明るく清潔な場所
谷の奥にゴルフ場を作りたいから共有林の一部を譲渡してほしいと企業から持ちかけられた時、谷の世論は二分されました。賛成派と反対派で真っ向から対立し、本家から分家と分かれて同姓の多い谷のあちらこちらで、果ては互いの家庭内のアラ探しをして触れ回る事態にまで立ち至ったのです。谷の平和が乱されるのを見かねた多作さんは、
「会社に交換条件を出そうじゃないか」と提案したのでした。「ゴルフ場が出来たとしても、わしらに何のメリットもありゃせん。雀の涙ほどの補償金を貰えるだけじゃが。そこでわしは思うんじゃが、谷の道が細うて、町にいくら申請しても広げてくれんじゃろう。あれを会社に頼んで広げてもらって、ゴルフ場までつないでもらおうや。そうすりゃ山越えをして街に出られるから、便利になる。ゴルフ場に行くルートが1つ増えるから、会社もきっと同意するはずじゃ」
集会所に集まっていた人々は、目から鱗が落ちたようにパッと顔が輝き、みんな大賛成でした。ちょうど、長引く論争に誰もがウンザリし始めていた頃だったのです。
「わたしは反対じゃな」とコウメさんは赤銅色の皺の寄った顔に光る目を真っ直ぐ多作さんに向けるのでした。「広い道が出来て何が変わる?.若い者が車やオートバイで谷を走り回るようになるだけじゃが。それで困っとる谷をわたしはいっぱい知っとる」
「そりゃコウメさん、あんたが運転せんから分からんのよう」と多作さんは穏やかな表情で応じるのでした。「帰ってご主人に相談してみいや。きっと賛成してくれるはずで」
「うちの亭主はわたしと同じ意見のはずですがな」
「軍治さんはコウメさんの尻に敷かれとるからのう」と会場から誰か茶化すと、ドッと笑いが沸きました。しかしコウメさんも負けていません。その方向を振り返って、発言者を確認し、
「それが家庭が丸く治まるコツというもんじゃろう。ゲンさんももう少し女房の気持ちを理解してやらんと、いけん。わたしがいつもツルさんの愚痴を聞いとるから、あんたの家は平穏無事なんで。もうちょっと感謝してや」
会場はますます沸き、しかし結局、多作さんの提案が了承されました。コウメさんも一度自分の意見を口にした後は、それほど拘泥しなかったのです。
「みなさんの意見に従いますが」とコウメさんはサラリと答えたものでした。「多作さんの話じゃと、うちの亭主も賛成するということじゃしな」
そしてゴルフ場が完成し、続いて谷からゴルフ場に至る舗装道路が出来上がると、途端に朝夕、幹線道路の渋滞を避けた通勤の車が走るようになったのでした。朝の7時半から8時半にかけて、車の流れに逆らって谷を下っていくのは危険で、殊に車で下るのは不可能になり、逆に夕方の5時台は谷を上がるのが困難になったのです。
「見てみんさいや」とコウメさんは多作さんに会うたびに勝ち誇ったように語ったものです。「谷の生活を乱されてしもうたが」
「じゃけどコウメさん、便利にもなったんで」と多作さんは弁解する他ありません。「車で街を出るのは今までの半分の時間ですむからのう」
「わたしは静かな谷を返してほしい」
「しかしコウメさん、世の中の流れには逆らえんものど」
「誰のための世の中な?」とコウメさんは納得しません。「谷の者がえらい目に遭って、得をするのは誰な?.ゴルフ場がいくら儲かろうと、わたしらには関係がなかろう。車があるんじゃから、街へ出るのに少々遠回りしてもよかろうに」
「あの時、コウメさんがしっかりと主張してくれりゃよかったなあ」と、多作さんは半ば降参顔でした。「そうすりゃ、結論も変わっていたかも知れん」
「まあ、ええ。仕方のないことじゃ」と、そう言われるとコウメさんもそれ以上、追求しませんでした。
しかし、朝夕の交通量が増えたばかりではありません。谷の奥にある、赤松の林に囲まれて静かで美しかった緑池の周りにゴミが投棄されるようになり、中古の電気製品やら家具やら、あるいは布団や毛布の類いまでが、丈高く茂った草を薙ぎ倒して大量に転がるようになったのです。これには谷の人々も驚き、いくら立て札を立てて警告してもムダでした。そこで仕方なく、畑仕事が日課の谷の老人たちが年に何度か集まり、小型トラックに廃棄物を積み込み、街のゴミ処理場まで運んで行くようになったのでした。
「わしらはゴミのようなものかも知れんなあ」と多作さんは嘆息したものです。「長生きしても、若い者の金を使うだけじゃからのう」
「どういうことな?」とコウメさん。
「わしらの年金は、今の若い者が支払う仕組みなんよ。その若い者が老人になると、若年層が減って、今ほど年金が貰えんらしい。わしらには都合がええが、おかしな制度には違いなかろう」
「難しい理屈じゃのう」とコウメさんは顔をしかめました。
「毎日のようにゴミの片付けをしてると、そんな気持ちにもなるんじゃが」
「しかし、わたしは自分をゴミじゃとは思うとりませんで。若い者に迷惑をかけとらんしなあ」
「あんたはよう儲けとるから」
