。
──本気?
──もちろんさ。
そこで、日取りと待ち合わせ場所を決めて、モルタル塗りの喫茶店を出て、和子は帰宅し、誠一はやり残した仕事の整理のために役所に引き返しました。
同じ課で働くようになってたちまち恋愛関係に陥った2人は、いずれ結婚するだろうと、同僚の誰もが予想する仲でした。ところが、和子の父の拒否の姿勢は強く、誠一は逡巡を繰り返していたのです。それを和子の方から駆け落ちの真似事をしようと提案したわけですから、誠一の心が浮き立たないはずがありません。日本海側にある温泉地に向かって、汽車は蒸気を上げ煙を吐き吐き中国山脈を登りつづけ、窓ガラスに静かに流れていく段々畑を、誠一は鼻歌交じりに眺めました。コート姿の和子をチラチラと窺いながら、「暑いなら脱いだらどうだい?」と言葉をかけましたが、マフラーを外しても、和子は決してコートを脱ごうとしません。それでも胸のふくらみの露わな和子に誠一は欲情して、それを察知した和子はさり気なく目を反らせました。トンネルに入った汽車はドッドッドッとくぐもった音を車内全体に響かせ、天井にパッと点いた灯りの映る窓ガラスの外を黒い煙がモウモウと棚引いています。
──凄い煙だなあ、と誠一は楽しげに言いました。
──煤が入って、気分が悪いわ、と和子は顔を顰めました。
──これくらい石炭を焚かないことには、山を登れないんだろうな。何しろ凄い重量の列車を引っ張ってるんだから。
──座席に座ってるだけの私たちは気楽なものね。
──そういうこと!
そう呑気に応える誠一をチラリと見た和子は、窓枠に頬杖を突いたまま、トンネルの壁にぶつかりながら激しく流れる黒煙を凝視しました。
長いトンネルを抜けると、もうそこは山陰の地で、険しい山間を雲が這い、深い谷に鉛色の川が流れています。山々を抜けて、川幅が広がって、冬の田が見渡せましたが、空は依然曇ったままで、むしろ厚く暗くなったくらいです。
小さな駅に着いて降り立った和子は、
──ここ?.と不審げに周囲を見回しました。
──温泉街まで歩かなきゃならないんだ、と言った誠一は、ちょっとためらいを見せた後、
──タクシーを頼もうか?.と付け足しました。歩いてもすぐだけど、さすがに裏日本は寒いや。
──歩きましょ、とバッグを手にした和子は、独り駅を出て、サッサと歩き出しました。
慌てて追いかけてきた誠一が、
──何を怒ってるんだ?.と聞きました。
──別に。
──後悔してるんじゃないのか?
──それは誠一さんでしょう。
──そんなことはないさ、と誠一は明るい声で言いました。
──それならいいじゃないの。
マフラーを巻いても首筋に入り込む風が冷たくて、和子はコートの襟を立てて歩きました。肩を寄せて誠一も一緒に歩いて、やがて、石垣で護岸された川の両側に冬枯れした柳並木が黒い幹をくねらせている温泉街に入りました。派手な看板を掲げた旅館が軒を並べ、川には多くの橋が架かり、川に沿ってカーブした砂利道をさらに歩いて、和子もさすがに歩き疲れた頃、石畳道の空に懸かった孟宗竹がサラサラと風に揺れている、唐破風の玄関を持つ旅館に到着しました。
──ここなの?.と和子は甍の反り返った大屋根を仰いで些か臆しました。
──うん、と誠一は自慢げに振り向きました。貯金も引き出して、奮発したんだよ。
それは『奥の湯』という名の旅館で、赤毛氈の敷いてある正面廊下に上がって、受付で宿帳に記載する際、**県**市**町とすらすらと書いてから、ちょっと書き澱んだ誠一は、番地を省略しました。そして、自分の名前の隣に和子の名前を添える時の小さな指の震えに気づいた仲居が、チラッと盗み見た、その意味ありげな視線に和子は傷つきました。
入り組んだ狭い廊下を2階に案内されて、『鴻の間』という部屋に通されて、窓を開けると、くねくねと枝を絡ませた松の木々が曇天に伸び、岩間の南天や万両が冷たい空気にピンと葉を張った庭があり、鯉の背の動く池があり、緑青色の苔のまとわり付いた小さな社が孟宗竹の間に見えました。
──由緒ある宿のようね、と和子が言うと、
──そうでございますのよ。文士の方々もよく逗留されます、と仲居は高名な作家の名を挙げました。
──見てごらん。テレビがある、とその前に座り込んだ誠一は、スイッチを入れてチャンネルを回しました。こいつは豪勢だな。
仲居が引き下がると、誠一はいきなり唇を求めてきましたが、タバコの匂いのする激しい息づかいに、和子は思わず顔を背けました。
──どうして?
