送り火
 
 京都南インターチェインジを降りて国道1号線を京都市街に向かって北に走り、赤信号の度に地図で確かめて、それと思われる交差点を左折してから桂川に架かった橋を渡ると、もうひと安心です。後は桂川に平行している道路を辿れば、ほどなく嵐山に到着するはずでした。助手席の妻は目的地が近いと聞いて目覚めましたけれど、小型ワゴン車の後部座席の3人の娘は喋り疲れてみんな夢うつつ状態です。「もうすぐだよ」とわたくしが声をかけても、誰も応えません。
 桂川の土手に出ると、嵐山までひたすら川沿いの広々とした光景を眺めながら走るだけでした。やがて大きくカーブした土手からいったん住宅街に降り、また土手に出ると、太い幹をくねらせた松並木を透かして渡月橋が見えました。
 「人が多いなあ」と、夏の盛りの8月16日にこれほどの観光客を予期していなかったわたくしは驚きました。「もう盆は終わったろうに」
 実際、高速道路の上り線も案外に車が少なく、ひょっとしたら夕方になるかも知れないと覚悟していたにも関わらず、正午過ぎにはもう京都に着いていたのですから、予想外の人手に違いありません。満車中の駐車場の入口でしばらく待ってようやく駐車して、車を出ると、妻も子供も土産物店に駆け込みました。帰りでよかろうとわたくしがいくら主張しても、何にするか前もって見ておきたいのだと4人に反論されると、もちろん、わたくしの意見などすぐに置き去りにされてしまいます。
 いかにも観光地風のレストランで昼食を取り、渡月橋の手前の交差点に行くと、交通整理のお巡りさんが出ているほどの混雑ぶりでした。それは今夜の大文字の送り火と関係しているようでした。というのも、8月16日の夜、桂川でも精霊流しがあるという案内があちこちの店角に掛かっていたのです。
 渡月橋の歩道は人でいっぱいでした。目前を行く体格のいい若い女のジーンズ姿と比べると、中学生の三女はもちろんのこと、今年京都の大学に進んだ長女もまるで子供です。
 「Mちゃんはまだここに来たことはないの?」とわたくしが尋ねると、
 「ない」と長女は答えます。「だって遠いもの」
 「だけど電車ならすぐだよ」
 「電車賃が勿体ない」
 「うーん」とわたくしは咄嗟の言葉を失いました。「自転車だと遠いかも知れないなあ」
 「遠いわよ!」
 「Mちゃん、そこまでお金のことを気にしなくてもいいのに」と妻が後ろから言葉をかけました。「学生時代ほど自由な時代はないんだから、それくらい出してあげる。卒業してからもっと見て歩いておけばよかったと後悔しても、もう遅いのよ」
 「分かってる」
 向こう岸でちょっと休んですぐまた渡月橋を引き返すと、家並みの上に西山から北山にかけての山並みが幾つも丸い峰を重ね、白雲が夏の日の光に輝きながらあたかも時間が静止したかのように不動です。嵐山の風情に調和したその景観は行政のおかげに違いありません。狭い京都の街並みは、規制がなくなればたちまち高層ビルに覆われるに違いないのです。
 土産物店が軒を並べている私鉄の嵐山駅辺りを過ぎると、すぐに天龍寺です。アスファルトで固められた境内に樹齢何百年という大木群が梢を震わせ、錆びた鉄柵に囲まれた蓮池は蓮の葉で満ちあふれ、花が散って太い穴のある実が頭を垂らしています。
 「うちにもあるといいなあ」と次女と三女が届くはずもない蓮の葉に触れようと柵の隙間から手を伸ばしました。
 「こんな池があったら、うちの境内はそれだけで占められちゃう」とわたくしが言うと、
 「わたしも大きな寺に生まれればよかった」と次女は不服そうでした。
 「Aちゃん、ここは偉いお坊さんが入るお寺なのよ」と妻が諭しました。「生まれたら誰でも継げるものじゃないの」
 「じゃあ、お父さんは偉くないんだ」と次女が冗談ぼく茶化し、
 「そんなこと言っちゃダメじゃんか」と三女が口を尖らせて咎めました。
 わたくしはむろん、
 「Aちゃんの言う通りだよ」と笑う他ありません。
