桃源平にて
 
 数年前、商売をやめて店を売り払った高橋さんは、川口駅の裏に出来たばかりのマンション9階の部屋を購入しました。隠居後は穴裏町に帰るつもりで、実家を建て替えてもいたのですけれど、田舎に引っ込むのはイヤだと奥さんが反対したからです。そのマンションをわたくしが初めて訪れると、ご主人が自慢していた通り、南に向いた窓の向こうに川口城の天守閣が一望できます。春はお城の桜、秋は紅葉が美しく、それだけでもここに住む値打ちがあるとご主人はご満悦でした。
 「わたしらの年になると、女性にも食事にも淡泊になって、静かで落ち着いた景色が一番なんです」
 「テレビに若い女の子が出て来ると、この子が可愛い、あの子が可愛いと、いつも仰ってるじゃありませんか」と、まだ肌に艶のある奥さんがからかうと、
 「それはテレビの中の話じゃ」とご主人はいささか呂律をもつらせ、にこやかに応ずるのでした。「実際の相手にはならん」
 「実際だったら、私が困りますが!」と、奥さんは呆れたと言わんばかりに目を丸くしました。
 「困らんじゃろ。怒るだけじゃろうが」とご主人は、むろん冗談顔です。
 「60才を過ぎてもモテるようなら、わたしも鼻高々ですけどね」と、奥さんもたちまち冗談顔に戻ります。「でもまあ、ご院さん、喧嘩もこの程度ですむようになりました」
 「とても喧嘩には見えませんけれどね」と、わたくしは妻との言い争いを連想し、いずれこのように落ち着くことが出来るだろうか?.といささかわが家の将来に不安を感じたものです。
 地元の歴史にひどく詳しいお年寄りがちょくちょくいて、高橋のご主人もその1人でした。穴浦の夕佳山の頂きにあったお城を江戸初期、時の大名が川口に移したのはわたくしも知っていましたけれど、ご主人の話だと、多くの寺もまた、お城と共に川口に移っていたのです。
 「そうだったんですか!」と、それはわたくしには新鮮な知見でした。
 「時の権力にとって、宗教政策は極めて重要でしたからなあ」
 「そりゃそうでしょうね」と、わたくしはすぐ納得できました。「戦国時代に一向一揆が起きてますし、そもそも江戸幕府が鎖国に踏み切ったのも、キリスト教の阻止という側面があったといいますから」
 それは、何も全国規模の話だけではありません。個々の大名もまた、それぞれの藩の情勢に応じた宗教政策を行なっていたのです。
 北に向いた玄関のドアを開けると、山並みが迫る川口市の北部が眺望でき、ちょうど眼下の丘に大きな伽藍を有した寺の境内が広がっています。
 「あれは観音寺というて、もともと穴浦にあった寺ですが」とご主人が教えてくれました。
 「と言うと、観音谷にあったんですか?」とわたくしはハッと思い当たりました。
 「そうですらあ。観音寺があったから観音谷と言うんか、逆に観音谷にあったから観音寺と言うたんか、ハッキリしませんがなあ」
 「浄玄寺も初めは観音谷の入口にあったと言いますしね」と、わたくしは数百年の歴史が眼前に繰り広げられる気がしたものです。「今でも墓地だけは残っています。観音谷の人たちが昔は浄玄寺もあったのだと、つい昨日のことのように語りますから、いつのことかと確かめてみたら、400年以上昔の話でした。改めて伝承の根強さを実感しましたけれどね」
 「寺は出城でもあったんです。観音寺はちょうど川口城の鬼門の方角だから、魔除けの役目もあったんでしょうが、戦さに備えた砦だったことは確かです」
 「すると、浄玄寺が戦国時代に戦乱に巻き込まれたというのも、単なる偶然ではないわけですね」と、わたくしにとってまた新たな発見でした。
 「まさに戦場だったんでしょうなあ」と高橋さんが頷きました。
 「現代人には理解しがたい状況ですね。400年はやはり長い!」
 「しかし、400年なんぞ、人類の歴史から見れば、一瞬ですが!」
 「そりゃそうです」と、それにもまた、わたくしは同感でした。「地球の歴史から見れば、一瞬以下でしょうしね」
 「そうですなあ」と、ご主人は顔を上げて笑いました。「それでも、もう10年は生きたいと願うとりますから、人間は業が深いもんですなあ」
