祭りの後
 
 金色に輝く鍋蓋みたいな顔と、白い胴体に浮き彫りされた子供の怒り顔と、羽のように広げた両腕とが森の上に覗いている太陽の塔は、大阪万国博覧会の面影を今に伝えています。高速道路を挟んだ向かい側の、巨大な観覧車と大きく曲がるジェットコースターの見えるエキスポランドも、やはり当時を思い出させて30年が経過しました。2つの敷地を裂いて貫いている高速道路は車の数が年々増加しつづけ、今や東は東京を経て東北・北海道へと連なり、西は九州鹿児島までノンストップで延びているのです。同じ車線を車の流れに従って走っている時は落ち着いていられても、いざ車線変更となると気疲れし、とりわけ万博記念公園の前にある吹田インターチェインジでの出入りは、至極厄介です。吹田で降りて万博記念公園に出るつもりが、高速道路に平行している一般道路をいつまでも走ってしまったり、道路を出ても今度は坂と路地とが交錯する、日の光もまだ新しく感じられてしまう新興住宅に迷い込んだり、また、帰りに高速道路に入ったつもりがその入口の脇を通過して、背中を丸めて群れ走る甲殻類のような車たちと共に、どこまでも走りつづけなくてはならないことも、不案内の人にはよくあることでした。
 やっと見つけた中央駐車場に辿り着くと、かつて鮮やかだったカラータイルは風雨に晒され色褪せて、エキスポランドの入口で列を作っている若者たちの姿にも、どこか物質文化に慣れ親しんだ余裕が感じられます。鉄製のフレームで組まれた歩道橋の下を猛烈なスピードで疾走するメタリックな車たちはたちまちに遠去かり、橋を渡り切って行き止まりになった万博記念公園の入口は、昔のままに幾つものゲートで仕切られていましたが、むろん、普段は受付横の1つが使われるばかりです。
 その正面にかつてあったお祭り広場の大屋根は今はなく、芝生に被われた小高い丘の上に太陽の塔が白く聳えています。当時、多くのパビリオンと入場客とでごった返した万博会場は今やゆったりとした森の公園と化し、木の葉の揺れる暗がりを夏の終わりを告げる青い空気が静かに流れています。乳母車を押す若い夫婦もいれば、病院勤務の合間を見計らって訪れる人々もいますし、木々の間に広がっているグラウンドでサッカーに興じる子供たちの歓声も聞こえて来るのです。大屋根はなくなっても堅く塗り固められた広場が残り、その奥の、いかにも人工的な池もまた、柳並木の向こうにキラキラと光っていました。
 丸太屋根のパビリオンの前に立ったアフリカの黒人たちと一緒に写真を撮るのがまだ興奮を呼んだ30年前は、確かに全てが上を向いて歩いていた時代でした。今は深い木立に囲まれている、黒い巨大な筒の集まりのような国立民族学博物館の建物が往時を偲ばせるばかりです。そして、かつて添え木を添えられ藁巻きされた若木が林立し、ただ燦々と陽の光の降り注いでいた日本庭園は、今や緑深い森と化していたのです。
 その前を巡って公園の中にあるレストハウスに向かう博男は、
 「ここで祭りがあった年に、おれが生まれたんだ」と言いました。「祭り好きの親父だったから、たいそう喜んだらしいけどね」
 「でも、万博に合わせて生んだわけじゃないわよね?」と、白地に青い波柄の半袖ウェアの、スリムな肢体をした絵里子が言いました。
 「分からないな」
 「でも、そうだとしたら、博男くんって日本の一番いい時代の象徴なんだ」
 「だから博男なのさ」
 「?」
 「万博の博だろ」
 「だから博男なの?」
 「うん」と博男が苦い顔をすると、
 「素敵なお父さんね!」と絵里子は白い細面を反らし歯並びのいい口で鮮やかに笑いました。「きっと前向きで、楽天的で、バイタリティーのある人だったんだ」
