先祖の声が聞こえる
 
 戦争の傷跡が癒え、高度成長期に入った昭和30年代、雑草に縁取られた田舎道を白い砂煙を立ててまだボンネット・バスが走っていました。暑い夏の昼下がりで乗客は少なく、天井でクルクルと首を振っている扇風機の風が裕介の髪を乱し、むろん、開け放した窓から舞い込み顔にぶつかる自然の風の方がはるかに快適です。穴ぼこにタイヤが落ちるたびに横揺れするフロントガラスの前方に大きく谷が開け、その彼方に中国山脈の山々が幾重にもなだらかな稜線を描いています。
 「車掌さん!」と裕介は、乗降口の安全棒を握っている車掌に声をかけました。「金剛谷はまだですか?」
 「もう金剛谷ですよ」と、車掌はのどかな表情を向けました。
 「ええ?」と腰を半ば浮かした裕介は、「ぼくにはまだ平地にしか見えませんけどねえ」と、明るい日の光を浴びて青々と風に揺れている稲田の広がりを眺めました。
 「だけど、両側から山裾が延びているでしょう?」
 「ええ、遠くにね」
 「チラホラと家が見えるでしょう?」
 「ええ、確かに」
 「あそこはもう金剛村なんです」と、車掌の声に得意の響きが混じるのでした。「明治になって平地に鉄道が通ってから、新戸町の方が大きくなったけれど、みんな谷から出て行った連中です。谷で暮らせんようになり、新しい生活を求めて降りて行った連中ですがな」
 「なるほど」と、新戸町の由来にさして関心のなかった裕介は、後ろの座席にいるタミを振り返りました。「母さん、もう金剛谷らしい」
 「聞こえとる」
 「どうしようか?」
 「降りるしかあるまい」
 「どこで降りようか」
 「どこでもええが」
 「どこでもええと言うてもなあ」と裕介は軽く舌打ちしました。
 「お客さん、どちらまでお出でですか?」と車掌が問いました。
 「どう言やええか…」と裕介は思案顔です。「谷に寺はありますか?」
 「寺なら幾らでもあります。10か寺以上あるでしょう」
 「うーん」と裕介は唸りました。「最初の寺はもう通過したんですか?」
 「いや、まだです」
 そこで、大きく開いていた谷の入口が俄かに狭まり、水を張り青い稲穂がたわわに揺れている田圃の中の、巨大な枝を広げた楠の陰の停車場に、裕介はタミと共に降り立ちました。
 「ここからどう行こうか?」
 「車掌さんが教えてくれた万福寺に行きゃよかろう」
 「それが分からんのじゃ!」と裕介は立腹しました。「だいたい母さんが訳の分からん拝み屋の占いを信じて先祖の墓を探そうと言い出したんが、悪い。占い銭を取られた上に、無駄足を踏まされたが」
 「そんなことはまだ分かるまい」
 「初めから分かっていたことじゃが」と白い登山帽を目深に被りなおした裕介は、開襟シャツのボタンを外して、ハンカチで首筋の汗を拭いました。「子供と一緒に海に行けばよかった。何も暑い盛りに墓を探すことはなかったんじゃ」
 「盆までに探さんといけん」
 「2〜300年も昔のことが1日で分かるわけがないが」
 「そうとは限らん」
 還暦を過ぎて急に信心深くなったタミが、裕介には不思議でもあり煩わしくもありましたが、1人でも行くというタミを放っておくわけにも行きません。2人の子供を市営プールに連れて行くように妻に言い残し、タミも裕介も初めて、藤木家の先祖が住み着いていたという金剛谷を訪れたのです。それはこの春、近ごろ評判の占い師をタミがわざわざ家に招いて神棚の前で占ってもらって得た知識だったのです。
 暫く楠の緑陰にたたずみ、広い谷を吹き下ろしてくる爽快な風を浴びながら、奥に上がろうか、下手に見える農家で尋ねようか、それとも田圃を横切って向こうの山の麓の家で訊くのが手っ取り早いだろうかと迷っていると、麦藁帽子を被って首にタオルを巻き、鍬を担いだ、モンペ姿の農婦が、山裾に見え隠れしている谷間の道を降りて来ました。裕介が万福寺を尋ねると、それは向かいの山麓を南に巡って山を登った中腹にあり、歩いて30分はかかるとのことです。
 「30分ですか!」と裕介は落胆しました。
 「あんたら、見かけん顔じゃけど、町の人な?」
 「ええ」
 「汗だくじゃが。うちはすぐそこじゃから、一服して行きんさいや」
 裕介が迷っていると、
 「すみませんなあ」とタミが頭を下げ、農婦と親しげに語らいながら歩き出したものですから、彼も従わざるを得ません。
 来るんじゃなかった、と裕介は再び後悔しました。たまに親孝行すれば、こうだ!.還暦と言ったって、まだ60なんだから、これから孝行する機会はいくらでもある。妻の言う通り、今から言いなりになっていたら、今後20年も30年も言いなりかも知れないや…。
 「ここですがな」と農婦が振り向き、道に沿った畑の奥にある、藁の代わりにトタンをかぶせた農家を指さしました。
 「まあ、スイカもトマトも大きくなってますが!」と、種々の野菜が緑濃く生い茂った畑の間の小道を歩きながら、タミは感嘆しました。「わたしらの辺りでは、こうは行きませんが」
