明日に乾杯!
 
 夜の幸甚町はスナックの看板が闇に浮かぶ歓楽街に変貌するのです。『ルージュ』の前でタクシーを降りた山村氏は、しかし、『ルージュ』が目的だったわけではありません。その横手の路地に庇を張り出した雑居ビルに扉を並べているスナックの前を通過し、いちばん奥の『みやこ』の扉を開けたのです。カランコロン!.と扉の上に付いた鈴が鳴って、カウンターの奥にいたママが、
 「あら、山村くん、久しぶり」と言いました。
 「相変わらず客のいない店だな」と山村氏は軽口を叩きました。
 「ご挨拶ね」と笑いながら、ママは山村氏が坐ったカウンターの上におつまみを用意し、グラスにウイスキーを注ぎました。
 「氷は2つでいいよ」
 「何で割ろうか?」
 「氷だけでいい」
 そして2個の氷が入った、琥珀色のウイスキーが3分の1ほど輝いているグラスを手にし、明かりで透かして、
 「これ、サントリー?」と山村氏が尋ねると、
 「違う、ニッカ」とママ。「変えようか?」
 「いいさ」と口を付けた山村氏は、「なかなかコクがあるじゃないか」と喜びました。
 「でしょ!」と、もう50近いママはまるで小娘のように両手を打ち合わせるのでした。「お客さんに勧められて入れたんだけど、けっこう評判なのよ」
 「いよいよクミちゃんも店の建て直しを図りだしたか」と改めて山村氏はいつに変わらぬ内装を見回し、竹の腰板を張った薄茶色の壁に掛けられた日本画(それはいずれも、『みやこ』をひいきにしている著名な画家の小品でしたが)を眺めて、
 「○○先生はお元気?」
 「ええ、今でも時々お見えよ」
 「もう80を越えてるだろう」
 「そうね」
 「しかし、今時カラオケのない店は珍しい」
 「お金がないの」とママ。「山村くん、買ってよ」
 「ぼくはそんな金持ちじゃないよ」
 「あら、ウソばっかり」とママは清楚な表情に媚びを含ませるのでした。「弁護士稼業は流行って困るでしょう」
 「流行らないから、ここに来るんだ」と山村氏はグラスを差し出し、ママがウイスキーを注ぐと、深皿に盛られた氷をまた2個、自ら掬ってグラスに落としました。「それに、そこまでクミちゃんに惚れ込んでないしね」
 「だってもう30年来のつき合いなのよ。奥さんより長いじゃないの」
 「人づき合いは『細く長く』がモットーなんだ」と山村氏はもう1つのグラスにウイスキーと氷を混ぜてママに渡し、
 「乾杯!」と自分のグラスを差し出しました。グラスを手にしたママは、
 「何に乾杯しようか?」
 「ぼくたちの明日に乾杯!」
 「まあ、若いのね」とグラスとグラスを触れ合わせ、ママもグラスに口を付けた時、カランコロン!.と扉が鳴りました。
 「あら、サッちゃん!」と驚くママに、山村氏が振り返ると、薔薇の花柄を大きくあしらった真っ赤な絹地のワンピースを着た若い女が入って来て、カウンターの中の椅子に無造作にバッグを放るのでした。
 「今日は無理しなくてもよかったのに」とママが言うと、
 「何となくママに会いたくて」と若い女は言いました。「迷惑だったかしら?」
 「そんなこと、ない」とママは口にハンカチを当てて口紅の乱れを直しました。「ちょうどよかったわ。こちらはうちに古くからお馴染みの山村さん。名うての弁護士さんだから、困ったことがあったら相談してね。親切にアドバイスしてくれるはずよ。この子、半年前から時々手伝ってもらっているサチコさん。みんなサッちゃんって呼んでるわ。波乱万丈の人生を歩んできた子だけど、根はいい子なの。可愛がってあげてね」
 「なるほど、ママが本気で経営の建て直しを図っているのが分かったよ」と冗談を飛ばした山村氏は、目を伏せタバコをふかし出したサチコを注視するのでした。そして、
 「ぼくを覚えてる?」と声をかけても、サチコはぼんやりとタバコの煙を吐き出すばかりです。
 「あらっ、顔見知りなの?」とママの方が驚き、
 「覚えてるよね」とやはり注視したまま山村氏が繰り返すと、サチコは小さく頷きました。
 「どうして?」とママは交互に2人を見比べるのでした。
 「昔、ある件を依頼されてから、ずっと彼女のお父さんと懇意なんだ」
 「まあ、奇遇ね!」とママは両手を打ち鳴らしました。「世の中って、ときどき神様のイタズラとしか思えないことが起こるんだから」
