火の国
 
 「気分はどう?」と江木夫人が問いました。
 「悪い」と江木氏が言いました。
 そこで、夫人は円い舷窓に手をかけ、3カ所堅く固定されたレバーを力任せに回して厚い窓ガラスを外に押し出すと、冷たい風が頬を叩いて流れ込み、靄のかかった海がドッドッドッと荒れて白波を巻き上げていました。
 「どう?」と夫人が振り返ると、
 「悪い」と、揺れる壁を眺めながら、江木氏はやはりベッドの上で荒れる海に身を委ねていました。
 「もうすぐ港に着くよ」
 「どこに着こうが、同じだけどさ」
 しかし、海上に濃く立ちこめた靄の上方が徐々に明るんでいき、東の空から黄金色の光の筋が幾つも射し込んで、ボーと汽笛が鳴って、ようやく凪いできた海面に青みを帯びた陸の影が浮かび上がりました。
 「きれいね」と夫人が言うと、
 「寒いや」と江木氏は両肩を縮めました。「閉めてくれないか」
 「はい、はい」とことさら従順に応じた夫人は、窓を閉め、壁に掛かった鏡を覗き込みながら、黒く細く眉を描き、丸くすぼめた唇に紅を引きました。そして、船室を出て自動販売機で缶コーヒーを2つ買ってきました。
 「おれは要らない」と江木氏が言うと、
 「そう」と生返事をして、アルミの蓋をひねって開けて、夫人は一息に飲み干しました。「また私が運転しなくちゃならないんだから、頭をスッキリさせなくちゃね」
 「おれがしてもいいよ」
 「今回は私がするわ。だって、まだ死にたくないもの」
 江木氏はただフンと鼻で笑いました。
 フェリーボートが港に近付くにつれて、乗客たちは改めてその巨大さを知り、江木夫妻も他の客のように、広く暗い車両甲板の車の中で、前方の鉄の扉が開いて明るい朝の光があふれ込むのを待ちました。鉄鎖に支えられた重い扉がギリギリと鳴りながら埠頭の方角に降りて、ガタンと着地すると、その上を渡って乗用車やトラックが1台ずつ上陸していきました。そして江木夫妻は、白い湯煙の立ち昇っている、屏風のような山々の麓に横たわった温泉街を目にしました。
 「早朝って、どこの街も静かなものね」と夫人が言いました。
 「目がチカチカするよ」と江木氏が言いました。
 「昨夜、眠れた?」
 「全然」
 「せめて3時間でも眠れると、違うのにね」
 「きみはその倍は寝てたな」
 ハハハと笑った夫人は、アクセルを踏み、巨大なフェニックスが刀剣のように鋭い葉を広げている海岸線の道路を疾走しました。そして、原色の看板の溢れた繁華街をキョロキョロとして、素敵な喫茶店を探しました。
 「まだ店は開いてないよ」
 「そうね」と諦めた夫人は、ハンドルを回して海岸線まで戻り、先ほど通過した無料駐車場に入って、車を降り、潮風にいたぶられて幹や枝々のねじれた松林の向こうに見えている浜辺まで歩きました。そして、夫人が大きく両手を伸ばすと、小柄ながらまだ形の整った豊かな胸や腰が眩しくて、江木氏の疲れた目には見知らぬ女のようにも映りました。
 「おまえはまだ44だよな」 
 「あなただって、まだ50なのよ」
 「もう50だよ」
 「何言ってるよ」と夫人は笑いました。「子供からも解放されて、これからやっと2人だけの自由な人生が送れるんじゃない」
 「自由な人生か」と、砂浜の中を行く遊歩道沿いのセメント作りのベンチに、江木氏は腰を落としました。「おれも自由が欲しいよ」
 「自由だわよ」と夫人が言いました。
 江木氏は何にも言いません。黙って、青い海と白い波を眺めました。
 「同僚に冷たくされたくらい何よ」とまた夫人が言いました。「そんなこと、私にとっては日常茶飯事なのよ。喋っても意味ないから、喋らなかっただけなんだから」
 「おれだって何にも喋ってないぜ」
 「喋っているようなものよ」
 「どうして」
 「だって、そんなに毎日憂鬱な顔をされたんじゃ、一緒に暮らす者がたまったものじゃない」
 普段の江木氏ならば、結局、口では負けることが分かっていても、そこで反撃を試みたはずでした。しかし、肩を落とすばかりでしたから、夫人の言葉も優しくならざるを得ません。
 「辞めたければ辞めてもいいよ。私が養ってあげるから」
 しかし、江木氏が手を伸ばしてくると、夫人はその手の甲をピシャリと叩いて、苦笑しました。
 「人が見てるじゃない」
 江木氏はすぐ諦め、また海を眺めました。
 「今晩、楽しみましょうよ」
 「おれはもう50だからなあ」
