反逆
──Fの精子と私の卵子が食っ付いたら、きっと最高の真師が生まれるわね。
──真師は1人ですよ。
──パパのこと?
──パパじゃなくて、真師です。
──でも、パパ、刑務所の中じゃん。もう生きて出られないから、パパの行き先は天国しかないんだよ。
──天国じゃなくて、真理界です。真理界と仮想界を行き来できるのは、真師1人です。
──パパは詐欺師じゃん。Fだって知ってるくせに!
──ウッ!.止めてください。
──Fは絶対に獣にならないのね。だから、好きよ。
──ウッ!.止めろよ。
──P子とNが結託して、教団を乗っ取ろうとしたの、知ってるでしょ?
──知りませんね。
──Fが刑務所にいた時、私が阻止してきたのよ。少しくらい感謝したら?
──彼らに組織を動かす力はありませんよ。お金とコンピュータなら動かせるかも知れないけど。
──私が真師になれば、Fはナンバー2なんだから。
──さっきも言ったでしょ、真師は1人だと。
──そんなにパパに帰依してるの?
──パパじゃなくて、真師に帰依してるんです。真師の示された真理界に帰依してるんです。
──フウ!.Fは純粋派なんだ。
──そうですよ。
──今のはウソ!.だって、純粋な人間がこんなこと、するはずないじゃん。
──Q子さんはSexual-Developmentを知らないんだ。
──そのセクシャル何とかって、何?
──Sexual-Developmentというのは、相手は誰であろうと、関係がありません。互いが向上するための手段の1つが、セックスなんだから。
──じゃあ、私は単なる手段なわけだ。
──Q子さんは私の手段であり、私はQ子さんの手段なんですよ、真理界に到達するための!
──Q子と呼ばないで!.Q真人なんだから!
──はい。
──F真人。
──はい。
──私はあなたを真理界に導けるかしら?
──もちろん。
──でも、あなたの考えだと、私だけじゃなく、誰でも出来るわけね?
──南無**教を信奉する限りですけど、そこには男女の区別も、いわゆる愛もありません。
──まあ、いいわ。そうでないってことを、すぐにFにも分からせてあげるから。
……
マンションのドアから真っ直ぐ奥に狭い廊下が走り、右手にトイレ、バス、左手に書斎と寝室が並び、南に開いた奥に、広いダイニングとリビングがあるのです。と言っても、カーテンで閉ざされた室内は一日中、日が射すことがなく、リビングのソファにFの秘書格のAが腰かけていました。すると、不意に素裸のQ子が寝室から現われ、そのままバスルームに入ってシャワーを浴び始めました。小麦色をした、光沢と張りのある姿態の残像に、メガネの奥の、まだ子供っぽいAの目はパチパチしました。
Fはちゃんとポロシャツとズボンを身に付けて出て来て、
──Q子を送ってくれないか、と言いました。
──どこまでですか?.とAが不安げに尋ね、
──駐車場まででいい、とFが言いました。誰かいるだろう。
──はい、とAがホッとしていると、バスルームの蒸気をムッと吐き出して、ピンク色に上気したQ子が現われました。今度はバスタオルを巻いていて、
──A仮人、見たわね、と言いました。
──いや、何も見てません。
──真人にウソを吐くと、いつまでも仮人のままよ。
──はい。
──見たわよね?
──はい。
──良かったじゃん!.私の裸を見たら、それだけで功徳になるんだから!.と笑いながら寝室に入ったQ子は、タンクトップとジーンズを着て出て来ると、乱れた髪を整えながら、
──今度はいつ来ようかな?.と言いました。
──余り行き来しない方がいいですね、とFは言いました。ここもいずれ、警察が嗅ぎ付けるでしょうから。
──F真人は私に来てほしくないの?
