ザルツブルクの小枝
 
 窓際の小卓の上に飾られた観葉植物の脇に、小さな写真立てがありました。そのガラスの中の少年の笑顔に誘われて手を伸ばした冴子は、写真立ての下に色褪せた1枚の便箋を見出しました。4つ折りにされた便箋には、こんな詩が綴られていたのです。
 
  僕の前に道はない。
  それでも僕は歩く。
  雲ひとつない青空の下で
  一足毎に僕の背後に青い影が揺れていく。
  不意に地をよぎる鳥影の彼方にも
  いかなる実在を仰ぐこともなく、
  ただ、目の前に君がいる。
  僕は君が好きだ。
  途方もなく
  君が好きだ。
 
 キッチンから手作りのフルーツケーキと紅茶を運んできた良子に、
 ──素敵な詩ね、と言って、冴子はテーブルの上に便箋を広げました。ラブレター?
 ──あっ、見たのね!.と良子は怒る真似をしました。遠い遠い昔の話よ。
 ──高校時代かな?
 ──彼の服装を見りゃ、一目瞭然だよね。
 ──大事な人だったんだ。
 ──と言うか、だんだんそうなったと言うか……、と良子は冴子の前にドライフルーツとナッツをまぶした焦げ茶色のケーキの小皿と紅茶茶碗を差し出しました。お砂糖は適当に入れてね。
 ──おいしそうね!
 ──婚約祝いに奮発したんだから、と良子はあんぐりと口を開けて、まずひとくち試食しました。お酒が利きすぎたかな?.先を越された口惜しさから、ちょっと混ぜすぎたみたい。
 ──でも、リョウちゃんにはこんな素敵な恋人がいたんだ。私なんて単なるお見合いだよ。
 ──キッカケは何だって、結果が大事よ。人生の同伴者に巡り会えれば、それでオーケーじゃん。
 しかし、冴子は返事をせず、黙ってケーキを食べました。
 ──私の場合、お見合いをするにも、実家が遠すぎちゃう。
 ──写真の彼は?
 ──だから言ったでしょ、遠い遠い思い出だって。
 それでも冴子にせがまれて、詩を貰うまでまるで意識になかった子だったこと、まじめで大人しくて、高校時代にはついに声をかける機会がなくて、卒業式当日、たまたま通りかかった彼に友達3人の記念写真を撮ってもらって、代わりに嫌がる彼を撮ったのが、窓際の写真であることなど、良子は淡々と打ち明けてくれました。
 ──でも、いいわね、「途方もなく君が好きだ」なんて、と冴子は言いました。私には多くの男友達がいたけど、ついに1人の恋人も出現しなかったな。
 ──いかにも高校生って感じだよね、と良子は他人事のように平静でした。典型的なプラトニック・ラブだったから、私にとってもいい思い出なんだ。
 ──北海道だから可能だった恋かもね。
 ──それって、田舎って意味?
 ──違う、違う!.田舎はここよ。だって、家と田んぼと、低い山や静かな海があるだけなんだから。
 ──明るくて暖かくて、とってもいいところじゃん。何が不満で、サエちゃんがそんなに故郷をいやがるのか、理解に苦しむな。
 ──リョウちゃんが北海道を出たがったようなものよ。
 ──要するに、「ふるさとは遠きにありて思うもの」かもね、と良子はクスッと笑って、紅茶を啜りました。
 ──その点、リョウちゃんは幸せよ。
 ──さあ……、と良子は言葉を濁すと、書棚に挿し込まれていた高校時代の卒業アルバムを取り出しました。
 草原を渡る風に木々の若葉が震え、澄み渡った青空の下に広がるグラウンドと校舎を写した巻頭写真が、たちまちに冴子の想像力を刺激しました。無垢な笑顔に満ちあふれたクラスメイトたち。ポプラ並木を駆け抜けて、乳牛の鳴く牧場まで手に手を取って走る恋人同士。そして、その1組みが良子たちで、それは空を行く白雲ほどにもさり気なく、自由なのでした……。
 リョウちゃんが瀬戸内海にやって来たように、私が北海道に行ってもよかったんだ、という後悔の念が、冴子の胸を錐のように突き刺しました。何も生まれた土地で老いていく必要なんてないのに、私の人生はもう終着駅の分かるレールの上を歩み始めている……。
 それにしても「途方もなく君が好きだ」と書ける阿部隆晴なる人物に異様な関心の湧き上がる自分を、冴子は抑えることが出来ませんでした。もう10年も昔の話だ、それも私とは何の関係もない話なんだ、といくら自分に言い聞かせても、逆に、本当にこの写真通り、何の変哲もない男の子なのだろうか?.誰にもあることが、私だけになかったのだろうか?.と熱い疑問が込み上げてきてしまいます。
 良子がトイレに行った束の間を見計らって、冴子は震える手で手帖を取り出して、卒業アルバムの巻末にあった「札幌市北区*条*丁目」という阿部隆晴なる人物の住所と電話番号を写しました。
