千田川今昔
 
 川口市の西の山並みに沿って流れる千田川の川幅は悠に200メートルはあり、わたくしは江戸初期、穴浦町からお城を移した大名が、洪水を防ぎ、少しでも水田を広げるために治水工事を断行したからだろうと、いつの頃からか考えていました。むろん、誰かと話しているうちに、そんな想像に及んだのでしょうが、それも定かでありません。
 「とんでもありません」と、千田川の近くに住む川本さんは即座に否定しました。「昭和に入ってからです。ぼくらが子供の頃は、まだ家が土手の上にあって、夏になるとよく川で泳いで遊んだものです。その時分は今の半分もありゃせなんだですよ」
 「そうなんですか」と、ススキの穂が白く光る洲の浮かんでいる千田川の土手を車で走ってきたばかりのわたくしは驚きました。川幅が今の半分もないとすると、(川下の方が当然、大きいはずですから)3つの町を溯り、千田川が中国山脈を縫って平野に流れ出る御領市あたりからずっと、拡張工事が行われたことになります。
 「そういうことでしょうなあ」と川本さんはあっさりと肯定しました。
 「しかし、大変な作業ですよ」
 「そりゃそうです。子供心にもよう覚えとりますが、古い土手の土を工夫がスコップで掬って、トロッコに積んで、それをまた新しい土手まで運んで行って盛ってましたよ」
 「なるほど」と、あの巨大なピラミッドの石の1つ1つが人力で運び揚げられたのを思えば、それも不思議ではないのかも知れないとわたくしは頷きました。
 その頃の千田川は集中豪雨のたびに氾濫していたため、南側を塞いで連なった山並みが途切れて大きく川がカーブしているところでわざと土手を決壊させて、川下の城下町を救ったのだといいます。カーブの外回り沿いの寺の床が今でも高いのも、床上浸水を防いだ名残りからでした。
 「それでもここらもよく浸かったものでした」と川本さんは言いました。「お城まで舟を漕いで逃げていったら、あんまり人が多うて上がれなんだ、と親父がよう昔語りをしてくれました。さすがにぼくはお城まで舟で逃げた体験はありませんが、田圃が水浸しになったのは、何度も目撃しとります」
 「そう言えば、ここらは土地の高さが、川床よりも低いんじゃありませんか?」
 「そうなんです。だから、いったん大雨になると、決壊せんでも、必ずと言っていいくらい床下まで浸水しとりました」
 「今は?」
 「今は大型ポンプで汲み上げとりゃんすから、大丈夫なんですわ。あれがないと、最近の家はみんな、大雨のたびに水の中ですが。それを知っとるから、ぼくらは低い土地にはとても家を建てる気になれません」
 「ポンプが故障したら大変だ」
 「そりゃ昔通りの水浸しでしょうな」
 「まさに知らぬが仏ですね」
 「そうですなあ。何でもいったん変わると、昔のことはトンと忘れられてしまいますからなあや」
 つい30年ほど前まで、川本さんの家の近くには農家が散在するばかりで、見渡す限り水田が広がり、南の果てに海がキラキラと波立つのが遠望でき、2キロほど東の国鉄の駅も、駅の北のお城も見えたといいます。そもそも、川本家の傍を走っている国道も昭和30年代に開通したのだと知って、わたくしはまた驚きました。
 「空襲を受けて街が焼けた後、当時の市長の英断によって道路が大幅に拡張されたというのは、ウソなんですか?」
 「中心街のことは分かりませんが、少なくともこの辺りを国道が通ったんは、ぼくの成人後に間違いありゃんせん。ですから、それまでは駅に出るんも、南に延びている道を遠回りするように通って駅前通りに出るか、近道がしたけりゃ、畦道を行くしかありゃんせなんだ」
 要するに、昭和30年代に海岸線を埋め立てて造成した臨海工業地帯が出来上がってから、全てが急激な変貌を遂げていたのです。
 「過疎化よりはいいでしょうけどね」とわたくしの口調はいささか微妙でした。
 「じゃが、昔の川口の良さは失われてしまいましたなあや。昔はみんなもっとのんびりとしとったけれど、今は気ぜわしくてかないませんが」
 「交通マナーも悪いし、事件も多いですしね」
 「この辺りでも、地の人間は1割もおりゃんせん」
 「地方も都市化してきた証拠でしょう」
 「ぼくの息子にしろ、将来、帰ってくれるかどうか、分からんですしなあ」
 川本さんの長男は東京、次男は大阪のサラリーマンで、しかも長男の奥さんは東京の人でした。奥さんの実家の近くに住んでいるからには、たとえ長男が定年退職した後であれ、もう帰郷することはなかろうと、口にはしませんでしたが、わたくしはそう判断せざるを得ませんでした。というのも、逆に娘さんしかいない門徒のお宅では、嫁ぎ先の姓のまま夫婦ともども娘さんの実家の近くに居を構えている、いわば名を捨てて実を取っているケースがあちこちで見受けられたからです。
