光の画家
 
 京都の朝は雨でした。研修会館の広い窓の外に雨粒が滴り、雨に煙る京都の街が広がっています。テーブルの上に用意されたペットボトルのお茶を休憩時間のたびにカップに汲んで喉を潤しながら、わたくしは2日間の研修の終わるのを待っていたのです。
 全体会場での最後の質疑応答となり、昨夜の懇親会で話し込んだ熊本の住職が、「幼稚園を経営して経済的に余裕のある人が、月忌参りのお布施は要らないと言うものだから、周りの寺が迷惑しています。どうすればいいですか?」と質問すると、ドッと笑いが起こりました。寺の外に自宅を構えて寺に通い、今後どの寺もそうなるだろうと予想している、いかにもビジネスライクに宗教を考えている人にふさわしい質問には違いありません。
 「お布施を貰うように勧めてください」と、卑近な質問に面食らった講師は、自らの役割を忘れたような表情で答えました。「お聞きした限りでは、とうてい宗教的信念から出た行為とは思われません。単に生活に困らないというだけの話でしょう」
 熊本の住職はまた、「得度もせず教師の資格もないのに寺を運営している人がいますけれど、構わないのですか?」とも問うのでした。「学校の先生とか医者だと、明らかな法律違反ですよね。寺はいいのですか?」
 「それはみなさんで教え諭してください」と、これまた講師は興ざめした顔で答えるのでした。
 そして、正面のテーブルに着いている講師たちの背後で光る金仏壇の本尊に向かって読経したあと、解散となりました。小雨の降る戸外に出たわたくしは、傘をさして阿弥陀堂に行って、合掌礼拝し、瓦の葺替えのために巨大な仮屋根にスッポリと覆われた御影堂を横目に堀川通りに出、歩いて京都駅に行きました。
 土曜のちょうど昼時の駅周辺の食堂はどこも混雑していて、駅前の地下街を歩き回り、うどんか蕎麦かスパゲティか、あるいはお好み焼きでもよかったのですけれど、その手の店はどこも若い客を中心にいっぱいです。結局、駅ビルの伊勢丹をエスカレーターで昇って、8階で見つけた和食店に入りました。広いガラス窓に沿ったカウンター形式の席に着くと、すぐ目の前に白い京都タワーが聳え立ち、東本願寺の大伽藍と緑濃い木立ちが見え、三方を山に囲まれ灰色の雲の低く垂れ込めた、ビルの集積地のような京都の街が眺望できました。どんな街であれ、現代日本の街は鉄筋コンクリートとガラスで組み立てられた、幾何学的な外観を免れえません。ひとたび路地に足を踏み入れると、そこにはまだかつての面影が残っているけれど、それもまた、屈強な鉄とコンクリートに保護されてのことなのです。
 ビールを飲み、うなぎ飯を食べて腕時計を見ると、すでに1時を回っています。少し遅れたかと、わたくしは急いで駅に降り、JR京都線に乗って、まず大阪駅をめざしました。レールの継ぎ目毎にゴトンゴトンと小さく揺れつつ疾走する、無表情な顔の揺れる電車の外に広がる都会の光景は、10年、20年前と変わりません。さらに30年、40年とビルや車や道路に囲まれて生活する人が今や日本人の大半だと思うに付け、確かに自分の人生は少数派なのだと、わたくしは改めて感慨を催すのでした。そもそも、寺に生きることは少数派に違いないのですけど、それを本当に後悔していないのでしょうか?.雨に曇る都会の西の空であっても、そこに浄土を夢見ることができるのでしょうか?
 大阪駅で環状線に乗り換え、天王寺駅に着いたのは2時でした。改札口を抜けて公園口に向かうと、駅構内の太い柱の前で2人の少年がフェルメール展の入場券を売っています。
 「美術館では売ってないの?」とわたくしが尋ねると、
 「売ってますけど、こちらの方が割安です」と少年の1人が答えます。
 「人が多くて入れないことはない?」
 「それはありません」
 少年の手から前売り券を買い、いったん地下街に降りて、仕切りのない、明るく開放的な店々を抜けて地上に出ると、フェルメール展を開催している美術館のある天王寺公園の前でした。それにしてもフェルメールと天王寺というのは、また何と奇妙な取り合わせだろう!.とわたくしは感じたものです。小雨の降る公園のどこからか猛烈な音量の、カラオケ大会か何かの演歌が流され、緑の林の上に高層ビルが居並ぶ下を歩きました。そして、眺望の開けた美術館の玄関前に到着すると、白い雲の層の低く垂れた北の空に通天閣が突き出していたのです。それまでの道のあちこちに『青いターバンを巻いた少女』を刷ったポスターが貼られ、フェルメール弁当まで売り出されていました。さすが!.とわたくしは感嘆せざるを得ませんでした。儲けになるなら何でも利用しようという商魂は、見上げたものだ!
