オリオンの三つ星
 
 イスラエルのテルアビブ空港で、パレスチナ解放を叫んで3人の日本の若者が銃を乱射し、2人が射殺され、1人が逮捕され、また、その前の訓練中にレバノン沖の海でもう1人が死亡した時、死んだ3人は本人たちの望み通り、オリオンの三つ星になったかどうか、誰にも分かりません。しかしすぐ後、京都の大学にある本堂みたいな木造造りの学生劇場の大屋根が地中海とも夜空とも付かぬ鮮やかな青のペイントで塗り上げられ、黄色い星のマークが3つ描かれたのでした。
 その年は暑い夏でした。今年の夏は帰らないと実家に連絡した秋山は、独りで過ごす時間の流れにただジッと思いを凝らしていたのです。4畳半の部屋に独りで起き、独りでパンと紅茶の朝食を取り、表に出ると、秋山の下宿と四つ角を隔てて反対側にある下宿の、万里子の部屋の窓が開いています。予定通り帰って来たんだなと、ただそれだけを心に仕舞い込んだ秋山は、農場の広がるキャンパスを歩き、車の往来の激しい通りを渡って大学の図書館に行きました。朝の光の射し込む館内はまだ学生が少なく、談話室の新聞を読み、エアコンの利いた閲覧室で昼近くまで読書するのが日課だったのです。
 「やあ」と肩に手をかけられ、振り仰ぐと矢島が笑みを浮かべて立っていました。「勉強中か?」
 「いや、暇つぶしだ」
 机の上の本を無造作に取り上げ、ぱらぱらとページをめくった矢島は、
 「フランス語やないか」とちょっと驚きました。「しかもプラトンというのが面白い」
 「ギリシャ語で読めといわれても、無理だから」
 「あなた、確か哲学志望だったよね」
 「挫折したけどね」
 「それで見果てぬ夢を見ているわけか」
 矢島のいつもの皮肉な調子も、しかしその時の秋山には気になりませんでした。ただ、閲覧室の静寂が再び2人を包んでいくのを感じるばかりだったのです。
 「少し話さへんか?」と矢島に誘われ、
 「ああ」と答えた秋山は、廊下に出るとソファに並んで座りました。首を傾げてタバコに火を点けた矢島は、
 「就職するんか?」と問います。
 「多分」
 「故郷に帰るんか?」
 「分からない」
 「フランス文学やったかて、採ってくれるところないやろ」
 「ああ」と秋山はまるで他人事です。「あなたはどうする気なの?」
 「大学院や」
 「難しくない?」
 「哲学科は楽なんや。今時、哲学しようなんて奴、余りいいへん。キミかてそやろ?」
 「そう言えば、そうとも言えるな」と秋山は答え、1年近く会わなかった2人の心の隔たりを再確認するのでした。
 「じゃまた」と手を振り階段を下りていく矢島の後ろ姿を見送った後、もう閲覧室に戻る気のなくなった秋山は、図書館を出て広い道路を渡ると、ちょうど正面に見える学生劇場の大屋根が鮮やかな青色に化粧直しされ、黄色い大きな星のマークが3つ描かれていました。額に照りつける正午の日の光は暑く、学生食堂はエアコンが利いて涼しく、夏休みにもまだ大学にいる若者に混じって食事した後、秋山は鴨川を歩きました。
 川面の上に広がる空は熱気を孕んで光が乱反射し、入道雲が白い渦を巻いて静かに漂っています。川上で2つの川が合流しているデルタ形の木立の中から暑い蝉の声が川風に乗って降りてきて、秋山の目前を通り過ぎていくのです。対岸に見える総合病院の病棟の間に覗く御所の緑濃い木末にも、光の乗った風が音もなく騒いでいます。
 鼻の頭に光る汗の玉を振り払い、シャツの下に噴き出す汗の香を散らした秋山は、川下に向かって歩きながら、川底の丸石の上を光を散らし飛沫を立てて流れる水の音にも、川面を吹く涼しい風にも染まらない自分を見つめていたのです。川沿いの道路を走る車の音はただ耳の回りを通過していきました。繁華街の空に2重3重に幾何学的な文様を描くビルもまた、彼の視野に囚われ、ジッと静止しているばかりです。岸に上がって柳並木の枝垂れた木の葉に触れてみても、緑に光る生命を透かせてヒラヒラと軽く、少しも存在感がありません。
 これでいい、これがおれの求めていたものだ、もう決して寂寥感に襲われることはなかろう、と秋山は確信しました。そして、東山に向かい、哲学の小道を歩いて下宿に帰ったのでした。
 そして、部屋に入って窓を開けると、道端に万里子が立っていました。体の線のくっきりと浮かぶ、細い青の横縞を刻んだシャツを着て、ジーパンの下の足はサンダル掛けでした。
 「どこへ行ってたのよ?」と万里子は白い頬をムッと膨らませました。
 「散歩」
 「今日帰って来ること、分かってたでしょ」
 「うん」
 「意地悪!」
 それには答えず、
 「もう飯、食った?」と秋山は聞きました。
 「まだに決まってるじゃん。ミノルくんを待ってたのよ」
 「うん」と答えた秋山は、開けたばかりの窓をまた閉め、万里子の待っている表に出ました。
