窓の中に浮かぶ空
 
 所長の広沢氏は丸い禿頭を見せて、大きな机の上にかぶさる姿勢で指先に力を込め、ボールペンの切っ先を動かしています。南向きの木組みの連子窓に背中を向けて、暗く静かに吐息しています。そして、その厚いメガネのフレームに、どういう加減か太陽光線がスルリと滑って光りました。
 「Kの様子はどうなんだ?」とうつむいたままの広沢氏の声に、教誨師の剣持氏は一瞬ドキッとしました。なぜだかその禿頭が大きな一つ目に見えたのです。
 「これから行くところなんだ」と後ろ手にドアを閉めると、ガッチリとした体躯の剣持氏は、ソファにどんと座り込みました。「口数の少ない男だなあ」
 やっと顔を上げた広沢氏は、背もたれに体を預け、丸々とした肩を物憂げに揺すりました。窓の外の中庭にケヤキが秋の色に色付いて枝を広げ、静かな風にヒラヒラと木の葉を揺らしているのが見えます。
 「死にたいんだろ」と広沢氏は事も無げに断じました。「生きる価値のない奴は、死ぬしかないわな」
 タバコに火を点け、分厚い唇にくわえた剣持氏は、
 「生存本能がないんかなあ」と開けっぴろげな声を出しました。「どんな動物にもあるもんだけどな」
 「動物以下の人間は幾らでもいる」と机を回ってソファに近付いた広沢氏は、ふとスーツの袖にかかった糸切れに気づき、手でつまんで、テーブルの上の灰皿に捨てました。「当たり前だけどさ」
 剣持氏が箱に入ったタバコを差し出すと、
 「おれはよそう」と広沢氏は断りました。
 「それはまた、どうしたわけだい?」
 「ドクター・ストップがかかった」と広沢氏の唇に皮肉の影が閃きました。「おれはまだ死にたくないんだ」
 「どこが悪いんだ?」
 「なあに、人間ドッグが悪かっただけさ」
 「なるほど!」と剣持氏は陽気な声を発しました。「あそこから無事に出て来る奴はいないからなあ」
 そう言われた広沢氏は目を反らし、今度はさっきと反対の袖にかかっていた糸切れを見つけました。2人の視線が小さな糸切れに注がれ、沈黙が室内灯の淡い光の中で微妙な陰翳を帯びるかのようです。顔を上げた剣持氏は、
 「しかし、今年の秋は早いなあ!」と持ち前の大声で静かな空気を破りました。「寒さが身に沁みる年齢になったよ」
 「人はいずれ死ぬものだから」とまた糸切れをつまんだ広沢氏は、それを目の前に持って来て見つめています。「われわれはその手伝いをしているようなもんだ」
 「所長、あんたはいつからペシミストになったんだ?」
 「おれはオプティミストだよ。死んだら死にきりの人生だから、大いに楽しみたいからね」
 「いいや、ペシミストだ」
 「それを言うなら、フェミニストだよ。女でしくじった男は数多い、その1人にならないように気を付けてるんだ。もっとも、教誨師には無用の心配だろうけどさ」
 「いやいや、ぼくも実はフェミニストなんだ」と剣持氏は俄かに賛同しました。「だけど、刑務所を訪れたところで、それを証明するチャンスがない」
 「そんなことはないさ」と表情の乏しい広沢氏の丸顔に倦怠の影が浮かびました。「最近の女囚は見事な体だぜ」
 「ははは!」と笑った剣持氏はソファから立ち上がりました。「それ以上聞くと、ぼくの仕事に差し障りが出そうだな」
 「行くのか?」とソファにもたれかかった広沢氏が顔を上げて聞きました。「無駄足だけどね」
 「それがぼくの仕事だ」
 「黙って時間が経つのを待てばいいさ」
 もう一度笑って所長室を出た剣持氏は、看守に案内されてセメントで塗り固められた廊下を歩いて行きました。廊下の両側に小さな覗き窓のある独房の扉が並び、いちばん奥の左手の扉の鍵を無造作に開けた看守は、