 それにしても大した人気です。美術館の前に延々と続く列に加わり、館内に入るまで1時間、待たなければなりませんでした。見に行こうかと迷っていた妻に、少なくとも休日はやめるようにアドバイスしようと、鑑賞客が吐き出されるたびに少しずつ前進する列の中にいて、わたくしは思いました。
 やっと館内に入ると、傘は傘立て、手荷物はコインロッカーに収めるように指示され、わたくしは携帯オーディオ機器のサービスを受けることにしました。それは、絵画を指定してボタンを押すとその画の解説をイアホンで聞けるもので、確かに便利です。もっとも、館内でもまた待たされ、その時間つぶしとしても便利でしたけれど。
 『フェルメールとその時代』と銘打たれている通り、フェルメールの作品は習作時代の1点を含めてもたった5点で、展示の多くは彼がその生涯を送ったデルフトの画家たちのものでした。そして彼の4点の作品が展示されている部屋に到着すると、人の流れは俄かに滞り、1つ1つの画の前が猛烈な人だかりで、遠慮していてはいつまで経っても人々の黒い頭を眺めるばかりです。
 いずれも意外な小品ばかりで、そもそもフェルメールの作品は30数点ですし、大作といっても1メートル前後のサイズでしたから、大画家と形容するのは適当ではないかもしれません。あるいはそのことが、重厚長大より軽薄短小を好む時代の風潮にマッチしたのかもしれません。いずれにせよ、確かにこれは複写ではない、本物を見ているのだという喜びは大きく、肩と肩を押し合い人いきれにむせびつつ無理やり画の前に出て行くのが苦になりませんでした。
 モールの綱が渡された地点まで近付き、身を乗り出して、まず『天秤を持つ女』を目前にすると、真の芸術を目にする喜びが改めて沸き上がりました。実に繊細な画家の手つきが鮮やかに想起され、写真と絵画との違いが改めて実感されたのです。カメラが発明されて肖像画が不要となり、西洋絵画は大きな打撃を被ったといいますし、それが抽象性の強い現代美術を切り開く契機となったことは事実でしょう。ところが、「見たように描く」ことが1つの常識であった17世紀においてすでに、フェルメールの絵画は必ずしも見たままの世界ではありませんでした。
 そこにわたくしは「精神」を感じ、感動したのです。決して視覚に忠実ではないがゆえに、テーブルの上に散らばった真珠か金鎖かの光の玉が、まさに「珠玉の名品」の光芒を放っていたのです。
 『リュートを調弦する女』も、『地理学者』も、そしてオランダのモナリザと称される『青いターバンの女』も実に素晴らしく、事実、その人だかりはルーブル美術館の『モナリザ』の前にひしめき合う人々の感嘆の表情を連想させるのでした。
 それにしてもどこが写真と違うのかと、入口で買った分厚い資料を開き、フェルメールの作品を見ると、やはり明らかに違います。振り返ると、三方の壁に本物が掛かり、両手に広げた写真と何が違うのか、わたくしはどうにも不思議でした。むろん、誰の作品であれ本物の方がよいに決まっていますが、これほど本質的な差異をもたらすものはいったい何でしょう?.その時改めて、『光の画家』というフェルメールに冠せられた称号を思ったのでした。
 あるいは大胆に塗りつぶし、あるいは繊細に描き込み、画の焦点から外れたところに真珠とか金鎖とか首飾りとか、光の玉を点在させることは、フェルメールの得意とする技法でしょう。そしてそれこそ、わたくしたちに光を感じさせる最も自然な方法ではなかったでしょうか?.さらに言えば、それは「珠玉の名品」たりえても、いわゆる「大作」には不向きな製作態度なのかも知れません。
 「すみません」と横から一人の婦人が声をかけました。「見えないんですけれど」
 「えっ?」と驚いたわたくしが振り返ると、壁に大きなパネルの解説が掛けられていたのです。
 「すみませんでした」
 「いいえ」と婦人は微笑しました。「ご熱心ですね」
 「本当に凄い。傑作に触れた喜びを与えてくれる画家ですね」
 「見飽きませんものね。わたしもここを1時間近く離れられないでいるんです」
 「芸術の力を再認識しました」
 「わたしもです」
 感動を共にする人に出会えたこともまた、フェルメールの力に相違ありません。軽く会釈して婦人と別れたわたくしは、また『青いターバンの女』の掛かった壁の方に引き寄せられていくのでした。