帰港
 
 島々を縫って大海原に白い水脈を残しつつ、1隻のフェリーボートがトコロ島に近付き、東向かいの仙人島との間を流れる潮に乗って南に回り、山懐に抱かれた小さな港に到着したのです。埠頭にモヤイ綱が投げ渡され、緩衝用の古タイヤにぶつかっては波飛沫を散らして揺れる船から慎吾が陸に飛び移り、振り返って鏡子に、
 「渡れる?」と問いました。
 「大丈夫よ」と、鍔の広い帽子を目深に被りなおした鏡子は、頭陀袋のような布のバッグを肩に掛け、水色のショートパンツをはいた脚を陽光に曝して初めての島に鮮やかに踏み込みました。すると、海と陸の輪郭が陽炎に溶け込むほどに明るい午後の大気の中に、粘っこい潮の香に混じって生臭い魚の匂いが漂ってきました。帽子の陰から見やると、白い腹を曝し口を開けた魚たちの並べられた棚を囲んだ女たちが3〜4人、ジッとこちらを窺っていたのです。
 「あれまあ、慎ちゃんじゃないきゃあ!」と女の1人が薄汚れたエプロンで手を拭きながら叫びました。「こんなところまでデートをしに来たんな?」
 「そういうことじゃ!」と慎吾も途端に島の言葉で答えました。
 「何も見るところはなかろうが!」
 「いっぱいある」
 「珍しゅうもなかろうが!」
 「タケさんにはそうでも、そうでない人もおる」
 「そりゃおろう!」とタケさんは探るような視線を鏡子に投げかけ、女たちはケラケラと笑い転げました。
 海岸線がそのまま急傾斜で迫り上がっているのがトコロ山で、その中腹には今も城跡の石垣が残っているのだと慎吾が指さす辺り、日が翳り緑を深くした森の中に、なるほど、確かに薄茶色っぽい岩肌が覗いています。
 「おれたちの先祖は、あそこで往来する船を見張り、通行料を取っていたんだ」と慎吾は語りました。「早い話、海賊だったのさ」
 「昔の話じゃん」と、鏡子は興味深げに山を仰ぎました。
 「しかし、その子孫であることに変わりはない」
 「小さな村で代々婚姻を繰り返してきたわけ?」と鏡子はふと気になりました。「近親相姦にならなかったの?」
 「それは大丈夫さ」と、慎吾は浜辺で遊ぶ子供たちに手を振りました。「金銀財宝ばかりが船荷じゃない。女だっていたよ。それでも足りなきゃ、陸に盗りに行けばよかったんだ」
 慎吾に向かって手を振って応える子供たちはみんな真っ黒で、目と歯とが異様に白く、また掌の白さも眩しく鏡子の目に映るのでしたが、どの子も素っ裸です。さすがにその傍の母親は下着姿でしたけれど、太腿まで裾をからげて海の中に入り込み、濡れて半透明になった薄い衣服の下に血色のいい乳房がたわわに揺れています。警戒心を込めて見つめる母親に向かっても、慎吾は手を振り、
 「ジュンちゃん、久しぶり!」と叫びました。「子供が大きくなったなあ!」
 しかしジュンちゃんは黙って慎吾と鏡子を見比べるばかりで、2人が海辺の道を通り過ぎて暫くしてから、
 「あんたの子じゃないけんねえ!」と叫ぶのでした。
 汗がにじみ出て黒く濡れたTシャツ姿の慎吾の背中に向かって、
 「どういう意味?」と鏡子は問いました。「この島独特の挨拶なの?」
 「同級生なんだ」と慎吾は前を向いて歩きながら答えました。「中学の頃までよく遊んだものさ」
 浜辺で遊ぶ黒い影を振り返った鏡子は、
 「ああいう風に?」と問うのでした。
 「ああ」
 「中学生といえば、もう子供じゃないわね」
 「微妙な年頃だろうな」と慎吾も肯定しました。「だからさっき、おれの子供じゃないって叫んだのさ。もちろん、冗談だけどね」
