当世女子学生気質
 
 緩やかにカーブを描いて下っていく歩道を自転車で駆け降りながら、遅くなっちゃった、とA子は焦りました。せっかく誕生祝いをしてくれるのに、私が遅れちゃ、これでまた見捨てられるかも知れない…。
 大学近くの広い十字路を渡ってまもなく、『万国料理店PAKO』とイルミネーションの明滅する看板の掛かった4階建ての店に着き、駐車場の脇に既に何台も置いてある自転車の隣に自転車を置いて、A子は店内に駆け込みました。すると、衝立風の仕切りで隔てられた奥からB子が手を振り、
 「こっちよ、こっち!」と叫びました。
 「遅れて、ごめん」とA子が息を切らせながら謝ると、
 「5分くらい、遅れたうちには入らないわよ」とB子は全く気にならない風でした。
 テーブルを囲んでB子の他に、C子、D子、E子、F子、G子と6人ものクラスメイトが集まってくれていて、2〜3人だろうと予想していたA子は、それだけでもう感激でした。それだけに辛かったのですが、黙っているのはかえって申し訳なくて、
 「私、最近おなかの調子が悪いから、きっと殆ど食べられないと思うの」とA子は思い切って正直に告白しました。「ホントにごめんね」
 一瞬、シラッとした空気が流れましたけれど、
 「口数が1つ減ったことは、好都合じゃん」とB子が陽気に取りなしました。「1人分よけいに豪華な食材にありつけるわけだから、ますますAちゃんに感謝しなくちゃね」
 会費は?.とA子が尋ねても、主賓に出させるわけには行かない、体調が悪いのならなおさらだよ、と幹事のB子は受け取ろうとしません。そして、
 「最初はみんなビールでいいわよね?」と確かめるのでした。「日本酒でもワインでも何でもあるらしいけど、まずビールで始めるのが、この会のルールだから」
 「そんなルールがあった?」と誰か尋ね、
 「今、私が作ったのよ」とB子が答えると、たちまちその場の雰囲気が和みました。それでも、
 「私、ウーロン茶がいいんだけど…」とE子が手を挙げると、
 「Eちゃん、奈良漬けを嗅いで酔っ払う?」とB子が聞きました。
 「奈良漬けは大好き。だって奈良県出身なのよ」
 「じゃ、ビールの1杯や2杯、飲めないはずないじゃん」
 そんなやり取りに接した後で、「私もウーロン茶」とA子が申し出るわけには行きません。グラスに受けて飲む格好だけすればいいんだと思い直して、B子が差し出すビール瓶の口からトクトクと流れ出る黄色い液体が、右手に握ったグラスに白い泡を吹きながら満ちていくのを眺めました。
 「みんな、いい?」とB子はテーブルの女子学生たちを見回し、「Aちゃん、19才、おめでとう」とグラスを差し出しました。「中学以来、もう7年近いつき合いだけど、これからもよろしくね」
 6人のクラスメイトから口々に「おめでとう」と言われ、誰に言われたかすぐ分からなくなったA子は、声のした方角に笑顔を向けては、「ありがとう」を繰り返しました。
 1学期に行なったF子やG子に続いて、9月下旬にA子の誕生祝いをするつもりだとB子に告げられた時、気分や体調の余りの悪さに、A子は辞退しようかとも迷いました。それでもA子が承諾したのは、会場が『万国料理店PAKO』だったことが大きく影響していたのです。大学近くあるいちばん目立つレストランで、その前を通過するたびに、A子は強い関心を覚えていたからです。
 ビールを酌み交わしているとまず前菜が運ばれて来て、半切りのなすびを黒オリーブであしらって炒めた、アラビア風ホットサラダが大皿に盛られてテーブルの中央に置かれ、その周りの中皿には、キュウリやアスパラガスやパスタなどがいろんなドレッシングの瓶と共に並べられました。それを目にしただけで、キュンとおなかの鳴ったA子は、もう取り皿にそれぞれ1品ずつ取って賞味しなくてはいられませんでした。
 「大丈夫?.ムリしなくてもいいのよ」とB子が耳元でささやいても、
 「分かってる」と、A子はつぶらな目でホットサラダを見つめながら、なすびを2切れつまもうかどうか悩みました。そして、1切れだけで我慢しよう!.と決心するまでが大変でした。まだ先があるんだから、ここで満腹になったら、後できっと後悔するわ!