──教団のためです。
──とか何とか言って、やっぱり来てほしくないんだ。
──教団のため、真理界のためなら来てほしいし、逆なら、来てほしくないですね。
──ハイ、ハイ、とQ子は軽く応え、入口の壁に立てかけてあった、小さな車と長柄の付いたリュックサックの中に潜り込みました。Aがその口を紐で結んで、
──どうですか?.と尋ねると、
──オーケー、とリュックの中からQ子のくぐもった声がしました。
ドアを開け、長柄を手にしてリュックを押し出し、エレベーターに向かっていると、
──誰かいる?.と、紐で結ばれたリュックの中から、またもQ子のくぐもった声がしました。
ギョッとしたAは、腰を屈めて、
──静かにしてください、と嘆願しました。
──誰かいるの?.教えて。
──いません。
──分かった。丁寧に運んでよ、と言ったきり、もうリュックが動くことはありませんでした。
エレベーターに乗って地上に降りて駐車場に出ると、マンションを支える鉄筋の柱の陰に1台のワゴン車が駐車していました。助手席の窓ガラスが静かに下がり、運転席にいた、目つきの鋭い、痩せぎすの男が、
──早くしろ、と言いました。
しかし、不自然に重たいリュックサックは、華奢なAの手に余り、力を入れた拍子にずれたメガネも構わず抱え上げようとしても、うまく行きません。苛立った男が降りて来て、車の付いたリュックの底をヒョイと持ち上げて、ワゴン車の中に運び入れ、
──道向こうの塀の角を見てみろ、とAの耳元でささやきました。ただし、気づかれるなよ。
30才近いにも関わらず、Aにはどこか幼稚な表情が残っていました。それを隠すように、ことさら落ち着いた手つきで鼻の上までメガネを上げたAは、さりげなく顔を巡らしました。すると、日射しの明るい、緑陰の揺れている築地塀の角の電信柱のところに、2人の男が立っていたのです。
──分かったか?
──はい。
──F真人に知らせておけ。
──はい。
ワゴン車が出て行って、部屋に帰ったAが不審人物の存在を告げて、Fがカーテンの隙間から覗いた時には、もう電信柱の下には日の光が眩しいばかりでした。
──今、北海道支部の状況を聞いてたところなんだ、とF。
──はい。
──家が確保できたらしい。
──はい。
──Q子をそこに移動しろ。
──私が、ですか?.とAはまたギョッとしました。
──おまえは運転できないじゃないか。
──はい!
──H仮人がいい、とFは先ほどワゴン車で出て行った信者を指名しました。
──Q子さん、悲しみませんか?
──勝手に悲しめ!.とFは吐き出すように言い、早く免許を取れよ、と微笑の影を閃かせました。
──はい!.とAはますます元気良く返事しました。
しばらくして、
──腹が減った。カップラーメンを買ってきてくれ、とAを追い払ったFは、独り書斎に入りました。そこには机も書架もなく、白いクロス壁に等身大の真師の坐禅姿のポスターが貼ってあるばかりです。蝋燭をともし、香を焚き、その前で坐禅を組んだFは、半眼でじっと真師を見つめました。アッパッパのような、だぶだぶの白い修行服をまとった真師は、アンパンのように膨らんだ顔が毛むくじゃらで、肉感的な厚い唇が軽く閉じられ、静かに瞑想しています。あぐらに組まれた脚の足指まで肉付きがよく、その上に重ねられた両手の指もまた、どれもむっくりと太くて、短い爪が肉の厚みに半ば埋もれていました。
──真師は今、刑務所の中だ、とFの心はまるで空を飛ぶ雲のように広く速く自由でした。たとえ殺人者であり、詐欺師だったとしても、それはMであり、真師じゃない。真師からオレに伝えられた真理界の輝きは、今や仮想界に遮られることが全くないんだ。100年後、200年後、真師の人と為りなど、小賢しい学者の関心しか引かなくなるだろう。人間の壁を超えた真理の存在が、権力によって確認され保証されたんだから、オレは敷かれたレールの上を静かに歩み始めるだけでいい。そうすればきっと、南無**教は21世紀をリードする唯一の宗教になるに違いない。