 それはもちろん、単なる冗談ではなかったはずです。若い男女が裸で砂浜で戯れていればどうなるか、鏡子にも容易に想像できることでした。
 白砂交じりの道に沿って海に向かって開いた家々は、暗い屋内の奥に明るい裏庭が見透かせ、たいてい畑道具を並べた納屋があり、コココココッと鶏が鳴いています。男たちはまだ出漁中で、女たちは夕飯の買出しに出かけ、どの家も開け放されたままでしたけれど、それはむろん、よそ者が忍び込む恐れのない離れ小島だったからです。
 海を離れ畑を巡って山に向かうと、土塀を巡らし黒い屋根瓦を高く反らせた家が見え、それが慎吾の実家だったのです。門を潜って玄関先で「ただいま」と慎吾が声をかけると、奥の土間から60格好の母親が現われました。
 「ほんとに帰って来たんか」と母親は無表情な顔を慎吾を向け、背後の鏡子をチラッと見やりました。「その人が許嫁かい?」
 「そうなるかも知れないんだ」と慎吾は言いました。「もっとも、キョウちゃんがどう返事するか分からないけど」
 「どうして前もって連れて来た?」
 「おれの故郷を知っといた方がいいと思うたからじゃが」
 「ふん!」と母はせせら笑いました。「家など捨てりゃよかろうに。若い者はみなそうしとるが」
 「人それぞれじゃな」
 「おまえも捨てたが」
 「捨てとりゃせん。ちょっと出とるだけじゃが」
 「『ちょっと』が20年か?」
 「まだ15年じゃがな」と言って慎吾は振り返りました。「あまり気にしないでくれ。お袋はこういう調子だけど、口先ほど冷淡なタイプじゃないんだ」
 「ふん、分かったような口を利きよる」と母親は苦笑しました。「ま、今の若い人の気持ちはわたしらには知れんから、好きにするがよかろう。鏡子さんと言うたかいな?」
 「はい」と玄関の庇の陰に入って帽子を取った鏡子は、ニッと微笑んで小首を傾げました。「お世話になります」
 「東京の人じゃと聞いとるが、こんな島の人間と一緒になる気がほんとにあるんかいな?」
 「わたしは島と結婚するわけじゃありませんから」
 「そりゃそうじゃが、そうとばかりも言えんじゃろう」
 「それにお爺ちゃんとお婆ちゃんが田舎でしたから、抵抗はありません。子供の頃に夏休みに行って、セミやトンボを捕ったのがとても懐かしいです」
 「セミやトンボならなんぼでもおるがのう」と母親はまた苦笑し、慎吾に向かって、「鏡子さんの部屋を離れに支度しといたから、案内してや」と言いました。
 父親が丹精を込めて剪定している庭を抜けて、母屋に棟続きに建て増された、サッシ窓の付いた離れに鏡子を導くと、
 「ここはエアコンもあるし、ユニットバスもある。まあ、最新設備のある部屋だろうな」と慎吾は畳の上にあぐらをかき、「島の第一印象はどうだった?」と問うのでした。
 むっくりと膨らんだ布のバッグを肩から下ろして自分も畳に坐り、東の土塀の彼方に打ち寄せている白波を眺めながら、
 「意外に明るいのね」と鏡子は答えました。「もっと閉鎖的なところかと思ったけど、結構さばけてるじゃん」
 「そうかなあ」と慎吾は畳の上に寝ころび、天井を見すえました。「おれには暗い島だったけどね。もっとも、今では少し違うけど…」
 「でも、悪い人はいないみたい」
 「衆人環視の生活だから、悪さなど出来ないさ」と、やはり寝ころんだまま、慎吾は鏡子の方を振り向きました。「だって、『悪』って、いずれにせよ、エゴイスティックなものだろ。そんな人間、村八分にされるか、海に放り捨てられるだけだもの」
 「小さな共和国ってわけね」と鏡子がなお海を眺めていると、また浜辺で真っ黒な子供たちが遊んでいます。そして、ねっとりと青い海面に太陽の熱が張り付いて白い波頭が立ち騒ぎ、小舟が揺れやみません。