 「そうでもなかったけどさ」と博男は、数年前に亡くなった父への反抗心が徐々に薄れている自分を感じるのでした。「ただ、けっこう物に執着してたな。車だって1000CCから始まって、1500、2000と5〜6年で買い換えてたし、いろんな新製品にダボハゼのように食い付いてたよ」
 「そんな時代だったのよ」と絵里子はまだ笑顔でした。「そういう欲求があって、みんな頑張った結果、日本も豊かになったんだから」
 「絵里ちゃんは昔の人間に理解があるんだな」
 「だって、今、医学部に優秀な人材が集まるのも、結局、沢山のお金が手に入るからでしょ。昔も今も同じことだし、その事実から目を反らしちゃダメだと思うんだ」
 「要するに、リアリストなんだ」
 「博男くんはどうなのよ?」と振り向いた絵里子の切れ長の目をさりげなく避けた博男は、
 「入る?」とガラス張りのレストハウスを指し示しました。
 「いいわよ」と絵里子は言いました。「私、おなかが空いちゃった」
 「おれはコーラでも飲むよ」
 天井の高いレストハウスはカウンター以外、全て天井までの総ガラス張りで、テーブルもガラス板で、エアコンがよく効いていました。午後の客はまばらで、絵里子はカレーライス、博男はコーラを注文して、窓の外のアスファルトの広場の上にわだかまっている夏の名残りのような日の光を2人は何気なく眺めました。いささか歪みのある埃っぽい遊歩道のあちこちに夏草が丈を伸ばし、人工池を隔てた木立の中に先ほど通り過ぎた民族学博物館の、黒光りする重厚な建物が見えます。
 「おれ、研究室を辞めようと思うんだ」と博男はコーラをストローで吸い込みながらさりげなく切り出しました。
 「どこかの勤務医になるの?」
 「まあ、そういうことだ」
 「どこ?」
 「小笠原」
 「エッ?」と思わず声を漏らした絵里子は、細く引かれた眉を不審げに顰めて顔を上げました。「あの太平洋の島のこと?」
 「ああ」
 絵里子のスプーンを置く音がイヤに強く2人の耳に響き、うつむいた絵里子は、
 「博男くんはいつまでも正義派でいたいんだ」といささか不興げに言いました。「ずっとロマンチックな夢を見ていたいわけね」
 「小笠原はいいところだぜ」と博男はことさら快活さを装うのでした。
 「世捨て人になりたいの?」
 「あそこにも人がいるよ。だから行くんだし」
 「世捨て人って世を捨てた人じゃなく、世の中から捨てられた人のことよ。何も博男くんが志願してなることはないでしょう」
 「捨てたのか捨てられたのか、そんなこと、どっちでもいいんだ」と博男は澄んだ瞳で絵里子を見つめました。「何もあくせくと働いてお金を稼ぐことだけが人生じゃない」
 「やっぱり正義派ね」と溜め息を吐いた絵里子は、「私には無理だけど!」と苦々しげに言い切りました。
 「分かってる」
 もう一度溜め息を吐いて、黒目がちの目を上げると、
 「私はまた新しいパートナーを見つけなくちゃならなくなったわけか」と絵里子は努めて明るい表情を作りました。「33にもなると、ちょっと億劫だけど、このままキャリアウーマンの人生を全うするのも、気楽でいいかもね」
 「うん」と目を伏せた博男はストローでコーラを吸い込みました。
 広いレストハウスの沈黙が2人を包み込み、スプーンを手にした絵里子は、すぐまたよく響く音を立てて洋皿に落として、
 「私、独りになりたい」と椅子を引いて立ち上がりました。「ここ、お願いできるよね」
 「分かった」
 カウンターの向こうで無関心な風に2人の様子を窺っていたウエイターの視線を背に受けて、絵里子のスラリとした姿が入口のガラス戸の向こう側に抜け出、その半袖ウェアの波柄も白く輝くほどに晩夏の午後の日の光を浴びながら、やがて木陰を流れている仄暗い大気の中に紛れていくまで、博男は静かに見送っていました。そして、大きく枝を広げた木々の上に聳えているであろう太陽の塔の白い後ろ姿を、ひどく貧相なものとして脳裏に思い描くのでした。