カリフォルニア・ワイン
多くの乗客と共にプラットホームに吐き出された和之は、階段を下り、改札口を抜けて、明かりの乏しい駅裏の界隈に出ました。信号のある交差点を渡って駐車場の横を行くと、もう靴音がコツコツと夜に響く静けさで、予備校の玄関先にジャンパーにジーパン、スニーカー姿の若者がたむろし、健康な肌を寄せてささやき合っています。1つ、2つ、3つと路地を渡り、さらに暗く静かになり、長い塀に囲われた宏壮な住宅群の上に聳えるツィンの高層マンションの正面に回り、エレベーターに乗って9階にある自分の部屋に帰りました。
ネクタイを外しスーツを脱いで浴槽に湯を張っていると、ピンポンと玄関ホールの呼び出しが鳴りました。
「どなたですか?」
「わたし。安代」と、数年ぶりに聞く、しかし確かに聞き慣れた安代の声です。
「すぐ開けるよ」
「もう夕食、すんだ?」
「いや、いま帰って来たところなんだ」
「どこか行かない?」
「分かった。待ってて」と言って、和之はまたネクタイを結び、スーツを身に着けると、またたくまにエレベーターが地上に降ろしてくれました。
静かな照明の降り注ぐ玄関ホールにたたずむ安代は赤い花柄模様のあるベージュのワンピース姿で、爪先の尖った濃い紅のハイヒールを履き、片手にコートを抱えています。
「久しぶりね」と安代。
「うん」
「いつ帰って来たの?」
「この春さ」
「じゃあ、もう半年経つじゃないの」と安代はちょっぴり眉をしかめました。「どうして連絡してくれなかったのよ?」
「連絡したら会ってくれたか?」
「それは分からないけど…」
「ずいぶんと凝った服装だね」と和之は話題を変えました。「芝居見物かファッション・ショーの帰りみたいだ」
「当たらずと言えども遠からず、ね」と安代は言いました。「デートの帰りなの」
「それは、それは!」と和之は皮肉な調子を抑えることが出来ませんでした。「彼氏と夕食をしなくてもよかったの?」
「彼氏じゃないわ」と安代は真っ直ぐ和之の瞳を覗き込みました。「人生の同伴者よ。2度と失敗しないためには、冷めた目で選ばなきゃね。鷹揚なタイプかどうかも、重要な目安だから」
「きみも思慮深くなったんだ」
「だってもうすぐ35だもの」
「冷めた2人がわざわざ一緒にならなくてもよかろうに。1人の方が平和だしさ」
「あなたのように?」
「そう!」と和之は快活さを装うのでした。「ところで、どこに行く?」
「どこでもいい」と安代は和之の腕に手を回しました。「あなたの好きなところに連れてってちょうだい」
「ああ」と安代の手を握り返して表に出た和之は、携帯電話で予約を入れ、駅に向かう空車のタクシーを拾いました。安代が乗り込み、続いて和之が乗ると、
「どちらまで」と運転手が聞きました。
「高須台の『プランタン』が分かる?」
「分かります」
信号が青に変わり、いささか急発進したタクシーの後部座席でバランスを失した安代は、和之にもたれかかりました。
「すみません」と運転手が謝り、
それには答えず、和之は優しく安代の肩に腕を回しました。
「わたし、とても惨めなの」と安代。
「おれもさ」と、かつて観たビデオがまた再生される気だるさを感じながら、和之は窓の外を流れていく夜景に焦点の定まらない目を向けました。
タクシーは新幹線の高架に沿って西に進み、暗く沈んだ住宅街を抜け、道路沿いに大きな駐車場を持った大型店舗の連なる郊外の繁華街を北に向かいます。そして、高速道路のインターチェンジの近くから山裾をゆったりとしたカーブを描いて登りつづける道路を走って、夜の底に広がった街の灯が遠く海岸線まで見渡せる『PRINTEMPS』に到着したのです。
淡い光に照らされた受付で名前を告げ、待合室に通されると、ちょうど足元辺りの壁が刳られてガラスが嵌められ、わずかに見える植え込みに白い静かな照明が注いでいます。ウェイターにコートを預けた安代は、
「結婚相手のこと、少しも聞いてくれないのね」と言いました。
「きみのことだから、きっといい相手を選んだのだと思うよ」
「それ、皮肉?」
「いや、ささやかな希望さ」とソファに深くもたれかかった和之が、タバコに火を点け、深々と吸い込んで白い煙を吐き出すと、
「わたしにもちょうだい」と安代が白い手を差し出しました。そして2人は黙り込み、刷毛の跡のような凹凸のある薄黄色の壁に掛かったピカソの複製を眺めるのでした。
「もう10年近くになるわね」と安代がつぶやきました。
「うん?」
「ブランデンブルグ門を見に行ってから」
「ああ…」
「でも結局、ドイツの統一なんて、わたしたちには関係のないことだった」
「うん」と、和之はまた、同じビデオが再生されていく気だるさを覚えるのでした。
「というか、わたしたちにとって地獄の始まりだったわね」
「2つの国家は1つになったけれど、おれたちはそうは行かなかったからね」と和之は自嘲するのでした。「あれから10年か。確かに短くないよな」
「何かが決定的に変わったと信じたのに、結局、何にも変わらなかった。むしろ悪くなったみたい」
豊満な母子が抱き合ったピカソの複製からチラッと安代に視線を移した和之は、
「でも、きみは第一歩を踏み出したわけだ」と静かな声で言いました。「おれは本当にうまく行くことを願ってるよ」