 「というか、ひどく粘っこいところがあるのさ。陰湿と言ってもいいけど、それは、実際に生活してみないことには実感できないだろうな」と起き上がった慎吾は、ぴっちりと張ったショートパンツの裾に露わな鏡子の太腿に頭を預けるのでした。「小学校と中学校を隣の大島までフェリーで通ってて、トコロ者、トコロ者と、事ある毎に差別されてきたからね。だから、高校は何としても、大島じゃなくて、本土に出たかったんだ。それから大学は東京に出たかったし、仕事も東京でしたかった。ずっと街で暮らすつもりだったのに、きみとの結婚を考え出してから、おれの人生は何なんだろうって振り返るようになったんだ。仕事をして、子供を育てて、そしてその後、本当に後悔しないだろうか?.島の生活はきれいさっぱりと忘れられるほど、無意味だったんだろうかってね。そう考え出すと、もう一度、きみと帰る必要があるように感じてさ。きみに見限られて、バカな真似をしたと後悔するかもしれないけれど、でもきっと、黙ったままだと何かシコリが残ると思うんだ」
 「分かる気もするけど…」と慎吾の髪の毛撫でていた鏡子は、すぐに太腿から全身にかけて汗が噴き出し、それを察した慎吾は頭を上げました。
 「まだ時間があるから、裏山に登らないか?.寺があって、海がよく見えるんだ」
 それは、慎吾の家の横からつづれ折りに登っていく山道の上に見えました。道の周りに広がっている蜜柑畑の緑の群がりを抜けて桜葉影の揺れる石段を登ると、民家風の庫裏と小ぶりの本堂が並んでいる、低い塀と低く刈り込んだ庭木が巡らされた寺の境内があり、ちょうど眼下にトコロ港を見下ろせるのでした。海岸線に沿ったわずかな平地に村の家々がひしめき、大海原に両手を広げるように張り出した突堤の中の入り江は大空を映して青く静かに凪いでいます。そして、仙人島の向こうの海面に島々が見え隠れし、その先はもう本土で、ここまで来ては、慎吾はよく独りで海の彼方の地を憧憬していたというのです。
 「それは幸福の青い鳥だったのかも知れない」と慎吾は心地よく吹き上げてくる夕刻の風に顔をさらすのでした。「まだ他の地に求めているけれど、結局、わが家だったということになりかねないや」
 「じゃ、わたしは何なのよ?」と鏡子が問いました。
 「だから、それがきみさ」と微笑みながら慎吾が振り向きました。「きみに逢って初めて、故郷が懐かしくなりだしたんだから、きみこそ青い鳥なんだ」
 「ふーん」と、鏡子は、トコロ島の影に被われ濃紺色に沈んだ海面の沖にまだ黄金色に輝いている仙人島の急峻な山頂を眺めました。かつて、流れが急な海を渡って仙人島まで泳ぎ切ることが、トコロの人々にとっての成人式だったといいます。また、かつて村人の目を盗んで仙人島で逢瀬していた若人がいて、女を疎んじ出した男が、ある夜、女を島に誘い出しながら、目印の常夜灯を消したために女は溺死し、その祟りを恐れた村人たちが建てたのが、仙人島の突端の岩の上に見える、朱塗りの社が鮮やかに夕陽に映えている羽衣神社だということです。
 「小さな島にもいろんな歴史があるんだ」と鏡子が思わず大きな声を発すると、
 「そういうことさ」と慎吾は頷きました。「大島でも東京でも、差別されないように肩肘を張っていたけれど、おれはトコロ島の海と空がいちばん好きだ。それを隠して生きていたら、きっと後悔する。だから、きみにも共有してもらいたくてここまで一緒に来たけれど、それってエゴイスティックな無理強いかしら?」