日はまた昇る
 
 「校長、決断の時です」と教頭が迫りました。「最後は校長の決断ですから」
 「どう決断すればいいと思うんか?」
 「どうと言ったって…」と教頭は気勢を削がれました。「私は校長の判断をとやかく言う立場にはありません」
 「そんなことを聞いとらん!」と校長は不意に苛立ちました。「ぼくの判断の参考にしたいから、きみはどう考えるかと問うとるんだよ」
 「じゃあ、言いますが、これはあくまで私個人の考えですよ」と教頭は念を押しました。
 「分かっとる」
 「私は揚げるべきだと思います」と教頭は俄かに荘重な面持ちになりました。「公的機関として、当然の対応でしょう」
 「揚げると言うことは、歌うと言うことかね?」
 「もちろんです」
 「その責任は誰が取るのかね」と校長は胡散臭い表情で教頭を眺めました。「きみというわけには行かんじゃろう」
 「当然でしょう!」と教頭は呆れたと言わんばかりです。「あなたが校長なんだから」
 「だから、きみは第三者的立場に立てるんだよ」
 「第三者的?」と教頭はムッとしました。「私は校長のため、学校のために進言してるんですよ」
 「それが学校やぼくのためになるんかなあ…」
 「なります」
 「少なくとも生徒のためにはならんな」と校長は自ら深く納得する風でした。
 「どうしてですか!」と荒くなった教頭の声は校長室の外まで響き渡らんばかりです。
 ギクッと顔色を変えた校長は、思わずドアの方角を振り向き、
 「きみ、きみ、もう少し穏やかに話し合おうや」となだめました。
 「どうしてですか?」と教頭は声の調子を落として繰り返しました。「学校のためになると言うことは、生徒のためになると言うことじゃないですか。違いますか?」
 「反対する生徒がおる」
 「2、3人でしょう」
 「いや、7人はおる」と校長は俄かに確信のある顔になりました。「先日、ぼくのところに要望書を持って来た」
 「それは知っています」
 「それが7人じゃった」と、その事実の重みを改めて受け止めるかのように、校長は深く頷きました。
 「一部の教員が書かせたものにすぎません」と教頭は一笑に付しました。「あんな硬い文章、今時の子供に書けるはずないじゃありませんか。誰が書かせたか、私は知ってるし、校長もご存じでしょう」
 「教員ばかりじゃない」と校長が何やら暗示するように語気を強めると、一瞬、異様な沈黙が2人を包み込みました。そして、教頭は言葉を選ぶようにして、
 「外部団体のことですか?」と問うのでした。
 まるで触れてはならない「権威」に触れたかのように、校長は重々しく頷きました。
 「それこそ教育介入でしょう!」と、いったん堰を切ると、また教頭の勢いは止まりません。「教育の自主性を回復するためにも、揚げなければならないし、歌わなければなりません!」
 「しかし、それは県による介入に他ならないんだぜ」
 「校長、しっかりして下さい」と教頭は苦虫を噛み殺した表情を浮かべました。「校長は県に任命されて校長になったんですよ。違いますか?」
 「形の上ではな」
 「形の上?」と驚きの表情を作った教頭は、マジマジと校長の顔を見つめました。「じゃあ、本当は誰なんです?」
 「そりゃあ、みんなのおかげじゃが」
 「みんなとは?」
 「みんなとはみんなに決まっとる」と校長は急に立腹しました。「1人々々のことじゃ!」
 これでは話にならない、と心の中でつぶやいた教頭は、
 「それじゃ、校長の好きにしてください」と言い残して部屋を出かかりました。
 「そう投げやりになりなさんな」と校長は今度は生徒を諭すような穏やかな口調です。「第一、揚げるとなると、式次第も書き直さないといかんしなあ」
 ドアのノブに手をかけたまま、
 「その気がおありなんですか?」と教頭は疑わしげな表情で振り返りました。
 「難しいところよのう」と校長は机の前で腕組みをしています。「他校がどういう対応を取るつもりなのか、きみ、分からんかね?」
 「それは、校長同士で連絡を取り合えば、すぐ分かることでしょう」
 「それが、誰も本音を言わんのじゃ」
 ちょっとうつむいて思案した教頭は、