 報恩講参りに川本さんのお宅を訪れてすぐまた、今度は川本さんの母親の7回忌の法事に訪れることになりました。つい1週間前に来た時には車の窓ガラス越しに射し込む日の光が頬に痛く感じられるほど暑かったのが、たった1週間でたちまち涼しくなって、大きな黒石を組んで作った庭の空堀の回りの植木にも秋の気配が宿り、モミジが真っ赤に色付いていました。
 「これは奥山の石なんですか?」と、深く苔生してくるので珍重される、それだけ高価な奥山の黒石にしてはちょっと黒が浅いと感じながらも、わたくしは尋ねました。
 「いや、もう少し近くで採れた石です」と川本さんは言いました。「奥山石をこれだけ大量に使うとなると、莫大な金が要りますからなあ」
 「もう採れなくなったらしいですしね」
 「そうですなあ」と川本さんは頷きました。「この家を建てた25年前でも、奥山石にするんだったら、もう1軒、家が建つほどでしたからなあや」
 お茶の接待を受けてから、仏壇の周りに集った20人近い親類縁者を後ろにして、わたくしは阿弥陀経を唱え、御文章の拝読、法話の後、今度は抹茶の接待を受けていた時、
 「これが息子です」と川本さんに隣の男性を紹介されました。30才前後の方に思われたのが、実際はもう40才を過ぎていて、高校生の息子もいると言われ、次々と新たな世代が育っているを、わたくしは改めて実感しました。
 それから車に乗り合わせて出かけて、郊外の丘の麓で車を降りて、息を切らせながら角度の急な広い階段を登り切ると、まだ畑の残る丘の上に墓地が広がり、雑草が生い茂った無縁墓もあちこちに散見される一角に、川本家の墓がありました。そこからの眺望は実に素晴らしく、西の山並みに沿って千田川の川面が銀色に光るのがわずかに見えるものの、後は遠く瀬戸内海まで一面に渡って、どこにでもある現代都市の光景が広がっています。すぐ間近をいささか色褪せた新幹線の高架が貫き、JR駅の周囲には次々と新しく高層ビルが建ち並んでいて、その北一帯に残る緑の丘の上に、ミニアチュアのようなお城の天守閣が覗いていました。
 「田畑はまるでありませんねえ」とわたくしが言うと、
 「実際はいくらか残っているんですが、ここからだと見えませんなあや」と川本さんが言いました。
 「それもすぐなくなるでしょう」
 「そうでしょうなあ」
 穴浦町だとそのあと家に帰ってお膳の食事となることがまだ多いのですけれど、川口市の法事ではむしろ料亭かホテルに行くのが普通です。戦前までは当家で精進料理を用意していたために数々の大皿、小皿や椀などが必要でしたが、戦後になると仕出し屋がお膳を運んでくるようになり、今やホテルや料亭が扱っていたのです。都会の葬儀の大半は専門の葬儀会場で行われることを合わせ考えれば、仏事の現場にもまた、資本の論理が浸透しつつあることは確かでした。
 川本家の人々もホテルの地下の料亭で食事をし、その後、穴浦町にある浄玄寺にお礼参りにやって来ました。本堂でのお勤めの後、たまたま東京の大学を出ていたわたくしの妻と、川本さんの長男の奥さんと話が合い、
 「この間、実家のお婆ちゃんが亡くなった時には、家で葬儀をしましたのよ」と奥さんは言いました。
 「会館の方が気楽だったでしょうにね」と妻が率直な感想を述べると、奥さんは黙ってしまいました。そこでわたくしは、
 「東京でもまだ家でやることがあるんですか?」と話の接ぎ穂を探しました。
 「ええ、時と場合によりますが……」
 「宗派はどちらですか?」
 「こちらと同じです」
 「じゃあ、奥さんにそれほど違和感はないわけですね」
 「それが……」と奥さんは声を低くしましたが、手足の長い、体格のいいタイプでしたから、その声は朗々と本堂に響きました。「いろいろと勝手が違いますから、戸惑うことも少なくありません」
 「確かご実家の近くにお住まいでしたよね?」とわたくしはさりげなく話題を変えました。
 「はい」
 「一人娘さんなんですか?」
 「いえ、姉がいます」
 「でも、もう東京を離れられないでしょうねえ」
 「いえいえ!」と奥さんは手を振って否定しました。「今は夫の仕事の関係で東京にいますが、いずれは川口に帰ってくるつもりです。それが結婚の条件でしたし、わたしも両親の面倒を見るべきだと常々考えているんです。それに、田舎暮らしへの憧れもありますし」
 「はあはあ」と応じていたわたくしは、それ以上どう言えばいいのか分かりませんでした。ただ、人間は杓子定規に物事を考えているわけでもないのが改めて分かって、嬉しい気がしたのは事実です。
 妻が菓子器に盛って回したお菓子を食べ、お茶を飲んだ後、川本さんを初め、親類縁者の人々は静かに坐ったまま、本堂正面の本尊を仰いでいました。従って、わたくしたちが長男の奥さんと言葉を交わしていた間、必然的に一方の耳はしっかりとこちらを向いていました。