盆栽人生
 
 岩村家の塀囲いは鬱蒼と樹木が茂り、庭は一面、踏み石を残して松やらヒバやらケヤキやら、実に様々の盆栽で埋め尽くされ、玄関に入ると、高い棚の鉢に植わった台湾荻という、笹に似た草が葉を垂らしています。南向きの広縁にも、スミレやスズランやサギソウ等々、可憐な花を付けた風情が自ずと連想される野草の鉢が、いっぱい並んでいるのです。
 法蔵寺の住職が夏と秋にお参りに行くと、いつも夫人が応対してくれたのですけれど、この秋の報恩講参りに行くと、定年退職したという主人が、下駄のような長い顔に歯並びのいい口を開けて、ニコニコしながら現われました。そして読経後、住職が改めて盆栽の多さに驚くと、
 「酒も女も賭け事もやらんぼくの、たった1つの道楽なんですわ」と主人は至極満足の体でした。「幸い会社が近くだったもんで、時期が来るとちょくちょく剪定に帰って来とりました。それが可能だったというんも、古き良き時代だったからでしょうなあ」
 「いったい幾つあるんですか?」
 「サア、数えたことはありゃんせんが、今でもまだ400は下らんでしょう。昔は500以上ありましたが、だいぶ人に譲りましたしなあ」
 「凄いですね」
 「ままならん人生だから、せめて盆栽なりと勝手気ままに作りたかったんですらあな」
 「植えられた木にとっては、窮屈かも知れませんけどね」と言った後、余計な物言いだったかも知れないと住職は少し後悔しましたけれど、
 「なあに、十分な栄養をかけてもろうて、暑さ寒さにも気を使ってもらうわけじゃから、いい身分ですが」と主人は一向に気にしていません。「ぼくも、できれば上げ膳据え膳の生活を送りたかったですなあや」
 それも寂しい生き方だったかも知れませんよ、と心の中でつぶやいた住職は、しかし今度は口にしませんでした。
 法蔵寺の住職が帰った後、台所でゴソゴソと音のするのを聞きつけた主人は、
 「オイ!」と血相を変えて駆け付けました。「どうして出て来なんだ?」
 流しの中のコップや皿を洗いながら、
 「お2人で楽しげにお話されてたじゃありませんか」と、大福餅のように頬の白い、とっぷりと太った夫人が言いました。「私が途中から出るんも、妙でしょう」
 「坊主の相手はおまえの仕事に決まっとろうが!」と主人は白目を光らせ、ギラギラと歯をむき出して怒りました。「1日中家にいて、それくらいのことも出来んのか!」
 「さっきはたまたま買い物に出かけて留守をしてたんですよ」と夫人はあくまで悠長に構えています。
 「坊主がいつ来るか、前もって連絡があったろうが!」
 「あなたがいらっしゃるからよかろうと思うたんです」
 「それが怠慢というもんじゃろうが!」
 「はい、はい」と夫人がふてくされた返事をすると、
 「もっと気を利かせえ!」と捨て台詞を残して、主人はバタン!.と乱暴に台所の戸を閉めました。
 まさかそれが夫人の家出のキッカケになったわけでもなかったのでしょうが、翌日、主人が田んぼに出て、黄色く実った稲穂を見回って帰宅しても、いつもは抹茶と和菓子を出してくれるはずの夫人が、いくら呼んでも出て来ません。買い物かな?.と不審に思い、昨日、1週間分の食料品を買いに行ったのだと夫人が釈明したのを思い出して、またノコノコと出かけるはずはなかろうと考えながらも、その場合を予想してむやみに腹が立ちました。2階に上がっても裏庭に出ても見つからず、
 「茶会の日だったかしら?」とカレンダーを繰ってみても、そんな予定も見当たりません。ふと茶の間の座卓に目を落とすと、便箋が1枚、文鎮の下に置かれていました。
 『長い間、お世話になりました。私はこれから自分の人生を送りたいと思いますので、捜さないでください。綾子』
 それは確かに夫人の字体に違いありませんでしたけれど、それがいったい何を意味するものか、思考回路のこんがらがった主人にはトンと理解できません。30年以上一緒に暮らした人間が突如、出て行くか?.まさか子供じゃあるまいに、どうやって暮らしていくつもりだ?