 実際、次の魚料理に、鯖のトマト煮と、平貝のフライと、イカとキノコのソテーとがそれぞれの大皿に並べて出された時、A子は自分の決心の正しさを喜びました。
 ビールやワインを飲み大皿の魚料理を口にしながら、女子学生たちは、自由放任主義の大学のはずなのに、何々教授は6回休むと登録を抹消するとか、何々教授は遅れて入って来てすぐまた出て行った学生を「こら、貴様、待て!」と追いかけたとか、前期試験が結構難しかったとか、情報交換に余念がありませんでした。
 1年くらい休学して留学したいと考えていたA子が、そう仄めかすと、高校時代に1年間、アメリカのハイスクールに留学した子もいれば、大学に合格したこの春に海外旅行した子もいたし、この夏休みに1ヶ月間、ヨーロッパを1人旅した子もいて、
 「みんな、凄いんだ」とA子は驚きました。
 「でも、日本が一番だよ」とヨーロッパを見て回ったというD子が、まるで人生の大先輩のような口調で諭すと、
 「聞いただけじゃつまらない。実際に自分の目で確かめなくちゃね」とF子が言いました。
 「そりゃそうだよね」とD子もすぐに同意しました。
 「Aちゃんはどこに行きたいの?」とG子に聞かれ、
 「とりあえずイギリスかな」とA子は答えました。「英語をマスターしたい気もあるし…」
 英語の話題から来年度にはもう決めなければならない専攻の話に移り、学部変更を考えている子の多いことに、A子は驚きました。もっとも、多くの1回生が1度は考え、結局、そのまま文学部に進むケースが大半らしいとD子が語ると、みんな、ホッとした表情になりました。
 魚の次の肉料理には焼き豚とフライドチキン、それに牛肉の辛煮が出され、インドネシア風だという、香辛料がふんだんに使われ野菜を混ぜ合わせた牛肉の辛煮が、殊にA子の食指を動かしました。そして取り皿にたっぷりと取り込むのを見ていたC子が、
 「Aちゃん、ホントにおなかが悪いの?」と尋ねました。
 「今日はいいみたい」とA子が他人事のように言うと、みんなドッと笑い、それがA子の胸にも心地よく響くのでした。
 フルーツかプリンかアイスクリームか、それぞれが選んだデザートを食べた後、通りに繰り出すと、既に夜が更け、十字路の向こうに黒く聳えた工学部の建物の窓がまだ幾つも光っていました。7人は自転車を押したり歩いたりして広い横断歩道を渡り、A子の下宿を目指してワイワイとお喋りしながら、ゆるやかな坂道を上って行きました。
 「布団が足りないのよ」とA子がささやくと、
 「まだそんなに寒くないよ」とB子はささやき返しました。「みんなが泊まるとは限らないしね」
 「そうか」
 「気にしない、気にしない」
 道端に地蔵堂や観音堂のある旧街道に入って、古い建物と新しい住宅の入り交じった、山に近い、静かで小さな四つ角にある3階建ての学生マンションの2階が、A子の部屋でした。ベッドや椅子に腰かけたりカーペットを敷いた床に坐ったりして車座になり、それぞれの吐息がかぎ分けられるほどに親密な空気に満たされるのでした。そして、F子が手に提げてきた紙箱を開けて、ショートケーキを披露すると、誰もが「ワオッ!」と子供のように喜びました。
 「まずAちゃんに選択権があるわよね」とB子に言われ、視力の弱いA子は顔を近付けて物色しましたが、一番いいなものを初めの人間が取るわけには行きません。本当は赤ワインで煮た洋梨を載せたタルト風のケーキが欲しかったのですけれど、イチゴとメロンを載せただけのショートケーキを選びました。
 「それでいいの?」と、中学以来、いろんな店を探して一緒に食べ歩いてきたB子が不審そうに尋ねました。
