同期の桜
Jが職員室でお茶を飲んで、窓際のソファのところに行って、頑固に喫煙を続ける同僚と共に一服していると、机の電話が鳴って、
──J先生!.と女性教師が呼びました。お電話、校長から!
長い会議の合間のささやかなひと時を邪魔されたJは、今頃、何だろう?.といささか不快でした。こんな時に校長から連絡があるのは、マズイじゃないか。
電話に出ると、
──すぐ校長室に来てくれ、と校長が言いました。
校長室に行くと、大きな机の前で校長と教頭がヒソヒソとささやき合っていました。
──何ですか?
──あんたはK教育長と同窓生になるんか?
──はっ?.とJは一瞬、その言葉の意味が呑み込めませんでした。
──今度、文部省から派遣されたK教育長だよ。
──ああ!
──やっぱり同窓生なんか?
──そう言えば、そうですねえ。そのKが何か?
──今、来とるんだよ。
──学校に、ですか?
──いや、『徳川』というお好み焼き屋だ。高校時代、キミとも行ったことがあると言うことだったよ。
──ああ、と、ずいぶん昔の話を持ち出されたJは、曖昧に頷きました。
──会いたいから呼んでくれと、先ほど電話があったんだ。春休みだから、融通が利くだろうと言うんだよ。まだこの辺の学校事情が分からんのだろうから、仕方がないけどな。
──それで、ボクにどうしろ、と?
──教頭とも相談してたところなんだが、教育長の依頼を校長が無視するわけにはいかんだろう。
──でも、それは職務命令じゃないんでしょ?
──そりゃそうだが、似たようなもんだ。
──ボクが会議を抜けてもいいんですか?
──今の組合長なら、何とかなるだろう。だけど、団体交渉を抜けて、教育長に会っていたなどとは、間違っても口外しないでくれよ。
同じ同窓生のNにも会いたいというのがKの意向らしく、Jがそう伝えると、
──ラッキー!.とNは喜びました。昼寝するより、お好み焼きを食う方がいいや。
Jの新車では目立つというので、10年を過ぎて赤錆が浮いていても、まだ使っているNの車に乗って(むしろ、こちらの方が目立ったかも知れませんが)、2人は裏門から出て坂道を降りて、いったん街に入って、また勾配のゆるやかな郊外の山腹を登って、桜並木の花の白く咲いている新興住宅街を行きました。『徳川』というお好み焼き屋は、Jたちが通っていた高校の石垣が壁のように続いている坂を下ったところの、広い静かな交差点に昔ながらの看板を掲げていました。
駐車場にはすでに黒い乗用車が停まっていて、紺のスーツ姿の、少し猫背気味の中年の男が眩しげに満開の桜の花を仰いでいました。
車を降りたJが、
──お久しぶり、と言うと、
──おお!.とKが振り返りました。少しも変わってないじゃないか!
──いや、白髪も増えたし、腹も出たよ。
──こんにちは、と、頭髪が殆ど白く、口髭も半ば白いNが言うと、
──あなたは変わったなあ、とKは言いました。
Kは高校3年の時、Jと同じ文系クラスでしたが、Nは理系でしたから、同窓生とは言え、2人の馴染みは薄かったのです。勉強一筋の高校生だったと、Nは常々公言して憚らないだけあって、『徳川』にも1度も立ち寄ったことがないと言うのです。「その反動が今、来てるんじゃないの?」と、来る車の中でJが笑うと、「違いない!」とNも自虐的な笑いを洩らしたものでした。
──入ろうや、とKが促し、その黒鞄を小脇に抱えた、まさに鞄持ちという形容がふさわしい秘書に向かって、すまないけど、1時間ほど遊んで来てくれ。
──偉くなったんだなあ、と、店の暖簾を潜りながら、Jが言いました。
──車と秘書は県が付けてくれるんだ。しかし、給料が安い。もう少し高いだろうと期待してたんだけどな。
──いつ来たんだ?
──もう2週間になる。所帯道具ぐるみの引っ越しだったから、大変だった。
──単身赴任じゃなかったのか?.とJは少し驚きました。
──1〜2年じゃ、帰してもらえんだろう。それに、女房もこちらの人間だしね。
──子供は?