 それから、脳細胞1つ1つに焼き付けられたような彼の詩句が、会社のコンピュータに向かっていても、家でテレビを見ていても、透明な虫のように蠢くのでした。堪らなくなった冴子が、「結婚前に北海道に行きたい」と両親に訴えると、「真治くんの了解を得ているのか?」と父親はイヤな顔をしました。
 ──まだ。
 ──もう自分1人の身じゃないんだから、彼とも相談しなさい。
 ──分かった。そうする。
 そこで、婚約者にも北海道を旅したいと言うと、「新婚旅行を北海道に変えようか?」と婚約者は言いました。「その方が安く付くしね」
 ──2人でヨーロッパに行きたいし、北海道には1人で行きたいの、と冴子は言いました。もう一生、そんなチャンスはないかも知れないんだもの。
 ──冴子さんは思い詰めたらトコトン行くタイプだからなあ、と笑いながらも、婚約者も了承してくれました。
 それから半月後、冴子は新千歳空港に降り立って、ターミナルビル地階からJRに乗って、30分ほどで札幌駅に到着しました。5月の北海道はまだブルッと鳥肌の立つ寒さで、思わず肩をすくめた冴子は、改札口を抜けて、トラベルバッグに詰めてきたジャケットを羽織って、南口を出ました。すぐ前に透明な人工衛星が斜めに地上に落下したかのような塔があり、地下街に外光を注いでいます。100メートル幅の大通公園を歩きながら、冴子は涙ぐまずにはいられません。北国の空の「途方もない青さ」に、冴子は失われた青春を思わずにはいられなかったのです。
 まず予約していたホテルにチェックインして、『すすきの』まで地下鉄で行って、大きな書店に入って札幌市の詳細な地図を買って、時計台を見て、北大にあるという、北海道の紹介に必ず出て来るポプラ並木の道を訪れました。新緑の冴え渡るポプラ並木や銀杏並木、ハルニレの並木を歩いて、クラーク氏の胸像の前を通って、大学のキャンパスを出たところにあった、赤暖簾の掛かった店で札幌ラーメンを食べて、ひんやりと肌寒い夕刻になってホテルに帰った冴子は、歩き疲れた足を投げ出すようにベッドの上に仰向けになりました。すると、
 ──あなたは誰ですか?.と阿部隆晴なる人物が問うのでした。
 ──ずっとあなたを待ち続けてたんです。
 ──でも、待ってくれなかった。
 ──だから、ここまでやって来ました。
 ──僕には良子さんがいます。僕は彼女を待っているんです。
 ──いいえ、彼女はもう決してあなたのもとには帰って来ません!.と冴子は強く訴えました。寒い北国がイヤで、出て行った人間なんだから。その代わりに私がやって来たんです。私はもうどこにも帰りたくないんです、親の元にも、婚約者の元にも。お願いだから、私に言ってちょうだい、「途方もなく君が好きだ」と。
 しかし、阿部隆晴なる人物は、はにかむような笑みを浮かべたまま、YESともNOとも答えようとしませんでした。
 ──当たり前だわ、と目覚めた冴子は自嘲気味につぶやきました。実際に逢わないことには、答えようがないわよね。
 翌日、地図を手にバスに乗って、北区*条*丁目付近の停留所に下りた冴子は、丘の上に広がっている新興住宅街の四つ角にあるスーパーマーケットの店員に詳しい地理を問うて、5月の日の光が眩しく降り注ぐ、広い上り坂を行きました。傾斜面に石垣やブロック垣を築いた家々が次々に現われて、電柱や家々の番地を確かめながら、1歩1歩、冴子は目指す家に近付いていったのです。
 阿部家は赤いスレート屋根をした、コンクリの階段を上がると片開きの玄関戸のある、ありふれた構えの家でした。そして、表札に戸主と共に家族の名前が並んでいて、「隆晴」の名も刻まれていたのです。
 呼び鈴を押すと、「はーい!」とドアホンから声がして、廊下を歩く音がして、すぐに中年の婦人がドアを開けました。
 ──どなた?.と婦人の眉間に不審げな皺が浮かびました。
 ──阿部隆晴さんのお宅ですか?
 ──ええ、と婦人はますます不審げです。
 ──新藤良子さんをご存じですか?
 ──あなた、どなた?
 ──新藤さんの同僚で、飯島冴子と言います、と冴子は言いました。それで、北海道に遊びに行った折りには、阿部さんのお宅をお訪ねしようと考えてたんです。
 ──ああ……、と、なおもジロジロと冴子を観察しながら、婦人は頷きました。隆晴は学生時代に交通事故で亡くなりましたのよ。良子さんにお聞きになりませんでした?.彼女、お盆に帰って来ると、必ずお墓参りをしてくださるから、そりゃあ、とても感謝しています。でも、隆晴とのことが彼女の人生に何かシコリのような影を落としているんだったら、隆晴も安らかに眠れませんわ。彼女はもう十分すぎるほど誠意を見せてくれたんだから、これからは自分の幸せを求めて生きて行ってほしいと、主人とも話してたところなんです。ちょうどいい機会だから、あなたからそう伝えてもらえません?