 「農協の種がええですわ」
 「農協はうちらにもありますが、ここは空気がええですが!」
 「いつもおるから、わたしにゃ分かりませんがな」
 「なあ、裕介、違うなあや?」
 「うん」と裕介は生返事をしました。
 2人を座敷の縁側に導いた農婦は、玄関の土間の奥の台所に消えてゆき、冷たい麦茶の瓶とむすびを盛った広皿とを載せた盆を手に携えて再び現われました。
 「すみません」と礼を述べた裕介は、帽子を脱いでほつれ髪のままの農婦の日焼けした顔が意外に端整であり、また、まだ若いのにちょっと驚きました。そのうえ、渇いた咽に流し込む麦茶の冷ややかさが実に心地よく、地中深く掘った井戸水は夏は冷たく冬は暖かく、水道を引いた家もあるけれど、自分たちにその気はないと農婦は語りました。
 「そりゃそうですね」と裕介も納得でした。「水道の水は金気臭くて飲めません」
 「おむすびの味も違いますが」とタミが褒め、
 「うん!」と裕介も頷くと、
 「そうですかのう」と農婦は実に愉快そうでした。
 礼を述べて炎天下に出た2人は、遠く中国山脈の峰々に懸かった白雲を仰ぎ、すぐまた噴き出して来た汗を拭いつつ、田圃を区切って続いている畦道を渡って東の山並みに至り、木陰に入るたびに一休みしつつ、山裾を巡り、葛の葉が覆いかぶさった雑木越しに万福寺の甍を望みました。
 「まだ遠いなあ」と裕介はウンザリし、
 「もうすぐじゃ」とタミが励ましました。「あんた、まだ若いのに、だらしがないなあ」
 それには答えず、さっさと先に歩き出した裕介は、寺の境内まで伸びている石段を仰いでまたウンザリしましたが、タミを待たずに一段飛ばしの大股で最後の力を振り絞って登りました。そして、山門をくぐると、古色蒼然たる伽藍が目前に大きく立ち塞がり、ゆったりと迫り出した甍の下の回廊に深々とした空気が潜み、涼しげな蝉の声がミンミンと裏山からこだまして来ます。七年間地中で生息したあと、たった七日間地上で鳴くという蝉の声は、甍の影に入った裕介の鼓膜に痛切に響きました。幼い頃、むろん、友達と蝉取りに興じたものですが、その時その声はこんなに胸に響いただろうかと、ふと裕介は不思議の感に打たれました。
 もう子供でないということだと、もやもやとした物思いをサッと払って、本堂に上がる階段にドンと腰を下ろし、ハアハアとまだいささか荒い息を整えながら、裕介は、山門にまだ姿のないタミを待ちました。
 「何かご用ですかのう?」と声をかけられ、振り向くと、庫裏から紺の作務衣を着た老僧が出て来たところでした。
 「先祖の墓を探しているんです」
 「ほう、それはご奇特なことで。で、それとうちの寺と何か関係がありますのかのう?」
 「それはよく分かりません」
 「というと?」
 「実は母が占い師に占ってもらったところ、うちの先祖の墓が金剛谷の笹藪に埋もれかかっている、早く救い出さんと禍いを招くかも知れんというご託宣を受けまして、慌ててその墓を探しに来たんです。それだけの材料だから見つかるはずはないんですけれど、まあ、母を納得させるために、無駄足を運ばざるを得ませんでした」
 「ほう、笹に埋もれかかった墓がのう!」と老僧は、裕介の予期に反して実に奇妙な顔をしました。そして、実は寺の裏に幾つか無縁墓があり、それもちょうど笹が茂って困るから、それを伐採する機会に一緒に処分しようかと考えていたところなのだと語るのです。
 「本当ですか?」と、今度は裕介が奇妙な顔をしました。
 「こちらですがな」と老僧が促し、やっと山門に辿り着いたタミと共に、裕介は、本堂の裏手で半ば日の光を遮りヒンヤリとした空気を湛えて聳えている杉木立の中に、サラサラと熊笹の葉を分けて踏み込んでいきました。そして、節くれ立った根っこが地表に露出した杉の大木を囲んでいる笹むらを老僧が杖で払ってみせると、なるほど、風雨に晒されて角が欠け傾いだ墓石の群れが次々と苔生した青灰色の姿を現わすのです。
 裕介はその1つにしゃがみ込み、正面の『釈云々』という法名はさておき、その横を見ると、『天保三年没』とあり、『源三』という俗名もまだ何とか解読できました。
 「源三という人なら、うちの過去帖に載っとるで」とタミが言い、
 「すると、これが先祖の墓な?」と、まだ得心の行かない裕介は、墓に刻まれた字面を指先で確かめつつ次々と読んでいきました。読める墓もあれば、読めない墓もあり、読めてもタミに心覚えのない名もありましたけれど、タミが先祖の名を全て記憶しているわけではなく、また、家の過去帖に記載ミスがないとも限りません。
 「とにかくこれがうちの先祖さまじゃが!」とタミは感激し、1つ1つの墓の前に跪いて、ナムアミダブツ、ナムアミダブツと称えて回りました。
 「しかし、不思議なこともありますなあ!」と老僧も感に堪えぬ表情です。「これは、先祖の呼ぶ声が、占い師を通してお宅に届いたとしか考えられませんが!」
 「うーん」と唸った裕介は、肯定も否定もできないままに立ち尽くす他ありませんでした。