 「うん、おなかが悪いから」とA子は答えたものの、生クリームは消化に悪いと忠告されていたにも関わらず、ペロリと平らげてしまいました。
 E子とF子と近くの自動販売機まで缶ビールとウーロン茶を買い出しに行き、「焼酎が欲しい」とC子はコンビニエンス・ストアを探しに出かけて、まもなく焼酎入りのペットボトルを3つ携えて帰って来ました。
 「エッ、そんなに飲むの?」と、C子と同格の酒豪だと自他共に認めているD子が驚くと、
 「みんなで飲むんだから、少なくない?」とC子は平然としています。
 「けど、私は今日はビールがいいな。足らなかったら、すぐそこに買いに行けばいいんだし」とD子が言い、他の者もビールだけでいいと口を揃えると、
 「じゃあ、私が飲む他ないわよね」とC子はニヤッと表情を崩しました。
 布団の数をA子が心配したのは、全くの杞憂に終わりました。というのも、12時を回って1時が来ても、誰も寝る気配がなく、付き合いきれなくなったA子が先に、
 「ごめんね」と言いながら、ベッドの端で他の6人に背を向け横になったからです。
 その後も時々ドッと笑いが起こり、その度にA子は眠りの淵から呼び戻され、3時頃、今日はアルバイトがあるなどと言って、E子、F子、G子と次々に深夜の街を帰っていきました。
 もうグラスに注ぎ分けるのが面倒になったC子は、手にしたペットボトルの吸い口からじかに焼酎をあおり、フウッと大きく吐息しては、
 「私って、そもそも生きてる価値のない人間なのよね」などと語り出し、顔を伏せるのでした。「何をしても実感がないの。全てがガラス張りの向こうで動いてるって感じなんだ。子供の頃からそうだった。幾ら勉強できても、それがかえって惨めな気持ちを誘うだけだったのよね」
 「分かるわ」とD子が頷くと、
 「どう分かるのよ?」とC子は涙に濡れた顔を上げ、声を張り上げました。「いい加減なこと、言わないで!」
 「そういう時期なのよ」とD子はあくまで冷静です。「わたしにもあったもの」
 「フン!」とまた焼酎をあおったC子は、「Dちゃん、その年でもう偽善者ぶること、覚えたの?」とことさら嫌味たっぷりに言いました。
 B子と顔を見合わせたD子は、
 「もう寝ない?」とC子を誘うと、
 「私、帰る!」とC子は突如立ち上がりました。しかし、勢いよく立ったつもりでも、足元がふらつき、ヨロヨロッと倒れかかって壁に手を突き体を支えました。そしてドアにぶつかるようにして廊下に出ると、すぐそこが階段だったものですから、足を踏み外し、ドンといささか鈍い音を立てました。幸い単なる尻餅で、B子とD子に両側から抱きかかえられてまた部屋に戻ったC子は、坐り込んで両足を投げ出し、壁にもたれてグウグウといびきをかき出したのです。
 さすがに寝ていられなくなったA子が、
 「大丈夫なの?」と聞くと、
 「起こしてごめんね」とD子が言いました。「この子、酔うといつもこうなんだから」
 「何か病みがあるのかしら?」
 「何にも悩みのない人間なんて、Aちゃん、信じられる?」と逆にD子に問いかけられて、A子はハッとしました。
 そうなんだ。みんな心に1つ、あるいは2つも3つも、溶けない氷の塊を隠し持っているんだ。それが自分も他人も冷やさないように、きっとみんな、知恵と工夫を働かせているはずなのよね。
 「A子も苦労してきてるのよ」とB子が優しくA子の肩に手をかけ、
 「C子もそうなのよね」とD子が言いました。「私もそうだけど」
 「私だってそうなんだから!」と、いささかムッとしたようにB子が言うと、A子もD子も自然と微笑みました。
 そして、窓の外ではチュンチュンチュンと雀たちが激しく鳴き始め、もう夜明けが近いことを告げるのでした。