 ハッと思い当たった主人が箪笥の奥に仕舞い込んでいた預金通帳を探すと、はたして夫人名義のものが1つもありません。合わせて2000万円はあるはずの貯金を携えて、夫人は出奔していたのです。
 これは本気かも知れないという不安に襲われた主人は、それでもどう対処していいか皆目分からず、夜になって帰宅して来た息子に書き置きを見せました。そして、「どう思う?」と、まるでイタズラを見つけられた子供のような自信のない表情で尋ねると、
 「分からんなあ」と息子も困惑するばかりです。「これ、ホントに家出するって意味なの?」
 「違うとるか?」
 「そうとしか読めんよね」
 「じゃろうが!」
 しかし、いくらアレコレと思案を重ねても、2人には夫人の心持ちも行き先もまるで見当がつきません。それにひょっとしたら何かの行き違いかも知れないという淡い期待もあったのですけれど、2日経ち3日経ち、1週間が過ぎても何ら音沙汰がないとなると、もう手をこまねいて待っているわけにも行かなくなりました。
 「警察に捜索願を出そうか?」と息子が思い切って口にすると、
 「ムムッ」と口を真一文字に結んだ主人は、顔を伏せて腕組みしました。「……こりゃあ、わが家だけの問題じゃあ済むまあ。本家にも相談せんといけん」
 岩村家の西隣に更に宏壮な本家の邸宅があり、玄関脇に太い幹を伸ばしたブナの木は、近隣のちょっとした目印にもなっているほどでした。休日に主人と息子とが訪れると、もう小学校長を退いて5年になる、頬の半ばまで伸ばした口髭が目立つ代わりに、頭が丸く禿げ上がっている本家の主人と、これまた頭の毛が薄くなりかかった、目鼻立ちの造作の大きな夫人とが出て来て、まるで狐につままれたみたいな分家の夫人の失踪談に耳を傾けました。
 「もう2週間になるんか?」と本家の主人に聞かれ、
 「いや、まだ10日ですらあ」と岩村の主人は平身低頭の体でした。「本当にご迷惑をかきゃんす」
 「何も心当たりはないんか?」
 「それがもうさっぱり……」
 「警察に届ける他なかろうなあ」
 「はあ……」と岩村の主人は、まるで自分が罪を犯したかのようにシュンとなりました。「もうぼくの手には負えんのですわ」
 「わしらの手にゃもっと負えんが!」と本家の主人が豪快に笑うと、
 「そう言や、分家の奥さんは何とかいう団体に入っておられましたが!」と本家の夫人が大きな目を更に大きくして太いだみ声を発しました。「ほら、あんた、いつかうちにも加入を勧めに来ちゃったじゃないですか」
 「そうじゃったか?」と本家の主人は長い口髭の先をつまみながら記憶の箱をひっくり返してみましたが、一向に見つかりません。「そりゃ、いつ頃のことなんじゃ?」
 「もう2〜3年になりゃんすかなあ」
 「そうかのうや」
 いずれにせよ、それは1つの手がかりには違いありません。そのことも言い添えて警察に捜索願を出したところ、どこから聞き付けたのか、ものの3日もしないうちに近所の人々が、実は自分も夫人から**協会へ入るように勧誘されたことがあると、次々と岩村家に訴えて来るのでした。もっとも、断わるとそれですぐ沙汰止みなったものですから、誰もそこまで夫人が傾倒していたとは思いも及ばなかったのです。
 「おいおい」と主人はまた新たな怒りが込み上げて来ました。「おれが一生懸命働いとった間に、そんな勝手な真似をしとったんか。岩村家には何の貢献もせんといて、世間に恥ばかり曝しおって!.時が時なら追い出されても仕方のない奴じゃがな」
 ところがまもなく、実際に夫人から離婚届の用紙が送り届けられると、主人は仰天しました。
 「本気かのうや?」と自信なさげに息子の顔色を窺うと、
 「本気なんじゃろ」と息子は苦虫を噛み潰したような表情です。「おれはいったいどうすりゃいいんだ?」
 この春、地元企業に再就職して帰省していた息子は、街で恋愛関係を結んだ女と結婚する手筈を整えている最中だったのです。しかし、ここまで家庭の中が紛糾して来ると、事の次第を女に打ち明けざるを得ません。それがその女の心持ちにどう影響するか、息子は不安でたまらなかったのですけれど、
 「私、お母さんと結婚するわけじゃないもの」と女はあっさりとしたものでした。「そのために修ちゃんが落ち込まなければ、それでいいじゃん」
 「すまん」と息子は平謝りしました。「あんな親、親でも何でもないや」
 「お母さん、離婚したいって言って来たんでしょ?.どうするの?」
 「勝手にすればいいんだ!」
 しかし、主人の方はそこまで思い切れませんでした。H市にある**協会の本部に夫人がいると警察から報告を受けて、恐る恐る面会を求めに行くと、意外と簡単に会うことが出来ました。さぞ面変わりしただろうと思っていた夫人は、以前通りのゆったりとした風情でした。しかし、太った体に似つかわしく着こなしていた小紋の着物を薄汚れたままずっと使って来たにちがいない様子を見ると、さすがの主人も哀れを感じました。
 60才になる夫人は協会内の家政婦といった役回りしか与えられてなく、2000万円近い大金を寄付した後はもう1つのお荷物にすぎなかったのです。
 「帰ろうや」と、怒鳴ったつもりの主人の声は、その意に反して優しく、どこかオドオドとしていました。
 そしてそれを予期していた如くに、夫人は鷹揚に頷くのでした。