 「どこがいい?」
 「どこでもいいわ」
 「王将に行くか?」
 「いいわよ」と、小柄な万里子は胸を張って秋山を仰ぐのでした。「わたし、いろいろ考えたことがあるから、ミノルくんにも相談したかったんだ」
 青い愁いを含んだ夕闇の降りてきている静かな住宅街を歩き、広い通りに出た2人は、車の多い交差点を南に渡って、赤い暖簾の掛かった中華飯店に入ったのでした。
 そして再び表に出た時、紺青の空に壮麗に天の川が架かり、黒く東に横たわる大文字山をユラユラと懐中電灯の光が移動していました。
 「ああ、今日は大文字の送り火か」と秋山がつぶやいても、万里子はうつむいたままです。2人は互いに足の行く向きを決めかねてたたずみ、秋山が下宿に向かうと、半歩後を万里子が付いてきました。
 コンクリートで固められた深い疎水の底を流れる水の音が冷気と共にかすかに立ち上がる、外灯が木立に隠れがちな暗い小道をサンダルの音をヒタヒタと残して、2人は歩きました。そしてまもなく、暗い木立の向こうの星空に向かって光の筋が幾つも延び広がってやがて消えていく下に、異様な喧騒の気配が露わになって来たのです。
 「何やってんだ?」と秋山は独りごちました。
 「あなたは何も知らないのね」と万里子はうつむいたまま言いました。「今日は幻夜祭じゃん」
 「幻夜祭?」
 「そう。中東で死んだ学生のための追悼コンサートよ」
 「ほう」
 「自分独りの観念の世界の閉じこもってて、世の中に対する関心が失せたんじゃない?」
 「そうかも知れない」
 歩みを止めた万里子は、
 「最後のお願いがあるの」とキッパリとした口調で言いました。「聞いてくれる?」
 「ああ」と秋山もまた立ち止まり、振り返りました。「何だ?」
 「ちょっと寄ってみたいの。一緒に行かない?」
 「うん」
 木立に被われた暗い坂を降り、壊れかかった白塗りの木の門をくぐって大学キャンパスに入り、陸上競技用のトラックを持った広いグラウンドに行くと、照明塔のカクテルカラーに照らされたグラウンドが闇を孕んで白々と浮かび上がり、多くの若者が集っていました。そしてその向こうに臨設舞台があり、両サイドにある巨大なスピーカーからガンガンと音が吐き出され、カクテルカラーとフットライトに照らされた舞台の上に濃い陰翳のある人影が揺らめいています。マイクスタンドを振り回して絶叫する若者もいれば、ギターやドラムで伴奏している若者もいたのです。
 舞台の下で長い髪を振り乱し、踊り狂う若者たちもいましたが、その周囲にそれ以上の数の若者がぼんやりと立ち尽くして見物しています。さらにグラウンドを囲んでいる木立の暗がりに座り込んで肩を寄せ合っている男女も少なくありません。
 「座らないか?」と秋山が問うと、
 「座って待ってて」と万里子は応え、真っ直ぐ独りで舞台の方に歩いていきました。
 「ふう」と溜め息を吐いた秋山は、結局、その場に立ち尽くす他ありませんでした。
 それは実に、グラウンドの上に広がる夜空が共鳴器になったかのような猛烈な喧騒でした。全身をその音の津波に包まれていると、静かに動く黒い人影がいよいよ現実味を失い、舞台の上の若者もまた、その非現実感に空しく抵抗しているかのようでした。
 そして突然、全ての明かりが消され、グラウンド全体から一斉に歓声や悲鳴が上がり、若者の数の多さが改めて実感されるのでした。そして、
 「同志の霊よ、安らかなれ!」とマイクを手にした若者が絶叫すると、東の空を遮っている黒い山腹から火の粉が立ち上がり、ユラユラと揺れる大の字が夜の底に横たわり、黒煙を上げつつ赤く浮かび上がるのでした。
 夜を照らす炎の美しさに秋山も我を忘れましたけれど、舞台から四方八方に向かってまた沸き上がった叫び声に促されて、その視線を地上に戻しました。すると、ククククックー、ココココッコーと鶏たちが筋張った足で地を蹴って猛烈な勢いで駆け巡り、夜空に向かって空しく羽ばたくのでした。それは、舞台の下の檻に隠されていた鶏たちが、一斉に解き放たれたのでした。やがて鶏の群は四散し、忘れた頃またカカッカーと白い羽を広げ、あるいは芝生の上で抱き合う若者のそばに近寄るのでした。
 そして、再び痙攣的な演奏が再開され、淡いフットライトを浴びて舞台の上で踊り狂う若者の何人かは全裸となり、黒く勃起した男根からピュッピュッと白濁した糸筋を夜に引いて酔い痴れるのでした。
 それら全てが、秋山にとってガラス越しに見る別世界でした。全てが見え、聞こえ、夜の香を嗅ぐことさえ可能でしたけれど、所詮、一瞬の戯れに見えたのです。
 やがて秋山のもとに戻ってきた万里子は、
 「分かったわ」と言いました。「別れましょう。あなたは死ぬために、わたしは生きるために、それぞれ別の道を進むしかないのよね」