夜を行く
 
 日が暮れて帰宅すると、しばらくしてU夫人から、
 「今日、お出でいただけるんじゃなかったのですか?」と電話がありました。
 「いや、明後日の予定なんですが」
 「主人が今日の3時だというものですから、ずっと待ってたんです」
 「明後日ではご都合が悪いんですか?」
 「今日を空けて待ってたものですから」
 そう言われると、
 「これからお伺いしてもよろしいですか?」とわたくしは尋ねざるを得ませんでした。
 「はい、お待ちしています」
 やれやれ!.と嘆息しながらも、もう夜の帳が下りている戸外に出、再び車に乗って、わたくしは南の街に続いている幹線道路をめざしました。ちょうど交通ラッシュの時刻でしたが、それは下りであって、上りはそれほどでもなかろうというわたくしの当ては、見事に外れました。JR線を跨いで高架になっている幹線道路を見ると、下りはもちろんのこと、上りも数珠繋ぎの車の列がノロノロ運転を繰り返していたのです。
 ちぇっ!.と舌打ちしたわたくしは、しかし、その車の列に加わらざるを得ません。まず、その混み合った車の合間に素速く入り込むために何度も舌打ちし、入り込んだ後も、赤信号の度に舌打ちをしてしまいます。横も前も後ろも、暗い窓ガラスの中に映る姿は、いずれも影絵の人影のように静止したままです。幼な子や若い母親でもいれば夜目ながらも人いきれが感じられたかも知れませんけれど、実感できるのは自分の吐息だけでした。
 4車線の道路は右も左もヘッドライトとテールランプの光で埋め尽くされ、裾野の広がった薬上山の麓を巡るように東西に走っている高速道路の高架を仰ぐと、半ば隠れた車の光がめまぐるしく往来しています。その橋脚が黒い巨人のように池を跨いでいるところから、池に沿った枝道に次々と車が分かれていくのを目にしたわたくしは、その後に付きました。街の入口まで行っても、どうせ大きく外れなければならないわけだから、思い切って暗い道に踏み込んだのです。もっとも、対向車が悠にすれ違うことの出来る幅があり、池を巡ってまた幹線道路に帰っていく車も少なからずありましたが、さらに暗い林の中の坂道を上っていく車もあり、わたくしはその方角を選びました。そして坂を登り切ると、見覚えのある道路に出、山を削って一直線に走る高速道路の上に架かった橋の向こうの、星の散らばっている空に巨大な総合病院が聳え、蛍光灯の窓明かりが白々と夜に浮かんでいました。
 街はずれのこんな山の上にまで住宅が広がり、レストランや喫茶店、レジャーセンターのイルミネーションが点滅する前を蛇行しながら、1本の道がさらに山の中に登りつづけています。その道も車が絶えないのは、山を越えたところに自分たちの町があるからです。さらに別の道に外れると、全く車がいなくなり、わたくしだけが孤独なヘッドライトの光を路面に差し向けて、闇に沈んだ山を疾走しました。それはゴルフ場に向かう道で、夜のゴルフ場はきっと山の本性が露わとなり、眼光鋭い梟が梢の上で静かに啼いているはずなのです。
 ちょうど『マーメイドゴルフ場』という看板が立ったところで、わたくしはさらに狭く、車1台が通れるだけの、しかしきちんと舗装された山道に入りました。まさかそんな山の中の夜道で対向車に遭おうとは予想もしていなかったのですけれど(今まで昼間に何度も通っていて1度もなかったことですけれど)、その夜は木立の被いかぶさったカーブの向こうから車が現われたのです、しかも2度までも!.夜道を行く見知らぬ車に対して、若干の不安と共に何かしら懐かしさを感じたわたくしは、2台とも空き地に横付けして待ってくれたこともあり、すれ違った後、不安の方は消えていました。こんな山の中にも人間が来るんだ、そして人間らしく振る舞うんだ、という思いの方が強く湧いたのです。