 「10年と言わず、20年でも30年でも元気で長生きしてください」
 「そうも行かんでしょう」とご主人は振り返り、ドアのところにいる奥さんを改めて確認する風でした。「何事にも順番がありますからなあ。わたしだけが死なんわけには行きませんが」
 観音寺に限らず、川口に出て来た寺が多い中で、なぜ浄玄寺が穴浦に残ったのか、わたくしには分かりません。それは藩の政策といった大袈裟なものではなく、単に当時の住職の判断だったのかも知れません。いずれにせよ、歴史を遡るに従って、不明な点が等比級数的に膨らんでいくのは確かでしょう。
 寺だけでなく、人もまたお城と共に移動しています。通称「北門」と呼ばれ、川口城の北門近くで馬の世話をしていたという馬屋原さんもまた、その出所は夕佳山の背後に広がる桃源平でした。桃源平の馬屋原家と言えば今でもその大地主ぶりを知るお年寄りが少なくありません。もともと穴浦城主の馬係で、城主と共に桃源平に渡って来たのか、あるいは桃源平に住み着いていた馬屋原一族が城主に召し抱えられたのか、その間の事情は不明です。
 馬屋原家の歴史に関心を持つようになったのは、桃源平へと繋がっている観音谷、荒神谷、仙人谷に馬屋原家が数多く存在し、いずれも桃源平から出て来たと語り伝えられていたからです。なるほど、いずれの家も谷の奥に集中し、昭和30年代にはまだ、東の地に赴くために桃源平から山越えをしていたといいます。また、桃源平の馬屋原さんが観音谷を通って穴浦駅に向かう姿を目撃しているお年寄りも少なくありません。しかし、同じ姓でありながら、各家の行き来はなく、わたくしが盆や報恩講でお参りするのが、もつれた糸の唯一の結び目だったのです。
 わたくしは不思議の感に打たれざるを得ませんでした。寺と門徒とは、故人によって細く結ばれているのが実際でしょうけれど、細いゆえにかえって、強靱な合成繊維のような結び付きが保たれてもいるのです。「死」とはかくまで人と人とを結ぶ強い絆ですけれど、それが等閑視されているのが「現代」に違いありません。
 また、少年時代、殊に中学生から高校生にかけて、わたくしは休みが来ると、夕佳山に登り、尾根伝いに山林を渡って、観音谷の奥に秘やかたたずむ奥池の、周囲のまだ若い赤松林を水面に逆さに映して青く澄み渡った孤独な風情をこよなく愛していました。気が向けばさらに奥地に進み、やがて頭上いっぱい大空が広がっていく桃源平に出て、ススキの穂が揺れている一本松に立って、大地の皺のような力強い丘陵地帯の南に広がっている明るい平野を眺望し、青く光る瀬戸内海から吹き寄せて来る風を胸深くまで吸い込んだものです。
 今はゴルフ場と化しているその地は、単に空と山と海と自然が広がっている場所ではありませんでした。穴浦町の発祥の地であり、浄玄寺門徒の核が形成された地でもあったのです。
 ところが、ゴルフ経営会社に山を譲ることを拒否した1軒を除き、桃源平の馬屋原家は本家も含めてみんな町に降りてしまいました。そして、その本家ではここ10年のうちに隠居夫婦とまだ中年のご主人とが次々と亡くなり、今や2人の息子が結婚したために1人住まいとなった50半ばの奥さんが残るばかりです。
 「馬屋原家の歴史を語る資料が何かありませんか?」と、報恩講参りの折りにわたくしが尋ねても、
 「何にもありません」と奥さんはあっさりとしたものでした。「桃源平からこちらに出て来る時、仏壇にあった薄汚れた反故の類いはすべて焼却処分にしたんです。お爺ちゃんは残したかったみたいですけど、そんな汚い物、わたしがイヤでしたから」
 「はあ!」と思わず嘆息したわたくしの脳裏に、貴重な書類がメラメラと赤い炎を上げて反り返り、やがて黒い灰に変ずるさまが鮮やかに想像されました。「それは残念でしたねえ!」
 「お爺ちゃんがいろいろ聞かせてくれてましたけれど、何も覚えていません」と奥さんはあくまで恬淡としています。「そんなことはお寺で分かるんじゃありませんか?.昔のことなら何でもお寺に聞くのが一番だと、実家の母がよく語っていたものですよ」