 再び車に乗って向かった嵐山高雄パークウェイは、20数年前、就職まもないわたくしがまだ大学にいた知人を乗せて走ったところです。ぐるぐる回るコースが当時と違うはずもなく、尾根にある展望台から眺め降ろす、深い傾斜面の底を流れている保津川ももちろん、変わろうはずがありません。もう50才が近い自分が変わっただろうかと自問自答してみても、確かに体力の衰えはあるにせよ、心持ちにそれほどの変化があるとも思われません。相変わらず外界に違和感を覚えつつ、まるで牛の真似をして腹を破裂させた蛙に似た不安を抱えたまま、それでも悪戦苦闘の毎日でしたから。
 ただ確実に変わったのは、20年前は不在だったわが子が3人、展望台の手摺りにもたれかかって歓声を上げていることです。他愛もなく戯れる娘たちの姿は、変わりつつある世界を反映しているかのようでした。
 高雄に到着し、無料駐車場に車を残して、長い坂を降り下って清滝川に架かった橋に出ると、猛暑であっても渓谷を下る清流に乗って吹き付けてくる風はヒンヤリと心地よかったのですけれど、神護寺までまた長い石段を登らなければならないと知ってウンザリしました。しかし、子供たちはむろんのこと、登山に憧れを持つ妻まで先にさっさと歩いていきますから、登らないわけには行きません。ハアハアと息を切らしつつ、
 「何か間違えたなあ!」とわたくしがこぼすのを聞いた中年の女性が、微笑みながら、
 「頑張ってください」と声をかけて下っていきました。
 神護寺の境内までは案内図よりもはるかに遠く、実際のところ、山門に到着した時のわたくしはフララフでした。山肌を切り開いて白砂を敷いた境内に明るく秘やかに射し込んでくる夕陽を体いっぱいに感受する余裕がありません。また現われた広い石段にウンザリし、それでも登って緑深い楓の枝々がゆったりと垂れ込めているベンチに腰かけて、重厚な金堂を仰ぎながら、もう一歩も動けません。持参していた水筒のお茶を小分けにキャップに盛って何度も飲むばかりです。確か以前は高山寺だけ訪れ、ここには来ていなかったはずです。もう二度と来ることはなかろうと思うと、疲労困憊のわたくしは、それでも神秘を湛えた空気を大きく吸い込みました。
 車に帰って京都の街まで降り、北白川にある長女の下宿に辿り着くと、まもなく日は暮れていきました。東の空に大文字山が横たわっていましたけれど、その下に張り出した丘陵に遮られて一部が望めるだけです。まず夕食を取り、その後いい場所を見つけようと考えていたのですが、例によってわが家は極めて時間にルーズです。やっと気に入った店を見つけて順番待ちをして暖簾を払って入り、木組みを露出させた日本家屋の風情は確かにいいけれど、内容の割にはいささか高い京料理を食べて表に出ると、夜の帳がとっぷりと降りていました。そして、桜並木の続く疎水沿いはすでに人でいっぱいです。ラフな半袖の若者や着物姿の娘が目立ち、やっぱり学生の街だなとつぶやくわたくしに向かって、
 「あなたは普段お年寄りばかり見ているから、そう感じるのよ」と妻が言い、
 「それはそうだ」とわたくしも頷かざるを得ませんでした。
 暗い夜空に黒く横たわった大文字山の一角にやがて火の手が上がり、モウモウと立ち上がる黒煙に見え隠れしつつ赤く燃える「大」の字が広がっていくさまを、わたくしたちは銀閣寺道の広い交差点から仰ぎました。30年前に見た大文字焼きと同じはずなのに、わたくしはちっとも感傷的な心境になれません。それは一つの強固な伝統行事でしたけれど、その伝統と切り離されたところでわたくしの生が営まれてきたことも、また一つの事実だったのです。
 赤く夜を焦がす大の字がただ、いつまでも山腹に燃えつづけ、やがて少しずつ人が移動してまばらになり、赤い炎もまた線から点へと衰えて、すでにポツポツと燃え残っているばかりです。
 「疲れた。もう帰ろう」とわたくしが切り出すと、
 「イヤだ」と長女が言いました。「最後まで見ていたい」
 立ち疲れているに違いない長女は、それでもジッと大文字山を仰ぎつづけています。長女の心の中ではきっと、世界のページがまた新しくめくられていたのです。まだ幼い次女と三女ははしゃぎ疲れてしゃがみ込み、妻もボンヤリと疎水に架かった橋の欄干にもたれかかっています。
 「よし、あと5分だよ」と腕時計に目を落としたわたくしが言うと、
 「うん」と長女は素直に頷きました。