 「どうぞ」と身を引きました。
 中は6畳ほどの空間で、ベッドとトイレが鉄格子の嵌った高い窓のある壁際に備え付けられ、ドアの横に机と椅子が置かれています。ベッドに腰かけていたKと向かい合うように椅子に腰を下ろした剣持氏は、
 「誰とも会わんそうじゃないか」と穏やかな声をかけました。
 「そうですか」とKも静かな声でした。
 「もう何ヶ月も訪問者がないと聞いたよ」
 「そうかも知れないな」
 「恋人がいただろう。よく来てたというじゃないか」
 「死刑が決まるまではね」
 「ああ」と剣持氏は瞳を上げました。鉄格子で区分けされた高い窓の中に、秋の青空がきっちりと嵌まっています。それはちょっと窓枠をずらすと白い余白が生ずるかと思われるほどに正確な青さです。
 「どうして控訴しなかったんだ?」とまた視線を戻して、剣持氏は尋ねました。「過失致死になったかも知れないんだぜ。まるで死刑にしてくださいと言わんばかりじゃないか」
 「さあ」とKは両の掌を開いて眺めました。「もうどうでもよくなったんですかね」
 「しかし、自分の生命が係わってるんだぜ!」と剣持氏は思わずその分厚い唇を大きく開けて叫びました。「食欲と性欲は人間の基本的な本能だと言うけど、もっと基本的なものがあんたにはないの?」
 「自分に正直に生きたいのかも知れませんね」とKは物憂い口調で言いました。高い窓の青い空が思わず視野の中に飛び込んで来た剣持氏は、それでも、
 「正直?」と唇に冷笑を浮かべました。「暑さのせいだとあくまで主張したいのか?」
 Kはますます物憂げに吐息し、足の先の床を眺めています。
 「それを社会人の言葉に翻訳すれば、自分の好き勝手に生きたいんだ、そのためなら他人の命の1つや2つ、どうなったって構わない、と宣言したも同然なんだぜ」
 「……」
 「裁判長はそう判断したわけだ」
 「……」
 「そう判断されても仕方ないわな」
 「……」
 このままいつまでも心を閉ざしているだろうと感じた剣持氏は、
 「ぼくは、何と言っていいか…」と小さな窓の中に浮かんでいる空を仰ぎました。「要するに、ある種の共感をあんたに抱いてるんだよ。だから、裁判のやり直しを求めて欲しかったんだ」
 うつむいたままクスッと笑って、
 「返す言葉がありませんね」とKはつぶやきました。
 「ぼくの正直な心持ちだけどね」と、Kから視線を反らした剣持氏は、机の上に積み重ねられた文庫本の色とりどりの背表紙を眺めました。そして、塵ひとつない天板の手触りに、スタンドの光を淡く浴びながら本を開くKの姿が想像されるでした。「もちろん、犯罪行為に同意してるわけじゃないけどな」
 カチャリと扉の外で鍵を回す音がし、
 「ぼつぼつ時間です」と看守が顔を覗かせました。
 「もう少し待ってくれ」と応えた剣持氏は、しかし、前屈みに椅子に座ったまま、次の言葉が出ません。ただ、開放された高い窓から入り込んで来る透明な光の筋を見つめるだけでした。
 床を眺めていたKが顔を上げ、
 「帰ってくれませんか」と言いました。「あんたはもうおれに心にもない説教はできんでしょう。それが何よりの説教になりました。ほんのちょっとでも気持ちを分かち合える人間が見つかって、おれは満足です」
 何か言おうと唇を動かしても、多弁な剣持氏の口からどんな言葉も出て来ません。
 「ありがとう」とKは少年のような無垢な微笑を浮かべました。
 思わず目頭が熱くなった剣持氏は、微笑みを返そうと試みて、ただ、その大きな瓜実顔をクシャクシャに崩しただけでした。