風と海とオリーブと
 
 大きくカーブを描きながら南に延びている道路の両側は切り立った崖でした。疾走する車の右も左も、鏡のような海が広がり、間近な水面は陸地を映して深い青を湛え、沖ではキラキラと白い陽の光が静かにさざめています。
 「ねえ、見て、見て!」と純子に急かされても、
 「出来ないよ」とヒロシはしっかりとハンドルを握って前方を見つめたままでした。「ジュンちゃんだって、このまま天国に行くの、イヤだろ」
 「ちょっとくらいいいじゃん」
 「だって80キロ出てるんだぜ」
 「さっきは130出たって、ヒロくん、自慢してたよ」
 「あれは高速道路じゃないか」
 「意気地なしね」と純子が手を伸ばすと、
 「おい、よせよ!」とカッと頭に血の上ったヒロシは、思わずハンドルを握る手を震わせました。
 「おお、スリル満点!」と純子はいたずらっぽい顔をして喜び、
 「勘弁してくれよ」とヒロシは熱い吐息を洩らすのでした。
 海苔か昆布か養殖しているらしい筏が静かな海面に黒く点在し、道路が俄かに急勾配になったかと思うと、その道路だけを残してパッと視界が広がり、海上高く架け渡された長い橋の上を走っていました。
 「窓を閉めてよ」と前方を見つめたままヒロシが言いました。「横風がきついや」
 「この方がいいじゃん」とショートカットの茶髪が激しく靡いて頬を叩くのが、純子には気持ちがよくてたまりません。
 「タイヤが横滑りする感じがあるんだ」と脅しても、
 「ガードレールがあるよ」と意に介さない純子に、ヒロシは溜め息を吐く他ありませんでした。
 海に架かった橋を渡ってすぐまた山を行く道に入ると、背後に海を残し、しばらくして前方に開けてきた平地に向かって降りていきました。チューブに詰まった絵の具を押し出したほどにも色鮮やかに整然とキャベツやレタスを栽培している広大な野菜畑の間を縫って、時々信号機のある一般道路を走りつづけ、
 「これが日本のエーゲ海に行く道路かよ」とヒロシは皮肉りました。
 「エーゲ海ってどこ?」
 「ジュンちゃん、常識だぜ」
 「わたしって常識のない女なんだから」とまた純子が手を伸ばすと、
 「よせよ」と今度は左手で払ったヒロシが、「確か地中海にあったはずさ」と言いました。
 「分かった、ヒロくんも知らないんだ!」と純子は悦に入りました。
 「知ってるよ」
 「知らないんだ、知らないんだ」
 土塀に囲まれ納屋の付属した農家が見えたり、瀟洒なペンションが小高い丘の中腹に望めたりする道を走って、また丘陵地帯に入り込み、傾斜面をぐるぐると登りつづけ、山頂を切り開いて拵えた駐車場のある展望台に到着しました。
 「やっと着いたよ!」とヒロシはスポーツタイプの赤いメタリック塗装車を出、
 「おお、イヤらしい!」と、続いて出て来た純子は、ハタハタとミニスカートを打つ風の強さに腹を立てました。「それに寒いじゃん」
 大空の下に広がっている大海原を流れるように低い長い島影が重なって連なり、午後の光のきらめく中で静かに浮き立って見えます。眼下の森に半ば隠れた港から白い旅客船がボーッと汽笛を残してゆっくりと沖に乗り出し、その波に煽られたヨットが1艘また1艘と、順繰りに揺られていきました。
 海から吹き付けてくる風を真向かいに受けて顔を顰めて立っていたヒロシの腕に細い腕を絡ませ、引っ張って、丸太を割って作ったベンチに2人して腰を下ろすと、純子は、
 「あれ、何?」と、芝生が植えられた段々状の斜面にこんもりと枝葉を広げて震えている灰緑色の植物の群がりを指さしました。
 「あれがオリーブだろ」
 「ほんと?」
 「たぶんね」
 「何だか気味の悪い色ね。どうしてわざわざ植えてるんだろ?」
 「エーゲ海のつもりだからさ」
 「そんなの、見せかけじゃん」
 「それが大事なのさ」
 「蜜柑の方が、おいしいのにね」
 「うん」と、樹木に関心のないヒロシは純子を抱き寄せ、その指に刺激されて、
 「ウッ」と呻きました。
 「ヒロくんはすぐ元気になるんだから」と純子は子供のように嬉しがります。
 「よし、早くホテルに行こう」
 「どこ?」と改めて周りを見回した純子は、「何もないよ」と不思議がります。
 「バカだな」とヒロシは優しく純子の額を小突きました。「ここは単なる展望台なんだ。この下にきっと素敵な町があるはずさ」
