スカイブルー・ホテル
 
 10月の都会の空にメタリックな輝きを放つスカイブルー・ホテルをめざして、1台の車がやって来ました。ところが、その周囲に広がる駐車場の上にもう1つ、鉄柱で支えた広い駐車場が出来ていて、車から降りた田上氏は戸惑いました。日の光の射さない1階は、隙間なく並ぶ車を隔てて歩く後ろ姿を、あれは確か笹山さんだと思っても、不安を拭い切れません。その代わり、駐車場の一部を空けて、切妻屋根の上に十字架があるから教会に見える、なければ単なるレストランとしか思われない安普請の教会が建っていました。それはきっと披露宴会場を受け持つホテルが、結婚式場も兼ね備えようと急拵えした建物に違いありません。薔薇の生垣に囲われ、入口の前に広がる芝生に白塗りのテーブルと椅子が幾組みも午後の光に晒されています。そして、紅茶かコーヒーを楽しむ客の姿が、蔦模様の格子窓の中に覗いているのでした。
 ホテルのロビーに入って、入口の脇にあった案内板で2階の『松の間』だと確認した田上氏は、エレベーターをやめ、赤毛氈の敷かれた幅の広い階段に向かいました。すると、階段に付属した上り専用のエスカレーターでちょうど笹山氏が2階に辿り着いたところで、それを追うように田上氏もエスカレーターで2階に上がりました。照明の光の淡く注いでいる、広々と延びた廊下に沿ってソファが並び、見覚えのある顔が幾つも蠢いていました。タバコを吹かしたり談笑したりしながら、今の仕事仲間のA氏もB氏もC氏も、みんな出て来ていたのです。年上のA氏に会釈してソファに腰かけ、
 「お久しぶりです」と田上氏が声をかけると、振り返った笹山氏は、
 「おお!」と声を上げました。
 「転勤されたそうですね」
 「うん」
 「失礼ですが、あと何年あるんですか?」
 「3年なんだ」
 「そうですか」と田上氏は応じたものの、いささか意外な気がしました。「小林さんがあと1年だというのに飛ばされたと以前の同僚から聞いた時、笹山さんも動かされたと知って、驚いたんです」
 「もう無茶苦茶な話だよ」
 「結局、1つの職場に何年おられたことになるんです?」
 「25年だ」とソファにドンと腰を下ろした笹山氏は、タバコに火を点けました。「気に入らなければ辞めろと言わんばかりのやり方なんだ」
 「厳しいですね」
 「厳しいよ」
 スーツを身に着けている人が多く、
 「まずかったかなあ」と、ブレザーの田上氏は余り気にする風もなく言いました。
 すると、スーツのK氏が、
 「一応、仕事ですから」と笑顔で言いました。
 しかし、配置換えさせられたばかりの笹山氏はもちろんのこと、A氏もB氏もC氏もざっくばらんな服装でした。
 シャンデリアの光の散る、間仕切りを取り払えば大宴会場にもなるであろうホテルの一室でやるからには、まさかショートケーキとコーヒーくらい出ないはずはあるまいと、それを唯一の楽しみしていた田上氏の期待は見事に裏切られてしまいました。クリーニングの糊のやけに利いた白いテーブルクロスが掛かった、そして大きく方形に並んだテーブルに関係者が着席した後、初めにお茶が出ただけだったのです。
 「今日は」とお茶を湯飲みに注いだ恰幅のいいウエイターが、田上氏の耳元でささやきました。
 顔を上げた田上氏は、
 「おお、近藤くんか!」と驚きました。「こんなところで働いてたのか。元気?」
 「おかげさまで」
 「もう結婚したの?」
 「こんな安月給じゃ、誰も来てくれませんよ」
 「今いくつ?」
 「ちょうど30です」
 「じゃ、まだ大丈夫だな」と微笑する田上氏に同じような微笑を返して、ウエイターは次々とお茶を注いで回りました。
 シンとした沈黙の続く会場に、数人の中央委員と共に、業界内ではその辣腕で名を馳せている調停委員長が現われ、正面席に着くと、今回の担当のK氏が、第5回調停委員会の開催を宣言しました。予め打ち合わせていたらしい人が議長に選ばれ、出席者の紹介が始まってみると、欠席したのはたったの1人です。
 なるほど!.と田上氏は鼻で笑いました。陰口は叩いても、正面切って意思表示する勇気は誰もないんだ!