「ありがとう」と、淡い照明を受けている植え込みを足元のガラスを透かして見つめながら、安代は答えました。
まもなく南向きの、壁も天井裏も白く塗られ、黒い梁を露出させた、天井まで届く窓に蔦模様の枠のあるメインルームに案内されました。2人は比較的小さなテーブルに導かれ、
「お飲み物はいかが致しましょうか?」とウェイターが尋ねます。
「ワインでいい?」と和之が聞き、
「いいわ」と安代が答えました。
「赤と白、どちらがいい?」
「どちらでも」
「じゃあ、赤ワインを1本」と和之が言い、
「承知いたしました」とウェイターはカウンターの奥に消え、まもなく、銀色の盆に1本のワインと、ワイングラスを2つ載せてやって来ました。
「これはカリフォルニア・ワインだ」と、瓶のラベルを読んだ和之が言いました。「舌触りが軽いはずだから、きっときみにも飲みやすいと思うよ」
「思い出すんでしょう」
「何を?」
「カリフォルニアの3年間を」
「ああ」と、和之はまるで他人事のような素っ気なさです。「ただ仕事をしていただけの3年間だったから、不思議なほど思い出がないんだよ。乾燥し切った大気の奥にシェラネバダ山脈の山襞が茶色く刻まれているのを眺めて暮らしていただけさ」
そして窓の外を見ると、水銀灯に照らされ葉陰の闇を深々と湛えた、網目状の枝々の向こうにチラチラと街の灯が広がっています。遠く低く車の騒音が夜の街に立ち上がり、さらに聞き耳を立てると、すぐ目前の茂みから地に棲む虫の音がかすかに届いてきます。
「それがおれには必要なことだったんだけどね」と、しばしの沈黙の後につぶやいた和之は、丸いグラスの底に揺れている真紅のワインを飲み干しました。
まずスープが来て、前菜、パン、魚料理、そしてメインディッシュの肉料理が運ばれ、最後のデザートをスプーンで掬いつつ、
「わたしたち、知り合うのが早すぎたのね」と安代は言うのでした。「今知り合ってたら、きっとうまく行っていたと思うもの」
「うん」と和之は素速くデザートを平らげました。「そう考えるのも、いいかも知れないな」
「あなたはそう思わない?」
「そう思ってほしいなら、もちろん、おれに異論はないけどね」
「ふう」という溜め息と共に、安代はカチャリ!.とスプーンを陶器の皿に落としました。「ウソでもいいから、おれはこうなんだという癖なり性格なりが何なりが、欲しいのよね。あなたはまるで無色透明なのよ。そう、まるで透明人間なの」
「そうかも知れないね」と和之は顔を上げ、やって来たウェイターに紅茶を注文し、安代はコーヒーを注文しました。
窓の外は夜が更けてゆき、街の灯も星の光も、ますます秘やかに息づいています。ガラスに映る自分とその向こうに広がる闇を見つめていた安代は、
「それは当たり前でしょ?.それが一番大切なことじゃない!」と自問自答するかのでした。「全人類でも全女性でもない、このわたしを愛して欲しかったのよ」
そう言われても、一体自分のどこがまずかったのか、和之は思い出せません。あるいは、思い出したくなかったのかも知れません。ただ、眠れぬままにホテルの窓から2人で眺めた、ベルリンのモノトーンの夜明けの空しさを脳裏に思い描くばかりです。
「しかし、きみは新たな一歩を踏み出したんだ」と、和之は過去を振り切るように繰り返しました。「おれの胸にも確かに、1つのメッセージが届いたよ」
「ふう!」と安代はまた溜め息を吐く他ありません。「失わなきゃ分からないなんて、わたしたち、不幸ね」
「いや、幸せさ」と和之は静かな微笑を湛えるのでした。「何が幸せが分かり始めただけでも、きっと幸せなんだ」
やって来たコーヒーをぐいと飲み干し、和之の瞳の中を覗き込みながら、
「あなたはいつまで経っても、プラトニックにしか生きられない」と安代は宣告するのでした。「幸せも不幸せも、みんな自分の殻の中の出来事なのよ。だから夜の景色が好きなのね。暗くて、自由に想像できるから。だけどわたしは、いずれ日は暮れるだろうけれど、やっぱり、明るい、暖かい日々を過ごしたいの」
黙って夜の街を眺めていた和之は、テーブルに視線を戻し、白いテーブルクロスの上にあるワインの瓶を手にし、安代のグラスに差し向けて注いだ後、自らのグラスに残りの全てを注ぎ込みました。そして、その丸いグラスを右手に包み込むように持ち上げて、
「コングラチュレーション」と静かに述べるのでした。
「ありがとう」と安代もまたグラスを持って口を付け、「今夜、あなたに会えてよかった」と静かに微笑みました。「中途半端なまま次のステップを踏み出すやましさが、吹っ切れた気がする」
「おれもやっと役に立ったわけだ」
「全て、もっと楽しく振り返られる時が来ればいいわね」
「そりゃ来るさ」と和之も微笑しました。「時は過ぎ去るだけで、決して逆行しないんだから」
「そうね」と安代は頷きました。「春の次に夏が来て、やがて秋が来るものね。そして冬が来て、誰も老いてゆくしかないのよね」
「そしてまた春が来る」と和之は静かに言い添えました。
「その時、また会いましょうね」
「ああ」
そして2人は席を立ち、別々のタクシーを頼んでくれと言われた和之は、2台のタクシーを呼んで、暗い、人気のない『PRINTEMPS』の駐車場で安代と別れたのでした。