 「ほんと?」
 「ガイドブックに出てたから、たぶんあるよ」
 丘を降りて海にぶつかると、道路は左右に分かれ、左に折れてフェニックスの並ぶ海岸線を走り、ヨットハーバーに舳先を並べたヨットが小刻みに揺れているのが見えました。沖の防波堤の端に白い小さな灯台が望まれ、陸揚げされたヨットの白い鮮やかな曲線を目にした純子が、
 「やっぱり素敵なところだったね」とはしゃぐと、
 「けど、もう終わったよ」とヒロシは言いました。
 そして、1500CCの車にはいささか狭い路地を走り、一旦停車をして古い家並みの間に覗いた青空に聳えているベージュの建物を指し示して、
 「あれのはずだけど、行く道が分からないや」とヒロシは苛立ちました。
 小さな四つ角に出るたびに停車して、左手の丘の上を仰ぐと、そこは常に同じ建物がありましたが、路地が狭すぎたり、広いとその代わり石段だったりして、結局、瞬く間に小さな港町を通過してしまいました。
 「どうする?」とガムを噛みながら純子が問うと、
 「引き返すしかないよ」とヒロシは舌打ちしました。
 「そんなの、ムダじゃん。他のホテルにしようよ」
 「だって、この町にはあのホテルしかないんだぜ。後はみんな、予約制のペンションなんだ」
 「田舎はこれだからイヤなのよね」と純子はガムを車の窓から吐き捨て、シートにもたれかかりました。
 また古い路地に引き返したヒロシは、先ほど目に留めていた、雨ざらしの木造家屋の横の、アスファルトで固められた空き地にとりあえず駐車して、2人して路地を抜け石段を登って、代赭色のテニスコートのあるホテルの裏手に出ました。玄関に回ってロビーに入ると、目ざとく見つけた支配人が、
 「お客様でございますか?」と近付いてきました。
 「ああ」とヒロシは不満そうに頷きました。「道に迷って弱ったよ。どこかによく分かる標識を出せなかったの?」
 「町役場の横を曲がっていただければすぐなのですけれど、分かりませんでしたか?」
 「町役場?」
 「クリーム色の大きな建物なんですけれど…」
 「ほら、ヒロくん、あったじゃん!」と純子が両手を打ち鳴らしました。「こんなところに美術館を造ってどうするんだって、ヒロくんがブツブツ言ってた建物のことよ」
 「ああ、あれが町役場?」
 「そうでございます」と支配人は一層見え透いた愛想笑いを浮かべるのでした。「あの近くにシーサイドホテルという大きな看板を掲げているのですけれど、みなさん、海辺の光景に気を奪われて、なかなか見つけてくださいません。ちょうど一番眺めのいい地点ですから、そこに進入口があるのも良し悪しでございます」
 2人の乗ってきた車は丘の下に放置されていると告げられ、その鍵を預かってホテルに回すために石段を降りながら、
 『また、つまらん客が迷い込んで来たな』と支配人は侮蔑の表情を浮かべるのでした。『寝ることと食べること、それにせいぜい泳ぐことぐらいしか頭にない連中だ』
 ヨットはあったけど、他には何にもない、ボロけた町ね、と純子が退屈げに語った時、支配人はそのように結論付けていたのです。日本のエーゲ海などと銘打って町おこしを始めて以来、ペンションが増え、荒波旅館も西洋建物に改めてシーサイドホテルと称し、確かに客は増えましたけれど、幼い頃から慣れ親しんできた町の風情が徐々に失われていくことは、支配人にとって寂しい限りでした。
 『町屋の格子戸の並ぶ静かな通りを車で走って何が分かる?.若いから仕方ないのかも知れんが、ああいう連中が年老いて、はたしてまともな老人になれるのか?.しかしまあ、愚痴るまい。おれも生活の糧が必要なんだから…』
 石段を降りたところにある、ちょっとした広場の端には石組みの井桁に木蓋を被せた共同井戸がありました。飲料水はともかく、打ち水や洗濯水として、今でも日常的に使われている井戸でした。夕食の買出しから帰ってきた顔見知りの主婦に、支配人は「今日は」と挨拶し、「お客さん?」と問われて顔を顰めると、主婦は他意のない笑いを残して格子戸の中に消えていきました。
 四つ角の向こうの空き地に確かに赤い車が1台、西日を背後から受けて燃えるように静かに輝いています。改修されたばかりの堤防を越えるほどに満々と、金色の波の飛び散る海が膨らんでいるのを目撃すると、今夜は満月だったなと、支配人は改めて思い至るのでした。