ホームラン王の夜
 
 K氏が壁のスイッチを押すと、白いシーツの掛かったベッドと、ナイトテーブルと、窓際のガラストップ・テーブルと椅子がありました。カーテンを開けてみると、窓の外は依然、雨です。ますます強く降りつづける雨が、音もなく次々と窓ガラスを濡らし、滴の跡を残していきます。スニーカーの紐を解いて脱ぎ捨て、ベッドの上に仰向けになったK氏には、天井がやけに低く感じられてなりません。ベージュの壁に掛かったピカソのグロテスクな複製画が目を射、ガランとした室内は外気の湿り気を帯びているかのようでした。
 Vネックの半袖シャツを脱いで、しゃがみ込み、K氏が冷蔵庫の中のウイスキーの小瓶を取り出そうとした時、ドアをノックする音がしました。ドアを開けると、顎の尖った、精悍な顔つきのM氏が、「やあ」と手を振りました。
 ──どうぞ、と、33才とはいえ、どこか童顔のK氏が低いだみ声で手招きしました。
 ──いや、いい、とM氏は言いました。飲みに行かないか?
 ──雨だから……、とK氏は渋り、
 ──ホテルで飲もうや、とM氏は上を指さしました。
 ほんの少し考えた後、
 ──分かった、とK氏は応じました。待っててくれ。すぐに出て行く。
 そしてドアを閉めて、スラックスに履き替え、緑と茶のチェック模様のシャツに着替えたK氏は、鏡の前で薄くなった額の髪を整えてから、廊下に出ました。くわえタバコで待っていたM氏は、タバコをくゆらしたまま、エレベーターに乗り込みました。K氏も狭い鉄の箱の中に入り込み、たちまち31階にある、スカイ・ラウンジに着きました。そこには、黒い扉に黄色いペイントで描かれた、真ん丸い目をした虎のマークが気に入って以来、遠征の度に2人がしばしば立ち寄る『虎の穴』というスナックがあったのです。しかし、慣れているはずのスナックの薄暗さに、K氏は一瞬、戸惑いました。カウンターがあり棚があり、棚にはボトルが並んでいる、そのボトルの1つ1つに滑る光の筋の翳りに、K氏の心は妙に貼り付いたのです。
 2人がガラスを敷いた木造カウンターの前の丸いスツールに腰かけると、
 ──何にいたしましょうか?.とマスターが尋ねました。
 ──何があるんだ?.とM氏。
 ──カールスハムス・パンチなどいかがでしょう?
 ──何だ、それ?
 ──ラム酒の一種です。
 ──どうする?.とM氏が問い、
 ──何でもいいよ、とK氏は応えました。
 ──じゃ、それ、とM氏が言い、
 ──かしこまりました、とマスターは深みのあるオレンジ色の液体を湛えたボトルを棚から出して、栓を抜き、2つのグラスに注いで、氷を盛ったガラスの深皿をカウンターの上に置きました。
 ──また雨で流れましたね、とマスターが言うと、
 ──いい休養さ、とM氏が言いました。梅雨の間、雨で全部流れたって構わない。
 ──ファンの楽しみがなくなりますよ。
 ──試合がなくなるわけじゃない、とM氏はグラスの酒をあおりました。130試合は必ずやるんだから。
 ──大変ですよね。
 ──ああ、大変だ。
 ──でも、私はMさんのホームランをとても楽しみにしてるんです、とマスターが言いました。小さな体であんな遠くまでよく飛ばせるなといつも感心してたんですが、実際にお目にかかって、納得が行きました。
 ──どういう風に?
 ──まるで鋼のような体じゃないですか。
 ──マスターにおれの裸を見せたことがあったかな?.とM氏は精悍な表情をニヤリと崩しました。
 ──服の上からでもじゅうぶん分かります、とマスターは言いました。それに今は夏だから。
 ふとM氏が横目を使うと、K氏は黙って酒をあおっていました。静かに一息で飲み干しては、熱い吐息を静かに漏らし、棚に並んだボトルを眺めています。そしてまた静かに飲み干し吐息して、棚のボトルを眺めるのでした。
 ──いよいよKさんの季節が来ましたね、とマスターがことさら陽気に言いました。でっかいホームランを頼みますよ。
 ──ああ、とK氏は言いました。もう1カ月出てないからなあ。
 ──なあに、Kさんなら、1カ月の借りは半月で返せますよ。
 しかし、K氏は何にも言いません。かつては必ず太い低いだみ声で愛想のいい言葉を返していたK氏が、黙ってグラスの酒をあおっているのです。M氏がボトルの口を差し向けると、黙ってグラスで受けて、また飲み干し、熱い吐息を漏らしているのです。
 トレードによってM氏が同じチームにやって来た時、K氏はすでに4番でした。左バッターながら、強いリストを利かせてレフトスタンドに放り込むホームラン、腰の回転でライトスタンドに一直線に叩き込むホームラン、バックスクリーン方向にきれいに伸びるホームラン等々、K氏の小柄な体から柔らかく振り出されたバットに当たると、ボールは呆れるくらい遠くまで飛んでいきました。どんなバッターでもとても打てないインローに落ちたフォークボールを、左膝を曲げたまま掬い上げたK氏のスウィングとそのホームランの軌跡とは、M氏の脳裏に今も鮮やかに刻み込まれています。その年、48本のホームランを放ってタイトルを獲得したK氏は、しかし、翌年は怪我に泣き、トレードの噂まで飛び交いました。その翌年復活し、再びホームラン王ともなり、優勝も果たしたにもかかわらず、その後のK氏はそれまでのK氏とはまるで別人でした。悪くても3割30本だった打者が、2割の打率、10本のホームランしか打てなくなってしまったのです。
 K氏を目標に、K氏に負けないだけの練習を自らに課してきたM氏にとっても、それはとても寂しい状況だったのです。そんなK氏を酒に誘うことは出来ても、どのような言葉をかければいいのか、M氏にも分かりません。ただ、空になったK氏のグラスに酒を注ぎ、ボトルが空くと、また頼み、それも空くと、3本目のボトルを注文するばかりでした。
 不安げな目でそっとK氏を窺い、
 ──明日の試合に差し障りありませんか?.とマスターはどちらにともなく言いました。
 ──雨だよ、と、酒気を帯びていささか赤ら顔のM氏が言いました。
 ──分かりませんよ。
 ──おれには分かるんだ。
 ──でも、私には分かりませんね。
 ──雨だよ、雨、雨!.雨しかないじゃないか。
 ──いや、分かりません。
 ──そうか、分かった!.とM氏は大きな声を出しました。K、帰ろうか?
 ──ああ、とK氏は頷き、2人は黒い扉を開けて、『虎の穴』を去りました。
 ──あの野郎、少し生意気になって来たな、とM氏が息巻いても、K氏は黙ったままです。ところが、エレベータの中で2人して熱い息を吐いていた時、
 ──10メートル、伸びない、とK氏が独り言のようにつぶやきました。
 ──えっ?
 ──おれの感覚より、叩いたボールが10メートル、伸びないんだ。
 M氏には返す言葉がなく、K氏ももう決して口にしようとはしません。そして、ドアの前で別れる時、K氏は律儀に頭を下げて、その年の秋、33才の若さで現役を引退したのでした。