 「まだ50だってことが、いま証明されたばかりじゃない」と夫人は笑いましたが、江木氏は笑いませんでした。夫人が立ち上がると氏も重い腰を上げ、夫人の車に乗って、先ほど2人ともども気に入った喫茶店に向かいました。
 トーストとサラダとコーヒーとの、お決まりのモーニングサービスを終えて、
 「すぐ山を越えようか?.それともここで一風呂、浴びる?」と夫人が問いました。
 「ここに来たんじゃなかったのか?」と江木氏が驚くと、
 「山の中にもっといい湯の町があるのよ」と夫人が言いました。
 「ほう」と素っ気なく答えた江木氏は、どちらでもいいと言いました。
 そこで夫人はまた車のハンドルを握り、地底のマグマが盛り上がって凝固したような重厚な山々に通ずる急勾配の道路を走り、山の中に入って、つづら折の坂道を登り続けました。10月が来ているにもかかわらず、山はまだ青く、振り返って眺めると、谷の合間に温泉街の屋根々々が密集し、チラチラと波立つ海が大空に溶け込んでいました。
 「女はいいなあ」と助手席を45度近く倒して上体を預けたままの江木氏が言いました。「仕事に出るのも、家庭に引っ込むのも自由だし、出世を期待されていないから、気楽だしね。能力があれば、男を顎で使うことも出来るしさ」
 「1000年間、耐えてきたんだから、それくらいの見返りがなくちゃね」
 「耐えてきたのは、きみじゃないさ」
 「でも、私も女であることに変わりないでしょう」
 「うん」と、もう会話が億劫になった江木氏は、生返事をしました。
 夫人は44才という若さでこの春、小学校の教頭になり、50才までに校長になるだろうと確実視されていたのです。そして、50才までに県の課長になることが確実視されていた江木氏は、この春、
 ──いったい何のつもりでこんな報告書を提出したんだね、と上司に詰問されたのでした。
 ──県政の透明化のためです。
 ──きみ1人の判断かね?.それとも、誰か後ろ盾がいるのかね?.と上司は疑わしげな目で問い質しました。
 ──私1人の判断です。
 ──いったいきみはいつまで青臭い尻をしてるんだ!.今まできみを引き立ててきたぼくの面目が丸つぶれじゃないか!.と上司は途端に居丈高に怒り出し、その激しさに江木氏は茫然としました。
 それから氏を見る周囲の視線が一変し、その冷ややかさに耐えられなくなった氏は、休職を余儀なくされていたのです。ちょうど、固く噛み合って回転している大きな歯車に転がり込んだ1粒の砂のように、氏はグシャリと押しつぶされた気分でした。
 「さっきも言ったでしょう」と、ハンドルを握って精悍な眼差しで前方を見つめながら、江木夫人が言いました。「私が養ってあげるから、イヤなら辞めればいいのよ」
 江木氏は黙っていました。
 「だけど、それで解決するかしら?」
 「分からない」
 「かえってまずい結果にならない?」
 「かも知れない」
 「シッカリしてよ。あなたの人生なのよ。まさか、あなたのようなタイプの人間が登校拒否になるとは思わなかった」
 江木氏は黙って、落葉樹の森が絶え、茶枯れた山肌にススキの白い穂が揺れている遠景を眺めました。すでに紅葉の始まった急峻な山々に抱かれて、収穫期を迎えた黄色い盆地が低く遠く望まれ、線路と道路が交錯する辺りに1つの町が静かに広がっていました。
 「あそこよ」と夫人が言いました。「素敵なところでしょう」
 「山に囲まれてて、閉塞感がありゃしないか?」と江木氏はイヤな顔をしました。「おれは海が見える方がいいや」
 「じゃ、引き返そうか?」
 「どちらでも」
 むろん、夫人に引き返す気など毛頭なく、それは江木氏も承知の上でした。急カーブを描いて下っている坂道を見る見る駆け下りて、まもなく傾斜面に畑が見え隠れしたり、石垣を築いた民家が点在したりする町はずれに着いて、踏切を渡って、孟宗竹の林をくぐり抜けると、店屋や宿屋の看板があちこちに掛かっていました。
 町の中心に近付くにつれて、瀟洒な構えの店が次々と視野に入り込み、四角い塔のような明かり取りのある黒い駅の旅行案内所に行って、江木夫人は予約していたホテルの位置を確認しました。そして、ホテルに行って、まだチェックインが出来ないと知ると、フロントに荷物を預け、江木氏を連れて、町を散策しました。地元の民芸店や西洋伝来のガラス工芸店や特製パン店などを1軒々々、夫人がまるで専門家のような面持ちで見て歩いている間、江木氏は道角のベンチに腰を落とし、半ば口を開けて、猛々しく居並んだ峰々の彼方の青い広い空を仰ぐのでした。