──いない。
店内の柱はいささか古びたとは言え、カウンター席の鉄板から立ちこめるソースの甘い匂いには、30年の歳月を飛び越えて、若い時代を呼び戻してくれる力がありました。20代から30代にかけて、それぞれの道を競うように走っていた者たちが、40代になると、むしろ同世代人という近親感を抱き出すのかも知れません。
靴を脱いで畳席であぐらを掻いて、熱くなった鉄板の上に運ばれてきたお好み焼きを、3人は三味線の撥のようなコテで切り込んで、フーフーと吹いて冷ましつつ、口元に運びました。そして、ビールを酌み交わしましたが、「次があるんだ」とKはグラス半分ほど飲んだきり、あとはもっぱら注ぐ側に回りました。
──やっぱりうまい、とK。生地が違うよ。東京にはこの味がないんだ。
──盆、正月には帰って来てたんだろ?.とJ。
──ほんの2〜3日さ。おれと女房の実家に行って、墓参りをすれば、それでおしまいだ。
──それじゃあ、会社勤めのサラリーマンの方がまだ楽なんだ。
──そりゃそうさ、とKは言いました。大臣の国会答弁の原稿を考えたり、10年、20年先の教育方針を検討したりで、年に何度、徹夜することか!.教育行政の成果は20〜30年後にしか分からないから、よほど先見の明がある奴でないと、出来ない仕事だよ。それにしちゃあ、給料が安いや。
その調子には相手をポンと突き放すエリート意識があり、それはかつてのKにはないものでした。かつてのKは、ボサボサの髪をフケを散らさんばかりによく掻いて、手垢で黒くなった英語の辞書をいつも開いて赤鉛筆で線を引きまくって、どのページも表紙と同じくらい赤くしていました。牛乳瓶の底のような厚いメガネをかけなければならなくなったのも、あの赤い辞書のせいだろうと、Jなど冗談半分に考えたものです。小柄で、よくからかわれて、弁護士になるために中央大学に行く、と語っていたKが、実際は東大法学部を受験すると、彼を見る級友の目が変わりました。1年浪人をして合格して、やっぱり弁護士をめざすんだろうとみんな考えていたところ、国家公務員試験に合格して、文部省に入省したのです。
──おれは誰とも飲むんだ、とKは言いました。学校組合のトップとも飲むし、人権団体のトップとも飲む。組合は脇が甘いが、人権団体は恐い。彼らには行動力があるからな。
──差別に対する強い怒りがあるからね、とJは軽い調子で言いました。
──学校で裁判闘争をやってるだろ?
──よく知ってるなあ!
──やりすぎだよ、とKは苦々しげに言いました。
──今の学校は生徒の立場に立つことを強要されてるから、生徒や親や、その支援団体に「こうしろ」と言われれば、そうする他ないんだよ。
──キミらも苦労してるんだ。
──だからこうさ、とNは頭を下げて、その見事な白髪を見せました。
──いや、Nの場合、気楽なもんさ、とJは言いました。一応、組合に入っていても、会議じゃ寝ている。人権教育の時間に席替えをする。まるで、この地の教員とも思えんよ。
──いやいや、とNは笑いました。教育長に変な誤解を与えないでほしいなあ。職務怠慢で処分されたくないからね。
──この県の学校に根を張っている思想統制は、まるでポルポト政権並みだ、とKは2人を見据えながら語り、突如、
貴様と俺とは 同期の桜
と歌い始めました。紳士然とした服装に似合わない大声でしたから、客のいない店内の、カウンターの奥の白い割烹着を着た主人も、ニヤニヤと眺め出しました。Kの雰囲気はいかにも陶酔した風でしたが、その目はちっとも酔っていません。厚いメガネの奥の冷たく冴えた目は、チラチラと2人の様子を窺っていたのです。
同じ兵学校の 庭に咲く
咲いた花なら 散るのは覚悟
みごと散りましょ 国のため
──あなた、ホントに戦後生まれ?.と、歌が終わってちょっとした沈黙の後、Jが言いました。まるで戦争体験者のようだ。
──人生は戦争だ!.とKはグラスの底にわずかに残っているビールの滓をあおりました。戦いに勝つために、日夜、死に物狂いで頑張らなきゃならないんだ、個人も、国家も。
──オレはもう少しのんびりと行きたいけどね。
フンと鼻でせせら笑ったKは、目元や口元に浅い皺の寄った童顔にかつての微笑を浮かべて、
──教育長は孤独な仕事なんだよ、としみじみと語りました。最終的な決断を独りで下さなくちゃならないのに、その判断材料が歪められている危険性が常にある。県の教育行政のために、ひとつ協力してほしい。
──あなたとしては、1つでも多く現場の情報が欲しいわけだ。
──その通り。
──考えとくよ、と応えたJは、しかし、教員を辞める算段をしていたところでした。