荒神谷
八幡さんや荒神さんは穴浦町の至るところにあるにもかかわらず、町に迫り出した夕佳山の背後の谷だけがなぜ荒神谷と呼ばれるのか、わたくしは知りません。ただ、その谷から流れ出て来る川が、平地でもう一つの川と合流したのち荒神川となって町の北を流れ、やがて千田川に吸収されて川口市に至っているからには、町のいわれと何か因縁があることは確かでしょう。
荒神谷の一本道は山の中で行き止まりになるため車の往来がめったになく、ずいぶんと静かな谷です。その北の平野から眺めると、谷間に段々状に広がる棚田の中に農家が点在しているばかりでしたから、若い頃のわたくしの目には「旧習の地」という風に映ったものです。しかし、そんなわたくしも落ち着いた土地柄に憧れを抱く年格好になり、
「住むにはこんなところが一番ですね」と盆参りで訪ねた際には語るようになりました。「買い物も車を使えばすぐですから」
「本当に恵まれとりますが!」と嫁に来て半世紀を超えるという、高橋家の分家のお婆ちゃんは大きく頷きました。「奥の池から涼しい風が吹いて来て、夏でも夜は寒うて窓を開けて寝られません。冬は風がありゃんせんから、お天道さまが照るだけで部屋の中はポカポカ陽気ですが」
確かに夏の日の風の有る無し、あるいは庭木の有る無しは生活環境にずいぶん影響します。その家で暮らす人にとっては毎日のことゆえ意識できなくても、盆参りで家々を歩いて回らなくてはならないわたくしには一目瞭然だったのです。荒神谷の人家が途切れたところに緑の絨毯を被せたように草の生い茂る土手があり、その向こうに満々と水を湛えた池が横たわっているのを知ったのは、つい最近のことでした。馬屋原家の法事に訪れ、家の仏壇での読経の後、谷の奥にあるという墓に参りに行くことになって初めて、五月雨の降り注いでいる、木々の梢が深々と垂れ込めたその池をわたくしは目にしたのです。それも1つではなく、墓地に着くまでに3つ通過し、さらに奥に小さいけれどもう3つあるというのです。
「そんなにあるんですか?」とわたくしは驚きました。
「もう田圃が少なくなったから、下の1つ2つで十分なんですけどね」と馬屋原さんは語りました。「今は業者に養魚場として貸しています。ここの池の周りは人家がないから、昔同様にきれいなんですね。わたしらが子供の頃には、夏になると、遊び友達とよく泳ぎに来たものですよ」
3つ目の池の傍にはまだ、20年前までは馬屋原の本家が住んでいたというトタン屋根の家があり、共同水道が使え、分家の馬屋原さんがその水をバケツに汲んだのち、布袍を着たわたくしは貸し与えられた長靴に履き替えて、鉄砲水が清冽な音を立てて流れている竹林の中の小道をみんなに付き従っていきました。本来の水路を白い飛沫を跳ね散らしつつ水がうねりを上げて流れ、その上に架けられた石橋の上もまた、山斜面の窪みを駆け巡って降りて来た水の通路と化して、2つの透明な流れが鮮やかな立体交差を作っています。
「ご院さん、大丈夫ですか?」と黒い礼服の人が傘を上げて振り返り、わたくしは石橋の端を雨水の流れを避けて歩きながら、
「大丈夫です」と応えました。「まさか溺れはせんでしょう」
まもなく、雨雲を透かして降り注ぐ明るい光をいっぱいに浴びるように切り開かれた竹林の中に、苔生した古い墓石が2〜30基も現われ、ブロックで囲われた盛り土の上にはもっと年代が下るであろう、おそらくは昭和期の墓がこれまた20基近く並んでいました。いずれも馬屋原家の墓で、子孫の手によって何百年にも渡って維持管理されてきたのです。また、幾つもの池を巡って人里に続く山道の草刈りも年2回続けられているのです。連綿と絶えることのない困難な作業を思う時、わたくしは先祖の墓を守りたいという強固な願いを感じざるを得ません。そして、「今日は親父の好きだったビールを持って来るのを忘れた。これで勘弁してくれや」と分家のご主人が雨に打たれる墓石の頭に柄杓で水をかけ、周りの人々の笑いを誘うそのさりげなさに、涙ぐまざるを得ませんでした。
ただ、谷を登ると桃源平に通じているはずですけれど、そこの馬屋原家との関係は本家の方もご存じありません。長男が桃源平に残り、次男が観音谷、三男が荒神谷、四男が仙人谷に降りたと聞いたことがあると教えてくれた方もいますが、いつの時代の誰のことか分からない限り、それも伝説の域を出ないでしょう。
「あれは馬屋原じゃったんですきゃあ!」と、わたくしの話を聞いた高橋のお婆ちゃんが素っ頓狂な声を上げました。「わたしらが子供の頃、よう桃源平まで遊びに行きょうりましてなあ。わたしゃあ腕白じゃったから、男の子もよう登らん松の木のてっぺんに登って、遠くでキラキラ光っとる海をよう眺めたもんですらあ。いつでも風が強う吹いて来て、夏の日はとても気持ちがようありゃんした。あれは何かの祭りの日じゃったかなあ、山あいの大きな家に袴姿のきれいな娘さんが帰って来なさったんが、松の上から見えたんですらあ。庇髪を結うて、鼈甲の櫛を挿して、そりゃあ別品さんじゃったが、そうですか、馬屋原のお嬢さんじゃったんですか。当時、袴をはく人は少のうありゃんしたから、何かの習い事か、女学校に通うとられたんでしょうかのう」
「あそこには3軒の家しかなかったはずですが、その1軒だったんでしょ?」とわたくしは確認しました。
「そうです、そうです」とお婆ちゃんは大きく頷きました。「その中で一番大きな家ですがな」
「それが馬屋原一族の大本家です。今はその家も街に降りて、あそこには1軒残るばかりですけどね」
「そうでしょうなあ」とお婆ちゃんはまた大きく頷きました。「まだ1軒残っとられるんですか。そうです、そうです」
わたくしはその時、お婆ちゃんは仙人谷から嫁いで来たのだと聞かされました。そして、その谷にも馬屋原家は何軒かあるのだが、それが荒神谷の馬屋原家と関係があるとは今まで知らなかったと、お婆ちゃんは驚きました。
「自分の家の歴史でも、せいぜい曾祖父さんの代くらいまでしか辿れないものですからね」とわたくしは言いました。「ましてや、余所の家のことなど分かりませんよ」
「じゃけども不思議ですなあ」とお婆ちゃんの瞳にはまるで子供の頃の輝きが蘇るかのようでした。「あの頃がまるで昨日のように鮮やかに浮かぶんですらあ。年を取ると近いことをみんな忘れて、昔のことだけよう思い出すと言いますが、本当ですなあや」
「全てを覚え込むわけには行きませんからね」とわたくしは笑いました。「一番大切なものだけを覚えておけば、それでいいんじゃないですか」
「そうですなあや」とお婆ちゃんは深く頷きました。「こんな老いぼれになっても、わたしのような凡人は毎日ろくなことを考えとりません。じゃから、それをみんな忘れさせてもらうんは、有り難いことですが。それだけは年を拾うたおかげじゃと感謝しとります」