 「分かりました」と顔を上げました。「式次第は国歌斉唱のあるのと、ないのと、2つ、私が用意しておきます。君が代のテープは県から届いてますから、うちの息子のテープレコーダーを持って来ましょう。学校のものは組合が隠しているようですから」
 「最後にもう一度聞くが」と、校長はまるで命令を下すような居丈高な口調でした。「きみは揚げて歌いたいんだね?」
 「そうです!」と言い残して廊下に出た教頭は、「煮え切らない人だ!」と思わず校長室のドアに向かって吐き出すのでした。
 その夜遅く、校長から「やっぱり揚げようや」と電話がかかって来た時、
 「おめでとうございます」とつい教頭は口走ってしまいました。
 「何がおめでたいことがあるもんか」と電話口の向こうの校長は不快げです。「おめでたいのはきみだけだろうが。ぼくは辞職覚悟で決めたんだから」
 「私が体を張って協力します」と教頭はますます意気盛んです。
 「よろしく頼むぜ」
 機に乗ずるに敏な人だ、と受話器を置いた教頭は苦笑しました。左から右に急旋回している流れに乗り遅れたくないんだろう。
 いずれにせよ、教頭は張り切らざるを得ません。翌日、一番に登校して校長室に赴き、まず日の丸の旗を確認し、校長と打ち合わせて隠していた君が代のテープを取り出して、自宅から運び込んで来たテープレコーダーで回してみました。それから、懇意の書道の先生に書いてもらった式次第をテーブルに広げ、国歌斉唱の項目を目にすると、ブルッと背筋に悪寒が走ったものです。
 午前9時、職員室に職員一同が集まり、校長が国歌斉唱を加えることを宣言しても、教員たちは拍子抜けするほど無反応でした。小柄な組合長は大勢の教員の陰に隠れてどこにいるのかも分かりません。
 これは校長だけじゃないな、と教頭はさらに確信を深めました。みんながもう逆の流れに流れ始めている。その先頭を切ることが大切なんだ。頑張るぞ!
 さて、いよいよ卒業式です。受付を済ませた保護者たちが黒い礼服をまとって次々と講堂の後ろの戸口から入って来て、後部座席を占めていき、やがて卒業予定の生徒たちが2列縦隊で静かに入って来て、前の席に座っていきました。そして午前10時、舞台の緞帳がおもむろに上がっていくと、右に来賓席、左に校長の席があり、中央の演壇の背後に白地に赤い日の丸の旗が眩しげに掲揚されています。それを目にした保護者たちは、思わずどよめきの声を上げました。
 舞台の袖にいた教頭は、その様子を一瞥してからマイクに口を近づけ、
 「これから○○県立△△高等学校第××回卒業式を始めます。一同、起立!」と張りのある声を発しました。そして、ドヤドヤと波立つように生徒も保護者も教員も立ち上がったのを見はからって、
 「国歌斉唱!」と声を上げ、マイクから一歩後退して、自らも「きーみーがーよーはー」と伴奏に合わせて大きな声で歌い出したのです。生徒も教員も大半が歌わないのは確実でしたけれど、マイクを通して自分の声だけが響くのもためらわれます。そこで、マイクから離れて歌おうと、教頭は昨夜、熟慮の末に決めていたのです。ところが何と、「ちーよーにーやーちーよーにー」と自分に似た声が講堂いっぱいに朗々と響き渡るではありませんか。生徒の視線が一斉にこちらに集中し、大きく口を開けて歌っていた教頭の顔は、見る見る紅潮していきました。組合の連中がおれを陥れようとしているのか?.まさか、生徒じゃあるまい。しかし、そもそも誰が歌っているんだ?.まさか、おれのはずがないよな?
 それは、国歌斉唱に感激した保護者の1人の声だったのですけれど、その周りの人しか気がつきませんでした。余りに教頭の声に似ていたために、学校関係者はみんな教頭だろうと勘違いしてしまったのです。
 おいおいおい!.と途中で止めるわけには行かない教頭の背中を冷や汗がしたたり落ちていきました。これじゃあ、おれに全部の責任がかぶさって来るじゃないか。事がうまく運んだら校長が得点を稼ぎ、しくじったらおれが責められる。まさか、校長が画策したんじゃあるまいな?.外部団体の抗議集会におれが呼び出される?.まさか!.と否定しながらも、厳しく糾弾されるであろう自らの姿が教頭の脳裏に焼き付いて離れないのでした。