「夫婦2人でやっとるから、人件費が浮く分、割安でさばけますんじゃ。おかげで、この不景気なご時世でも糸の注文が絶えません」
「なるほどなあ」
「儲かるようにと、真心を込めて撚っとりますがな」とコウメさんはいささか反り返って笑うのでした。
実際、かつては谷のあちこちで動いていた撚糸工場も今はコウメさんのところだけになっていたのです。繊維業はどんどんアジア諸国に市場を奪われていって、それでも幾つか例外的に残り、コウメさんの工場もその1つだったのです。
そして、谷の南の山に浄水場を作る計画が隣の街から持ちかけられた時、多作さんの予想に反して、今回は誰ひとり反対しませんでした。自分たちの谷にも新しい水道管を回してもらえるゆえ、もう水不足のたびに水道が出なくなることはないと、誰もが喜んだのです。そして浄水場を巡って山を越える道路が作られることになり、それは、北の山から下りてくる道路とちょうど谷の中程で接続され、中池の土手の下に広々とした交差点が出来ました。まだ浄水場が未完成で開通していませんが、いずれ信号機が必要になるだろうと谷の人々は折ある毎に口にするのでした。
「少なくても朝晩は信号がないと危ないぞ」と軍治さんが夕飯の時に言うと、
「要らん、要らん」とコウメさんは顔をしかめました。「こんな場はずれなところに信号があっても、わたしらも不便じゃし、車の人もたまげるだけじゃろ」
「じゃけど、危なかろう」
「本当に危ないと分かってから、取り付けてもらえばええが。初めから余分なことはせんに限る」
「それもそうじゃのう」
その間にも南の山から木々が伐採され、頂上が削られて均され、大きな穴が掘られて巨大な鉄の筒が埋められ、芝生が植えられ、桜の若木も植樹されて、将来は水道公園として整備されるとのことです。毎日のように北の山にある墓地に墓参りに行く多作さんは、墓と地続きに南の斜面に広がっている段々畑に立って、工事の進捗状況を観察するのが日課の1つになっていました。
雑木が伐採され、新しい芝生に日の光が降り注いでいる、眩しいほどに明るく清潔な南の山肌を眺望しながら、
「これでよかった」と多作さんはつぶやくのでした。「もうわしらの時代じゃないのだから、次の世代に少しでも魅力的な環境を残しておかんといけん。そうすれば戻ってくる者も増えるかも知れんしな」
そして畑の中で背伸びして大きく朝の空気を吸い込み、バケツと柄杓を取りに墓に戻ると、いちばん奥の墓の辺りで何やら閃いています。悪い予感に促されて行くと、やはり、墓石と墓石に渡されたロープに黄色や白やピンクなど色とりどりのブラジャーやパンツが40〜50枚も吊るされ、朝の風にヒラヒラと明るく舞っていたのです。
「またやってくれたのう!」と、多作さんは思わず叫びました。「自分には先祖はおらんのじゃろうか?.独りで生まれたつもりなんじゃろうか?」
ロープはちょうど、常日頃何かと対立することの多い泰蔵家の墓石と軍治家の墓石に括り付けられ、パンツやブラジャーやストッキングが1つ1つ、クリップで留められていました。昨夜は満月でしたし、前回も確か満月の翌日でしたから、下着泥棒はある程度収集すると、山の中の夜の墓場に車で秘かにやって来て、大量な荷を背負ってわざわざ狭く長く急な石段を前屈みの姿勢で息を切らしつつ登り、墓石にロープを回して強く張ると、1つ1つ丁寧にクリップで留め、暗い夜空に高く懸かった月の光を浴びて銀灰色に吊るされ揺れている、フリルや襞や絵柄の付いた奇妙な獲物にしばし空しく酔い痴れていたことでしょう。
「やれやれ」と多作さんは嘆息しました。「見つけんのが一番じゃが、見つけたからには始末せんわけにはいかんしなあ」
そしてロープを外してヨイショと背負って降りかけると、急な石段を「えいさ、えいさ」といった掛け声と共にコウメさんが上がって来ました。
「お早うさん」と多作さん。
「お早うさん」とコウメさん。「今日はまた早いが」
「これから出かけんといけんところがあってなあ。早う墓をすませたんよう」
「あんた、背中に何を持っとるんな?」とコウメさんは興味深げに多作さんの後ろに回り込みました。「あれまあ!.こりゃまた、どうしたんな?.また下着を捨てとったんな?」
「お宅の先祖が喜んどったで」
「ははは!」とコウメさんは大きな声で笑いました。「わたしはここでコンドームを拾うたことがある。大きな道路が出来て、本当にろくなことがありゃせん」
「しかしまあ、先祖をどう考えとるんじゃろう?」
「世も末じゃがな!」と、赤銅色の顔に深い皺が刻まれ、小柄なコウメさんは、背を反らせて快活に断言するのでした。「若い人には好き勝手にやってもらいましょうや。わたしは知らん。しかし、因果応報と言うからなあ。今の人がいずれどうなるか、墓の下でゆっくりと見物させてもらいますが」
「いや、あんたは長生きする」と、多作さんもコウメさんの活気に染まって陽気に応えるのでした。「墓の下で見物するんはわしの方じゃろう」