 山の中に小さな池があり、その端を真っ直ぐ延びる土手を渡ってから、池を巡る坂道を登り、峠を越えると、右手の闇の中に桃畑が暗く浮かび上がりました。桃源平という地名通り、かつては桃の産地でしたけれど、次々と山人たちは野に下り、今やU老人だけが、ささやかな桃畑を作っていたのです。老人が独りで住んでいた頃のU家は荒れ放題で、もう里で暮らす息子夫婦のもとに下りるのではなかろうかと思いつつ、わたくしは時々伺っていましたが、何と、半年前、息子夫婦の方が山に上がったのでした。そして、納屋が壊されて広々とした駐車場となり、庭に白砂が撒かれ、建具が新調され、モダンなサッシ窓が取り付けられると、普請して70年経つという建物が面目を一新して、まるで新築の家のようになりました。
 「でも、よくご決心されましたねえ!」とわたくしが感心すると、
 「のんびりとした生活に憧れてたんです」と、まだ30代の、茶髪で、派手な口紅を引き、爪に銀のマニキュアを塗ったU夫人が、ひどくハスキーな声で言いました。もう秋も深まり、網戸を透かして入り込んでくる夜風は肌寒いくらいでしたけれど、夫人は胸元の大きく開いた、体にフィットした目の粗いセーターを着ていました。座卓越しに豊かな胸のふくらみが目について、いささか困惑しながらも、
 「車で出れば、街まですぐですしね」と、わたくしは話題を合わせました。
 「そうなんですの」と、夫人の声は相変わらずハスキーでした。「それに、ここは街とまるで空気が違いますもの」
 「そんなに違いますか?」
 「こちらに引っ越して、体調がずいぶんと良くなりましたのよ」
 「ほう!」
 「夏でも夜になると涼しくて、とても快適でした」
 「そうかも知れません」とわたくしは頷きました。「アスファルトの舗装道路が走っている家を伺ったあと、庭木のふんだんにある家を訪れると、吹き込んで来る風の涼しさが全然違うのがよく分かります。ここは庭木どころじゃないですよね。山が庭のようなものなんだから」
 「自然児になった気がします」
 「そうでしょう」
 「夏など、お風呂上がりにそのままサンダルを引っ掛けて、畑の作物を採りに出かけたりもするんですのよ」
 わたくしは「そのまま」という言葉にギョッとしました。まさか素裸というわけではないでしょうが、それを確認するわけにも行きません。ただ、夕陽の射し込む谷間に作られた段々畑に、裾の短い下着姿のU夫人が、茶髪をなびかせながら白い太腿を見せてしゃがみ込んで野菜を採るさまが、自然と脳裏に思い描かれました。
 「でも、いつぞや見知らぬ車が峠を越えて来て、人相の悪い男の人がジロッと家の中を覗いて通過した時は恐かったですわ。イノシシ狩りの人たちも時々通りますし、夜、前の道を車が走ることもあるんです。こんな山の中に何の用があるんだろうと思うと、とても不気味です」
 「そうなんですか?」と、わたくしは意外な事実に驚きました。「けっこう人の往き来があるんですね」
 「はい。もう何の役にも立たないけれど、まだお爺ちゃんが一緒だから、わたしも安心してられるんです。1人だったら恐いです」
 「そりゃそうでしょう」
 「こんな山の中でも、100パーセント、自然のままに暮らすのは無理みたい」
 「そりゃそうでしょう」と、同じ言葉を繰り返す愚を感じながらも、わたくしはそう答えるしかありませんでした。「文明の利器のおかげで奥さんもここに住み着く決心が付いたわけだから、他の人が同じ文明の利器を使ってここまで来たとしても、それは仕方がありませんよ。どんなに山の中の、人家が数軒しかないようなところでも、長らく不在の家は必ず泥棒にやられますからね」
 「何かいい対策をご存じありませんか?」
 「セキュリティ・システムを導入されるのがいいんじゃないですか。最近はいろんなパターンが用意されているから、きっとこちらに適したタイプがあるはずです」
 「それも文明の利器ですね」
 「そう!」とわたくしは笑いました。「利器の上に利器を重ねて、倒れるまで積み上げていく他ないでしょうね」