 実はここ10年、山村氏は折に触れて彼女の父から相談を受けていたのです。サチコは、中学時代に転校先でイジメを受けて以来、グレはじめ、高校を中退すると夜遊びを覚え、いくら両親が注意しても聞かず、果ては母を殴る蹴るの乱暴を働きはじめた上に、父にも手を出すようになったというのです。山村氏が、時には叱ったり殴ったりすることも必要だろうといくら忠告しても、幼い頃から一人娘として大事に育ててきた子供に急に厳しくはなれないと両親は語るのでした。
 『少しはおれたちのことも考えてくれ』と父が哀願すると、『あんたの頭には世間体しかない』と、かえってサチコは激昂するのでした。『わたしはあんたのオモチャじゃない!』と叫んで、父を足蹴にし、それでも黙ってうつむいたままの父をキッと睨み付けて家を飛び出し、それきり帰らなくなったのです。遊び仲間の住居を転々とし、勝手に結婚してすぐさま離婚し、どうしても金に困った時だけ、不意に家に立ち寄って金の無心を繰り返していたのです。
 「ママさんのおかげで、もう親とはいっさい関係ない」とサチコは灰皿でタバコを揉み消し、「お代わり、どうですか?」と白く細い指を差し出しました。その手に空のグラスを渡した山村氏が、
 「クミちゃんも人助けをする年齢になったんだ」と茶化すと、
 「赤字を計上してまでは出来ませんよ」とママは静かな顔で応えました。「サッちゃんはほんとに人扱いが上手だから、お客さんにも評判なの」
 「一石二鳥か」
 「そう」
 「だけどサチコさん、いつまでも今のままではダメだろう」と山村氏が諫めました。「人生、これからなんだから」
 「そういう言い方、やめて欲しいのよね」とサチコはうそぶきました。「わたしの人生をわたしがどう生きようと、わたしの勝手じゃん」
 「親が心配してるよ」
 「あれは親じゃない!」とサチコは口を歪めて吐き出しました。「勝手に生んで、勝手に可愛がり、自分に都合が悪くなると、今度はわたしが何をしても見て見ぬ振りをしているだけの連中じゃん」
 「バカ野郎!」と静かな店内が割れんばかりの大音声を氏が発し、思わずママも肩をすくめ、驚いたサチコは顔を上げました。「いつまで人のせいにしていれば気が済むんだ!.イジメられたのは確かに友達にも学校にも親にも落ち度があったかも知れないけれど、全てを人のせいにして、それで解決が付くのか?.わがままに育った自分の性格を、いつまでも大事にしてるだけじゃないか!.そういう風に育てた親の責任は大きいし、それが負い目になって、2人とも言いなりなんだろうが、あんたももう25だろう。墓場の中まで、やれ親のせいだ、学校のせいだ、友達のせいだと、子供じみた言い訳を持っていく気か?」
 大きく息を吸い込んで山村氏を見つめていたサチコは、しかし、反駁できませんでした。彼女を凝視している氏の瞳の真っ直ぐな光が、全身を強く包み込むのを感じていたからです。そして、フッと吐息してウイスキーを飲み干す氏の喉の動きが、ひどく懐かしくサチコの目に映るのでした。
 「クミちゃん」とグラスをカウンターの上に置いた山村氏は、しみじみと語りました。「おれたち、結婚すべきだったのかな?」
 「何よ、藪から棒に」と、再び和んだ空気を失うまいと、ママは愛想笑いを作りました。「そう思うなら、カラオケセットを買ってよ」
 「いや、この店は今やカラオケがないところが稀少価値だ」と山村氏は言いました。「正直言って、当時、水商売の女と結婚することに抵抗があった。せっかく軌道に乗りかけた弁護士の仕事の支障にならないかと、姑息なことを考えてさ」
 「それで良かったのよ」とママは愛想笑いを浮かべたまま、視線を落とし、布巾を手にしてカウンターの上の汚れを拭いました。「山村くんはわたしにとって、旦那さん以上に大切な人生の伴侶なんだから」
 「それはおれも同じさ」
 そして親密に話し込みだした2人の姿を、サチコは遠い自らの未来に重ね合わせるのでした。10年後、20年後、はたして自分はどうなっているのかしら?.心を打ち明けられる相手が、男でも女でもいいけれど、1人でも現われているかしら?
 「サッちゃん」と不意に山村氏が顔を向けました。「これからラーメンでも食べに行かないか?」
 サチコが迷っていると、
 「行きなさいよ」とママも勧めました。「今日は私1人で大丈夫だから」
 そして、
 「はい」と返事をしたその声の素直さに、サチコは自ら驚くのでした。