──今はイヤなの。
──しかし、和子も大胆な女だなあ。
──まだ呼び捨てにしないで!.と叫んで、居住まいを正した和子は、
──私、お風呂に行って来る、と言いました。
──僕も行こうか?.と誠一はオモチャを取り上げられた子供のような顔をしました。
──1人で行きたいの、と和子は強く拒否しました。2人でブラブラしてるところを、人に見られたくない。
──ああ、と頷く誠一の意味ありげな目つきに、先ほどの受付での仲居の目つきが思われて、和子の心はまた傷つきました。
旅館の褞袍と浴衣の入った籠を手に、下駄を履いて夕刻の温泉街に出た和子は、川の曲がり角にあった『玉ノ湯』という温泉場に入りました。若い娘が「いらっしゃい!」と出迎えて、下駄を下駄箱に入れて、脱衣場に案内してくれました。半ば開いたガラス戸から浴場の湯気の噴きこぼれている簀子敷きの上で裸身を晒しているのは、いずれも60~70代の老女ばかりです。白い湯煙の立ち籠もった浴場にも若い女の姿はなく、娘時代を遥か昔に通過した老女ばかりが、しなびた乳を垂らし、たるんだ腹を震わせながら、黒々とした股間をゴシゴシ洗ったり、湯水の面にウットリとした顔を出したりしています。
あれがいずれ私の姿なんだ、と和子は激しく後悔しました。結婚するまで処女でいるはずだったのに、駆け落ちをした馬鹿な女を笑ってきたはずなのに、そんな馬鹿な女に、今、私がなろうとしている。
誠一さんは確かにいい人だけど、相手は誰でもよかったんだ。愛じゃなくて、情欲の対象を求めていただけなんだから!.自分の欲望を満足させてくれるなら、たとえ娼婦にでもさっきのように唇を求めるに違いないわ。
和子が湯の中で思わずブルッと身震いすると、いつの間にか隣に浸かっていた老女が、和子のタオルを鷲掴みして、彼女の肩に乗せました。
──湯に入るときは手ぬぐいを漬けちゃあ、いかん、と老女は優しく言いました。見てごらん。みんな、頭に乗せるか、肩に置くかしてるじゃろ。
しかし、見知らぬ人の手によって白く豊かな乳房を露わにされた屈辱感に、和子は湯飛沫を立てて立ち上がって、脱衣場に駆け込みました。着物を着ずにまた洋服を身に纏って、火照った体がさらに熱するのも構わずに走って、『奥の湯』の玄関前に敷き詰められた石畳をカランカランと鳴らす下駄を乱雑に脱ぎ捨てると、2階に駆け上がりました。そして、
──私、帰る!.と息を切らせながら言いました。私は馬鹿な女になりたくない。私、帰る。
テレビに興じていた誠一は、和子の不意の宣告が理解できなくて、「えっ?」と間延びした表情をすると、指に挟んでいたタバコを思わず畳の上に落としました。