 今まで何度も行われてきた経過報告の読み合わせを、もう何度も読んできて舌の動きも滑らかなK氏が行いました。その間、田上氏は会議の度に配られている、少し手直ししてまた配られた書類をボンヤリと繰っていきました。そして、それが終わると1時間ほどが経過し、あと1時間か!.と思わず軽い溜め息を漏らすのでした。
 「何か疑問なり質問なりございますでしょうか?」と司会者が問い、何もなかろうと田上氏は高を括っていたにもかかわらず、ポツンポツンと意見が出始め、いったん出ると結構活発なやり取りが交わされました。
 それを胸を反らして聞いていた、問題提起者のW氏が、
 「表向きはそれぞれの顧客を尊重しようという紳士協定を結んでおきながら、陰で顧客争いに走っているから、こういうことが起きるんだ」と、いったん口を開くと、どうしても持ち前の太い声がマイクを通して部屋いっぱいに響き渡ってしまいます。「わしがルールを守っても、他の誰も守らなければ、結局、馬鹿を見るのはわしだけだ。しかも業界の外には洩らせない話だから、ストレスが溜まるよ。1度や2度なら、わしも見て見ぬ振りをしただろうが、何十年にも渡って何十回も繰り返されるとなると、これはもう死活問題だ。親父の跡を継いで40年間、誠心誠意付き合ってきた客をヒョイと横から奪われた悔しさ、寂しさ、それはとうてい筆舌に尽くしがたいものがあるんだよ。少なくとも息子にはもうこんなゴタゴタで苦労させたくないから、今回、あえて提起したんだ」
 そしてジロリと一同を眺め回して、
 「この中にも客を取って平気な者がおる。調停委員会と言っても、裏を返せば弱肉強食の世界の住人だからな」と釘を差した後、W氏は腕組みをしてもう2度と口を開かないと言わんばかりの表情です。
 田上氏の隣のC氏は、W氏のもたらした重苦しい沈黙を破るように手を挙げ、マイクを受け取って、
 「それには行き違いというものもありますよ」と喋り出しました。ところがマイクが入ってなくて、本人の熱弁にも関わらず迫力に欠け、「マイク、マイク!」と司会者が差し示すのに気づいたC氏は、トントンとマイクを叩いてみました。そして、
 「これは利いてないよ」とテーブルに置きました。その知らせを受けたホテルのウエイターが慌ててコードを回して引っ張ってきたマイクを手にすると、C氏は声帯のつぶれたようなだみ声で、
 「もうかつてのようにえげつない競争はなくなっているはずですよ。ただ、いくら仕事上の信義を云々しても、互いに生身の人間ですから、合う合わないが出来るのは、どうにも仕方がないことでしょう」と語りました。
 そのC氏を実にイヤな顔でにらんだまま、W氏は何にも発言しません。しかし、その隣に坐っていた人物が、かつて1000軒あった得意先が今では50軒しかない、残りの950軒はどうなったのか、と新たな問題を提起したものですから、会議は紛糾してしまいました。
 今はその時ではないと言う者、この時に出さなければいつ出すのかと言う者、予め提起されていたのかと問う者、それではつぶされてしまうと応ずる者等々、もう口々に語りはじめて収拾が付きません。
 半ばウトウトしていた委員長がマイクを手にし、
 「もう少しみんな静かにしてもらえんですかな」と重い口を開くと、その場の混乱は潮が引くように収まり、再びシンとした、しかしどこか束縛感もある元の雰囲気に戻りました。「今日が5回目だということだから、私も出席してみたが、残念ながら、5回やった成果がまるで感じられませんなあ。まだ機が熟しておらんようです。議論の方向が1つにまとまっていない中で、最終的な裁断を仰ぎたいと言われても、私らとしては判断の下しようがない。まず皆さんでよく検討された上で、その結論を私らの方に提出してもらいたいものですな」
 これはいつまで経っても終わらないに違いない、と田上氏は確信しました。そもそも、自由競争の時代にカルテルめいたものを存続させようというのが、倒錯的な感覚だ。だから表沙汰に出来ないし、もし出たとなると、マスコミの餌食になってしまう。総会屋にも似た調停委員会が唯一の指導機関だろうが、それもどこまで機能しているのやら分からないし……。
 2時間以上話し合って、結局、何ら結論を得ることなく、調停委員長及び中央委員たちが退出していくと、つねづね会議そのものに批判的な言辞を弄しているB氏が鉄砲玉のように真っ先に外に飛び出しました。
 「わしの本音はすでにAさんにいろいろと打ち明けとる。世話役のAさんが今後どう取りまとめてくれるか、期待して見守っているところだ」と、W氏から絶大なる信頼を表明されたA氏も、B氏にすぐ続いて、こちらはまるで空中遊泳でもするように小太りした体を左右にフワリフワリと運びながら、痙攣気味の顔つきで帰っていきました。
 その後を追って田上氏も廊下に出、赤い広い階段を下りていると、すぐ背後から熱い人いきれがかかってきます。
 「おい!」と呼ばれて振り返ると、C氏でした。「客を奪われた側ばかりでなく、奪った側の気持ちも調査報告しろとWのやつが息巻いてたよな。気持ちの問題か?.気持ちなど言い出したら、商売など出来ん!」
 「今日は家に子供しかいないんですよ」と田上氏は独り言のようにつぶやきました。「早く帰ってやらないと、まずいんだなあ」
 「勘弁してくれよ!.おれは知らんぞ!」とC氏は吐き捨て、田上氏を追い越して駐車場の中に消えていきました。
 既にイルミネーションが都会のあちこちに鮮やかに瞬き、スカイブルー・ホテルの巨大な塊が、振り仰いだ夜を塞いで黒く聳えています。そして、教会風のレストランの窓から明るい光がこぼれ出、夕食を楽しむ人影が、蔦模様の格子窓の中に静かに映るのでした。